台詞の空行

2-4)情報屋

 白い鞄を膝の上に抱え、横須賀は頷いた。チャックに指を乗せるだけで、カチカチと音が鳴る。ジ、ジ、ジジ、ジジジ、ジ。耳障りに感じるような音を立て、鞄が開く。

「トロいんだよ愚図」

 山田が言葉とともに横須賀の背を叩く。げほ、と咳とともに息が吐き出され、浮かんだ妄の緑が霞んだ。

 リンが山田を諫める声が聞こえたのと、山田が鞄からノートを取り出したのはほぼ同時だろう。

「内容は少ないがな。調べとけ」

「はいはいわかったわよ。でも期待しないでね」

「テメェの仕事こなせば十分だ」

 雑な物言いに抗議することなく、リンはノートを受け取った。そうしてすぐ、カウンターの下に隠すように持ってしまう。横須賀の視線がそれを追うのを遮るように、リンは横須賀の頭に手を乗せた。

「がんばったわね横ちゃん。お疲れさま」

「お、れ」

「大丈夫。横ちゃんががんばった結果、ちゃあんと調べておくからね」

 優しい声だ。違う、という言葉が喉をつっかえ形にならない。横須賀は別に頑張ったのではない。助けようと動くことすら、出来なかった。手を伸ばせなかった。届かなかった。ただ、人が崩れ落ちた。何もできないまま、山田が使ったノートだけが残っている。

 ため息が聞こえ、手が離れる。横須賀は元々丸い背をさらに小さく縮めた。

「タローちゃんはこれからどうするの」

「調べる。――アレがなかったにしても、あまりにも出来すぎた招待状だ。そもそも新山のとこがこれからどうなるかもわかんネェのもあるが、ほっとく訳にはいかねえよ。それ以外、選択肢はない」

 リンの言葉に、山田は静かに答える。新山。横須賀がゆるりと顔を上げる。

「コイツが引くならそれでもよかったが、コイツも中々気が狂ってやがる。下りる気はねーようだから連れてくつもりだ。……ああ、車。適当に見繕って事務所にもってこい。免許持ってるからな、いいアシにはなる」

「はぁい。スマホに追加して車ね。車種の希望は?」

「目立たなきゃいい。てめえが乗って壊れねー軽自動車があればそれがちょうどいいかもな。任せる」

「ん、天井高いタイプね。まあすぐに用意するわ。鍵はいつものようにしとくわね」

「ああ。……どうしたデカブツ」

 二人の会話がゆっくり流れていく。山田の言葉に緩慢な動きで横須賀は視線を動かした。

「俺、なに、を」

 それ以上は言葉にならなかった。使ってください。そうは言ったが、いろいろなことが横須賀の遠い場所で流れていく。なにもできなかった。わからないまま、分からないことが起き、どうしようもならなかった。けれども使ってもらうことなくこの場所から去るには、横須賀はあまりに自身になにもなかった。

 山田が横須賀からグラスに顔を向ける。

「これからについては明日事務所で、だな。お前の目はあれば便利だ。何も考えんな。俺がうまく使ってやるよ」

 山田がグラスの水をあおるように飲む。つるりとした喉は、嚥下する様をなんの余剰もなく示す。は、と漏れた息は冷たく見えた。

「リンは俺の情報屋だ。話すなら好きに話せばいい。リンに限っては、何も隠す必要はない」

 山田が椅子から下りる。横須賀が鞄を握ると、顎でカウンター奥を示された。

「酒を飲むなり好きにしろ。俺は先に帰る。てめーと並んで仲良く帰るつもりはねえからな」

「タローちゃん、言い方」

「事実だ」

 は、と吐き捨てるように山田が笑う。カウンターの棚を見ても、普段から酒を飲まない横須賀にはどうすればいいかわからない。

「山田さん、あの」

「あ?」

 山田が横須賀を見上げる。サングラスの奥の表情は判らない。眉間に寄った皺と引き結ばれた小さな口が、不機嫌を伝えてくる。笑う時のつり上がって大きく見える口と違い、引き結ばれたそれは本来のものなのだろうか。話す気がない、と伝えるように、不機嫌そうに下がった口の端。それに怯みかけながらも、横須賀はそれでも山田を見下ろした。

「今日は、すみませんでし、た」

「謝るとかテメェは本当に愚図でクズだな。赤月に執着しようとしたのは確かにテメェのクズさだが、想定内だ。俺の命令をテメェが最後には聞いた分でチャラにしてやる。つーか使われる側が謝るなんて何様のつもりだ」

 凄むような声でひとつひとつ突き刺すように山田が横須賀をなじる。呆れと苛立ちを含んだ言葉に、横須賀は下げかけた頭を上げる。

「すみません。……ありが、とう、ございました」

 山田のなじりへの謝罪をして、それから横須賀は今度は感謝の言葉を小さく絞り出す。頭を下げた横須賀に、は、と吐き捨てる音が聞こえた。笑いなのか嘲りなのかわからないその音は、正しい、と横須賀は考える。礼を言いながらも、横須賀自身その言葉は奇妙に思っていた。使ってもらえたことは嬉しかったが、それでも最後に起きたあの異常な光景が、すべての言葉を奪い去る。

 それでも、今日、という日について横須賀は、他に言葉を持たなかった。赤月のこと以外では、横須賀は使ってもらえていたのだ。追い詰める原因として揺らぐ喉奥がありながら、しかしそれが山田にとっては必要なことだった。そして、山田の示したものを自分は用意できた。そのこと自体は横須賀にとって幸いで、だからこそ矛盾するような結末にどうすればいいのかわからなくなっている。

 山田が指示をしてくれたおかげで、途方に暮れてしまう横須賀はなんとかここにいることも出来ている。そもそも赤月がああなってしまったのは山田のせいではない。なぜか起きた、そのきっかけがノートのように思えるだけだ。自分の罪悪のように感じながらも存在する実感は、結局のところ自分を使った山田の能力を、その正しさをどこかで肯定していた。ここにいるのは、山田のおかげだ。嫌味でも皮肉でもなく、純然と横須賀は思っている。だから横須賀は、礼を口にした。謝罪が許されないのならば、横須賀はそれ以外の言葉を持たない。

「本当、狂ってんな」

 今度は横須賀の言葉を拒絶することなく、山田が今日何度目かの言葉を呟く。狂っていると言われても、横須賀にはわからない。だからただ身を竦めた。

「言った件、忘れんなよ」

「わかってるわ。またねタローちゃん」

 山田がそれで終いだというように背を向ける。相変わらず小さな背はまっすぐと伸びていて、横須賀と真逆だ。振り返らない山田の心内は、サングラス以外からも読みとることが横須賀には難しい。ただ明日がある。それだけしかわからないが、しかしそれだけがわかるお陰で見限られたわけではないと思える。

 結局当たり前のようにそれ以上声をかけることも追いかけることも出来ない横須賀は、酒を飲みもしないままカウンターで背を丸めた。

(リメイク公開: