台詞の空行

2-13)お留守番

「デカブツ、遅い」

「すみません」

 松丘が話しかけるより早く、山田が横須賀に声をかける。慌てて横須賀が距離を詰めたのを山田は確認すると、小山を見上げた。

「痩せぎすの女は見ましたか? 俺は直接話してませんが、こっちのデカブツが話した相手だ」

「見てない。どんな感じの女だ?」

「ちょ、っとまってください。えっと」

 尋ねられ、横須賀は鞄のチャックを開けた。それから慌てて出したのは一冊のノートだ。小山が不思議そうにそれを見る。

 横須賀は自身の記憶をあまり信頼していない。筆圧の高い小さな文字が並んだページを開いて、指先で撫でる。

「小柄な女性です。首のこのあたりにかかるくらいの髪で、焦げ茶色でした。毛先が分かれてたので痛んでいたかもしれません。歳は二十代前半くらいに思えました。指先にはささくれがあって、細い体もあって栄養不足に見えました。
 服は薄桃色のカーディガンと襟首の広いシャツで、白いスカート、です。左手に大きな文字盤の時計があって、金属製の太い銀色のベルトでした」

「待てもう一回」

「はい。ええと、小柄な女性で」

 小山の言葉にもう一度、今度は少し間を空けながら答える。歩きながら一通りメモを取ると、小山は横須賀を見上げた。

「……目撃者全員こうなら楽だろうな」

 しみじみ、と言われて横須賀は不思議そうに小山を見下ろす。メモを書かないと自分の記憶が曖昧だとわかっているので、横須賀にとって自身のような目撃者はあまり頼りにならないのではないかと思えてならない。それ故横須賀は小山の言葉の意図を理解しきれず瞬いた。

「褒めてるんだ。有り難うこれなら多少はマシだな。モンタージュも欲しいが」

「面倒はごめんですね」

「だろうな」

 山田の言葉に小山が大きく息を吐く。病院の入り口手前で、山田が足を止めた。

 新山病院は、木曜日の午後が休診らしい。その為昨日以上に人影はなくなっていた。緊急用の入り口で警備員が少し怪訝そうにこちらを見ているのがわかり、横須賀はぺこりと頭を下げる。

「この時間だと庭は外からですね」

「ああ。さすがに見舞い客じゃないし目立つな」

「まあ中庭なんで探ってるのは普通にバレますが、庭だけならわざわざ表から行く必要もないです」

 病院の周り、というだけでなく、病院の壁に囲まれている場所だ。入院患者からはおそらくよく見える。叶子があの時見下ろしていたように、誰かが見ていないとは限らない。

「……俺一人なら少しはごまかせるかもしれないが、マツはそういうの苦手だからな」

「アタシはパワー型なんですぅ」

 小山が頭を掻くと、唇をとがらせて松丘が答えた。え、と見下ろす横須賀に、松丘は笑う。

 やわらかそうな小さい体を見るだけでは、パワー型という言葉がなかなか結びつかない。少し丸みのある頬をしているが、重量があるようにも見えないので非常に不可思議でもある。

「デカブツは見ての通り……目を考えると居た方が便利だが、まあいい。俺と小山刑事で行くか。どうせさほどかからねぇだろうしな」

「お留守番です?」

「駐車場戻って待っていろ」

 松丘が尋ねると、小山はため息をついて答えた。眉間の皺と山田を一瞥する様から、本意でないことがわかる。はぁい、と松丘が返事をして笑う。

「そういう訳で予定変更だ。そこのと待ってろデカブツ」

「はい。ええとノートは」

「確認だけだ。いらねえ」

「わかりました」

 横須賀が頭を下げると山田が先に行く。お前こっち見ないで歩くのやめろよ、と不満を言いながら小山が追うのを見送って、横須賀はもう一度警備員に頭を下げた。

 意外にも警備員はもう横須賀たちを見ていないようだったので横須賀の一礼はあまり意味が無かった。松丘が小山と山田を遠目に見てくすくすと笑っているのを聞きながら、横須賀は再度あたりを見渡す。

「じゃあ、戻ろうか」

「あ、はい」

 松丘の言葉に横須賀が頭を下げる。松丘は山田よりも大きいが、それでも小柄に見えた。とはいえ、女性としては平均身長だろう程度なのでそこまで小さいわけではないのだが――横須賀にとっては随分と小柄で、故に横須賀はいつものように背中を丸め松丘の声を拾う。

