2-14)おすそわけ
松丘に頭を下げて横須賀が叶子について行く。どこに向かうのかと思えば、入り口ではなく階段に連れて行かれた。描かれたフロアの絵を写真を撮ることも出来ずに見送って、階段を軽快に鳴らす音を聞きながら横須賀はきょろきょろと周りを見、叶子を見る。
叶子は連れて行く場所が決まっているのか、真っ直ぐ前を向いて進む。横須賀がその後を着いていくようになっても腕を解かない。
「えっと、どこに行くの、かな」
「おすそわけー」
「おすそわけ?」
なにを。そう聞くように横須賀が復唱し聞き返すと、叶子は得意げに笑った。しかし笑ってもらっても横須賀にはなにがどうなるのか見当が付かない。まさか叶子に薬が取り扱えることはないだろうしそもそも地下に薬局はないのだ。周りを見れば安置室があるくらいで、薬局以外も無いのではないかと思う。
そこまで考えて横須賀は二度瞬いた。個人病院に安置室、というのは意外だったが、脳外科があるのでそういうものかもしれない。だから疑問はそこではなく――一階フロアと比べて地下は思ったよりも狭く感じられたことだ。地下駐車場に圧迫されているのならまだしも、この病院の駐車場は上だけだ。
「ここー」
「え、勝手に入っていいの?」
言いながら腕を解いて叶子が扉を押す。扉の上を見れば安置室3、と書かれており、左手側には使用中の札が出されていた。文字に遮られるように横須賀が止まるが、叶子はお構いなしに中に入っていった。
「おにーちゃーん」
「あ、ごめ、えっと」
扉が支えを無くしゆっくり閉まる中、叶子が不思議そうに呼ぶ声が響く。横須賀はしばし無意味に左右に視線を動かし、結局小さくごめんなさい、と呟くとその扉が閉まりきる前に支えた。
「失礼します」
呟き頭を下げ、扉を押す。中に入ると、叶子が床に座り込んでいた。横須賀を見るとご機嫌に笑う叶子に微笑んで――横須賀は、身を固める。
「これ、」
部屋に充満するのは、甘い匂いだ。林檎の香りが部屋いっぱいに存在して、息をするだけで肺を占める。
そうして嗅覚を奪い去るように存在する香りと、床に広がる緑。
横須賀の喉から空気がひきつったような音が漏れる。
カツカツカツ。
スプーンが床をひっかく音。床にこぼれた緑の液体を革手袋を外した左手とスプーンで叶子は掬っている。
横須賀には、この光景の意味が理解できない。
「できたー」
スプーンを掲げ、叶子は満足そうに笑う。スプーンを下から眺め見て、それから自分の目の前に引き戻すと中身を覗き見る。ゆっくりと右手を回すようにしてスプーンの中を揺らし、鼻を近づけ――それから叶子は、そのまま舌先を浸けた。
赤い舌が緑に染まる。縁日でかき氷を食べたような色の舌を、叶子はそのまま口に含み直す。首を傾げ、喉を揺らし。それが舐めたのだと理解するまでに、横須賀は時間を要した。
「おにーちゃんきてー」
「え、あ、うん」
左手をぱたぱたと振って叶子が呼ぶ。飛び散るしぶきが服につく。けれども何故か色はつかない。
「はい、どうぞ!」
叶子のそばにしゃがみ込んだ横須賀の眼前に、スプーンが差し出された。甘い林檎の香りが強くなる。この緑の液体がおそらく香るのだ。
――横須賀は、この香りを知っている。
「えっ、と」
「これねぇ、おくすりなの」
戸惑う横須賀に、叶子は穏やかに教える。まるで小学生が幼稚園児に大人ぶるような声で叶子は言葉を続けた。
「わるいところをなおしてくれるの。ほんとはきょーこだけなんだけど、おにーちゃんはきょーこのだからおすそわけ!」
えへへ、と笑う叶子は愛らしい。真っ黒な瞳、長い睫。それらが真っ直ぐ、横須賀を見上げている。
無邪気な言葉だ。叶子の実際の年齢からは違和感があるかもしれないが、しかしその話口調から考えられる年齢からは非常に素直で愛らしい好意だ。
「きょーこのおにいちゃん、きょーこのだからだいじにするの」
言葉の後、口元にスプーンが近づく。思わず身を引きかけた横須賀は、それでもぎりぎりで体を押しとどめた。
「おくすり、こぼしちゃったの?」
横須賀が静かに尋ねる。叶子はきょとりと瞬いた後、首を横に振った。
「んーとね、こうなっちゃうの。きょうはきょーこだけだからいいんだけどね、これはじめてのときはもってかなきゃいけなくて、きょーこいれものにいれるの。たいへんたいへんするの。がんばったの」
床に広がる液体をスプーンで掬うのは確かに至難の業だろう。スポイトかなにかがあればいいが、そういった提案をする、教える人間はいないのか。それとも、今日は、と行っているのだから以前はスポイトがあったのか。わからないが、しかし今聞くべき場所はそこではない。
なにを聞けば最善かなど横須賀にはわからない。それでも震える喉をなんとかなだめながら、叶子を覗き見る。
