台詞の空行

2-15)叶える子

 叶子が顔を上げる。長い髪がその動きにつられるように揺れ、睫の下で黒い瞳が星空を湛えて輝いている。

 横須賀の腕が、ざわりと虫が這うような感覚に強ばった。あの銀を、横須賀は見たことがある。

 細い、細い手首を守るように存在した、銀だ。

「おねーちゃんはね、もぐもぐいっぱい。まえからなかをもぐもぐしてたからね、だいじょうぶだったの。おねーちゃんがごはんでね、おくすりになれたの。なくしちゃったけど、ちゃんとおくすりもういちどだよ!」

 うれしそうな笑顔と、あの名前も知らない痩身の女性が重なる。横須賀の膝が床に付いた。液体が服に染み込み、しかし色は付かない。

「このおくすりね、やなこともぐもぐしてくれるんだって。きょーこはわかんないけど、おにーちゃん、ねむれるようになるよ」

 差し出されてもそれを飲むことどころか、濡れた膝から水の中に飲み込まれるような恐怖が横須賀にまとわりつく。

 広がる緑の液体。ごはん。それらが叶子の中では繋がっているはずなのに、横須賀の中では結びつかない。

「どうし、て」

「わかんないけどね、かみさまのおつかいがもぐもぐしてくれるんだって。だからおにーちゃん」

 ぐい、とさらに突き出され、横須賀が後ろに引く。怖い。その恐怖が液体なのか、目の前の少女になのか、はたまた両方か。考えた横須賀は、しかしそのどちらでもないことを悟る。

 怖い。自身の選択が、人を助けるに足りるわけのないことが怖い。

「やっぱりおこながいいの?」

 叶子がそういって、スプーンを一度床に置いた。そうしてべっとりと緑色に塗れた左手で、革手袋を掴む。服に色を付けないそれは、なぜか肌には色を成している。

 するり、と細く白い指先が現れ、叶子は自身で自身の指先を眺めるように横須賀の前に手のひらを掲げた。

「まだねえ、こっちはないないだし、できたらむきむきしておとーさんにあげるから、おにーちゃんにこっちはだめなの」

 ひゅ、と横須賀の喉が鳴る。どういうことか聞こうとした横須賀は、しかし聞かずとも、見ずとも、わかってしまった。

 横須賀はよく見る。見ることは得意なんだな、と山田が言っていた。実際のところ得意かはわからない。ただ見るだけだから、それは横須賀にとって特別でもなんでもなかった。

 だからその想像はやはり特別でもなんでもなく、当然のように繋がってしまったのだ。

「つめ」

「うん。ここにねーおくすりがたまるの。それをむきむきするんだけどね、いたいの。でもきょーこがんばるの。おとーさんほめてくれるの」

 ゆるりと笑う叶子の目は遠くを見るように細められ、うっとりとしている。幸せそうに、それが一等貴重で有り得ないくらいのさいわいとでもいうように。

 横須賀の指先は、白い。叶子が横須賀に向き直った。

「きょーこ、とーってもいいこでしょ?」

 かくれんぼと言った叶子の無機質な顔が、叶子の笑顔と並ぶ。

「叶子ちゃん」

 ひきつる喉で、横須賀はその名前を呼んだ。白い、汚れていない方の手のひらを掴めば、叶子が瞬く。のどが渇く。

「出よう」

 横須賀の言葉を、叶子の瞳が飲み込む。黒い瞳の中で青ざめた青年が硬い表情をしていた。

 叶子が首を傾げる。

「でる? なんで?」

「だって叶子ちゃん、痛い、よ。それは、だめだよ」

「でも、おとーさん、みてくれる」

 悲痛な横須賀とは対照的に、叶子は静かだ。

「でたら、おとーさんは、みつけてくれない」

「俺が」

 俺が見つけるから。そう続けようとした言葉は、叶子の黒に押しとどめられた。

 横須賀が見つけて、なにになるというのか。叶子が求めているのは父親だ。せめてその空白を埋められるような人間であれば違ったのだろうが、しかし横須賀はその空白に触れることなど出来ないし、その枯渇する思いを変えられるとも思わなかった。

 生まれた赤子が最初に触れる社会は、家族という。その家族に求めた声が届かないことは、存在しないと言われるようなものだ。存在しないものが、なぜ、彼女に言葉を渡せるのか。

 枯渇したその人に、横須賀はなれない。

「おにーちゃん、いたいいたい?」

 叶子が横須賀をのぞき込む。浅い呼吸を繰り返し、横須賀はなんとか自身を宥めた。

「おにーちゃん、きょーこいたいいたいするのね。きょーこはだいじょうぶ。おとーさんほめてくれるし、いいこだからがまんできるし、かみさまはずーっときょーこといっしょだもん」