「横須賀君はさぁ」

 松丘の声は穏やかで、少し高い声だ。跳ねるように楽しげな声は平塚の芝居がかった調子より自然で、山田の平坦な声より楽しげである。小山の声は山田に対する不満を含んでいたので平時の調子がわかりづらいものの、それでも横須賀自身よりも落ち着いていて、日暮よりもよほど感情の起伏がわかりやすいものだった。

 二人はある意味で自然な調子のようでもある。そうしてその調子のまま松丘に名字を呼ばれ、横須賀は続く言葉を背を丸めたまま待った。

「昨日の事件の後すぐで、来たかったのはわかるけど大丈夫そう? ちょっとくらい待ってる間寝ててもいいよー?」

 間延びした疑問符でどんぐりの瞳が横須賀をのぞき込む。眠いでしょ、と自身の下瞼を指で示す松丘は優しい顔をしている。その所作につられるように自分の下瞼を隠すように触れた横須賀は、そのまま首横に右手を寄せるとますます申し訳なさそうに頭を下げた。

「えっと、クマ、は、元々、で」

 すみません。酷く恐縮した調子で謝罪すれば、ぱちくり、と松丘が瞬く。それから慌てた様子で手をわたわたと動かした。

「あーごめんコンプレックスだったかな? アタシもねー見ての通りこのそばかすがコンプレックスだったから気持ちはわかるようんうん。でもねクマならうまくいけば治るかもしれないしもし眠れないなら」

「あー、おにーちゃんだぁ」

 松丘の流れるような言葉を遮ったのは幼いどこか舌っ足らずな少女の声だった。松丘がそちらを振り向き、横須賀は驚きで身を固くする。

 一瞬強ばった体をあわてて動かしてそちらを見れば、当然の顔で叶子がそこにいた。

 叶子の服装は相も変わらず薄いピンク色のトレーナーだ。中央にかかれたイラストもまったく同じで、それから両手に相変わらず革手袋をつけていて――昨日と違うことは、手に持っている物とその服の状態だ。

 厚ぼったい革手袋が掴んでいるのは、大きくて底の深いスプーン。濡れた様子はないのでまだ使ってはいないということはわかる。そしてそのスプーンを握る革手袋から視線を動かせば、服の袖口はじっとりと濡れていた。袖口だけではない、運動靴もよくよく見れば水分を含んでいることがわかる。また、長いズボンの裾も膝小僧も汚れている。色がついてはいないもののその濡れ方は絵筆を使ったときのようだった。けれども、何度見てもその手にあるのは大きなスプーンだ。

「えっと、知り合い? もしかして恋人?」

「ち、ちがいます! えと、知り合いでは、ありますがそんなんじゃ」

 どこか楽しげに聞かれて横須賀の顔が青ざめる。震えた声に松丘はえーざんねーんと笑った。

「おにーちゃんおにーちゃん、きょーこがみつけたおにーちゃんー」

 立ち話をしていた為、松丘と横須賀はまだ病院の敷地内にいた。そんな二人のそばに来てけらけらと叶子は笑い、横須賀に近づく。幼い叶子の様子に松丘は少し不思議そうにその顔を伺いみた。

 叶子の見目は美しい。嬉しそうに笑う頬は紅潮しており、溶けそうなほどやわらかく細められた黒い瞳は愛らしく、体は女子高生特有の、幼さを残したまま大人の色を持っている。

 それでも叶子の言葉や声は、非常に幼い。幼稚園児か小学生のようなまま、横須賀にまとわりつく。

「おにーちゃんねれないのー?」

「え、っと、元々、で」

 松丘の言葉を聞いていたのか、叶子が横須賀をのぞき見上げながら首を傾げる。眠れていないのではなく昔から眠りが浅いだけなんだけれど、とは思うものの、叶子にそこまで言うには至らない。結果困ったように眉を下げて横須賀が答えれば、叶子は一等上機嫌に笑った。

「じゃあおいで!」

「えっ」

 叶子が横須賀の腕を引く。どうすればと視線を巡らせば、叶子はそこでようやく松丘を見た。

「おねーちゃんいいでしょー?」

 大きな黒目がまっすぐ松丘を見据える。日の明かりをめいいっぱい取り込んでいるのに真っ黒な夜色の瞳は、猫の開いた瞳孔のようでもあった。

 その瞳の黒に見惚れかけた松丘は、しかしなんとか我に返った。

「えっ? あっ、いいよー。伝えとくねぇ」

 にこにこと松丘が頷いて答える。手を振って見送る松丘と先ほど山田たちが向かった庭の方を見比べる横須賀の腕を、再び叶子が引いた。

「おねーちゃんいいってー! いーこーうー」

「あ、うん、い、いきます。すみませんお願いします」