「どこに、もってくの?」
「おとーさん!」
きらきらと目を輝かせ、叶子が答える。
「おとーさんね、きょーこはそのためにいるっていうの。きょーこね、そうするとほめてもらえるんだよ」
上機嫌な言葉は軽やかだ。にもかかわらず、横須賀の胸は石が押しつけられたように重くなる。おとうさん。その言葉を復唱しようにも、それは声にならなかった。
うまく動かなくなりそうな唇を震わせ、横須賀はもう一度口を開いた。
「なんで、そんなことを?」
「きょーこのだから!」
返事はシンプルだった。予想など出来ないくらい突拍子もない状況で、その返事がそこに来る理由は更に理解できなかった。
叶子の。何度も聞いた言葉の意味が、掴みきれない。
「きょーこね、いいこなの。おにーちゃんはっぱいたいいたい。ひとのはしちゃだめ、まもってるの」
まるで話がくるりと飛んでいってしまうように話題がずれていく。けれども横須賀は真剣にその言葉を追いかける。突拍子はない。理解もできない。だからこそ、与えられる言葉を横須賀は受け止めるしかできないのだ。
理解できないからと流してしまうことは横須賀にとって恐ろしい。だから服の裾を握りしめながら言葉を聞く横須賀を、真っ直ぐな黒が見据えている。
「――なのにあのおねーちゃん、きょーこの、いじめた」
さきほどまでの上機嫌な声が、唐突に静かになった。一言一言、はっきりとした不満を込めて叶子が言う。
五秒。理解にかかったのは、それだけの時間だ。この部屋に来て酷かった横須賀の顔から色が消えた。
「おにーちゃんはきょーこの。だからあれは、だめ」
言葉が出ない。赤月の悲鳴、その音すら飲み込んだごぼりとした異音、異臭。崩れる、なにもかも。それらが頭の中でちかちかと瞬き、まわり、横須賀を責める。
「お、れの」
震える声。叶子が瞬く。
「おれの、せい、で」
横須賀の口が大きなその手で覆われる。肩が跳ね、頬が膨らむ。喉を押し広げるそれを吐き出さなかったのは奇跡だろう。動揺しながらもぎりぎりのところで、ここではだめだ、と警告がチカチカと点滅する。
焼けた喉と泣きたくなるような酸味を横須賀はかろうじて嚥下した。もう一度もどりそうなそれに、震えながら水筒を探そうと鞄のチャックをひっかき――しかしそれはまたあの日を連れてくる。
「おにーちゃんくるしい? おくすりあるよ?」
結局鞄を開けることもせず固まった横須賀に、叶子は優しく声をかける。また上ってくる酸を飲み込んで、なんとか叶子を見下ろす。
叶子ちゃんがしたの。その一言が口からでない。はくはくと唇を動かし、横須賀は一度かぶりを振った。
「おくすりにがて? こなのがいい?」
困ったように叶子は言う。一度頭を切り替えるためにした行為だが、しかし確かに横須賀は目の前のものを飲むなんて出来ないので否定しなかった。
「この、おくすり。なんで、おれ、がいじめられたから、なの?」
横須賀がなんとか声を出して尋ねると、叶子は少しすねたように唇をとがらせ、下を向いた。幼い子供が言い訳をする時のような表情をした叶子を見ながら、なんとか横須賀は部屋を見る。
自身のせいという罪悪。それでいて、何故という答えのない状況。だからこそ、横須賀は見ることを意識した。横須賀に出来るのはそれだけだからだ。
「おねーちゃんどろどろにしちゃったの。ごはんのじかんじゃないのに。だからごはんにもできなかったの。おくすりもいっしょにだめになっちゃった。きょーこそれはだめだったの」
部屋の中に遺体は安置されていない。緑の液体はひとところにあり、不思議なことに床などの汚れが混ざっている様子はない。しかしなにもないわけでもなく、ひとつだけ銀色が見えた。しかし、それは叶子のスプーンとは違う。
子供が悪いことを告白するように、叶子がぽつぽつと言葉を落とすのを聞いた横須賀は問いかける言葉を探す。支離滅裂ではあるが、反省しているのはわかった。どろどろはあの崩れた様。薬、はおそらく緑のもの。そうして考えれば、聞けることは一つだ。
「ごはん?」
緑の液体に沈み掛けた銀色を遠目で目を凝らし見ながら横須賀は叶子に尋ねた。叶子が頷いたのを視界の端に捉える。銀色は、小さなベルトのようだ。
「ごはんにすればおくすりになるの。またさいしょから、はいたいいたいなの。ぎゅーでずーんでやーなの」
叶子の言葉は抽象的で理解しづらい。メモをとりたくなるくらい、曖昧な言葉だ。しかし今横須賀に出来ることはメモではない。おそらく紙をだしたら叶子の意識はそちらに行ってしまう。
だからこそ周りを注視した横須賀は、その銀色のベルトが時計だと気づいた。気づいてしまった。
「でもね、ほかにおねーちゃんいたからだいじょうぶだったの」