「かみさま?」

 叶子が胸から腹にかけてを、ゆっくり撫でる。まるで子を成したマリアのように優しげに、幸せそうに。その瞬間の叶子は、年相応に見えた。

 子供と大人がない交ぜになった、優しい女性の顔。そして伸びた指先が慈しむように自身を撫でるのだ。爪のない薬指も一緒に、ただただ優しく撫でる。

「かみさまは、なにがあってもきょーこといっしょ。だからきょーこはだいじょうぶ」

「でも、やっぱり叶子ちゃん」

 痛いよ。そう続けようとした横須賀の前で、叶子が唇に人差し指を当てた。

 空気が歯列から抜ける音。静かにするようにと示す叶子に、横須賀は口を噤む。

「おとーさん、くる。おにーちゃんはかくれんぼ」

 叶子の言葉に耳を澄ませても、音は聞こえない。しかし叶子の言葉を嘘と考えるつもりもなく、横須賀はあわてて立ち上がった。その横須賀の腕を叶子が引く。

「ねんねしてて」

「叶子ちゃん」

 連れ出すなら今しかない。縋るように叶子を見れば、黒い瞳の中で夜が揺らいでいた。

「ねんね」

 有無を言わさない言葉が、夜と一緒に落ちる。安置室のストレッチャーに叶子が横須賀を押した。そのまま乗れば、叶子が布を運ぶ。

 かくれんぼの前に、横須賀はなんとか叶子に向き直った。

「叶子ちゃん、お父さんの名前、は」

「おとーさん」

「……叶子ちゃんの、名字……きょうこ、以外のお名前は?」

「にーやま。おにーちゃん、しー」

 瞳の中の火の粉に横須賀が口を噤む。白い布が掛けられ、視界がふさがれる。

 にーやま。叶子はそう言った。

 その名前は偶然同じだったということで無い限り、新山。この病院の院長のことだと考えるのが妥当だろう。だとしたら安置室の使用状況を把握しているのではないだろうか。そう考えるのに、横須賀の体は動かない。

 扉が開いた音がする。

「おとーさん!」

「まだ始末していないのか」

 低い声が苛立たしげに吐き出された。身動きすら出来ず、横須賀はただその音を聞く。

「ごめんなさい、がんばってたの」

「赤月が勝手に死んだ原因も分からずなんとか薬が準備できたとはいえ……なんで匙など使ってる。お前は本当に阿呆だな」

「ごめんなさい」

「ちりとりかなにかでも使えばいいだろう。どうせ気にする頭もないんだ」

 バカにしたような笑い声が響く。叶子はなにも返さない。

「小型の吸引機を持たせた方が早いな。こい阿呆」

「まっておとーさ」

「汚い手で触るな」

 ぱたぱたと近寄っただろう音の直後、はたく音が響く。叶子はしかし悲鳴も泣き声もあげなかった。

「……かみさまのだもん、きたなくないよ」

 ただ、ぽつりと言葉が落ちる。ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす音が聞こえた。

「ああそうだな、それだけはお前が正しいさ」

 扉を開ける音。それから遠ざかる足音。音が消え暫くして、ようやく横須賀の四肢が動く。

 横須賀には今、なにが出来るのかわからない。わかることは叶子の求めるものがひどく遠いものだということくらいだ。

「出ないと」

 また戻ってきてしまう前に。叶子の気遣いを無駄にする前に。ストレッチャーから降りると、膝が自身の重さに耐えきれないとでも言うように曲がる。倒れかけるのを寸前で耐え、横須賀は鞄からクリアファイルを取り出した。

 クリアファイルの中身を一度鞄に戻し、スプーンに近づく。そうして少しだけクリアファイルの中に緑の液体を入れると、それはまだ緑のままだ。ためしにティッシュにつけてみるとそちらは透明。ティッシュもクリアファイルの別ページにしまい、こぼさないように鞄の中で縦にしてチャックは開けたままにする。銀のベルトに近づけば、やはりその時計は横須賀が見た痩身の女性のものだった。

 手を伸ばし、しかし触れる前に横須賀はその手を戻した。彼女について知るためには必要だろうが、あったものを無くすことをしていいのかわからない。液体のように質量の変化がわかりづらいものではないし――結局横須賀に覚悟がないのだ。選択することができないまま、選ばないという結果だけが残る。

「……ごめんなさい」

 小さく呟いて横須賀はその時計に頭を下げた。右肩に掛けた鞄から腕を通り、右の肺が緑の液体のぼんやりとしたもやのようなものにずくずくと飲まれるような錯覚に細く短い息を吐く。

 安置室から出ても、誰もいない。狭い地下から逃げるように横須賀は立ち去った。

 背中は誰かに握られるように重く、しかし風に押されるように首筋は冷えている。叶子の声は、もう聞こえなかった。

(リメイク更新: