台詞の空行

2-3)リン

「平気そうならレモン入れよっか。えーっと、ああ名前聞いてなかったし名乗ってなかったわね。アタシはリン」

「あ、申し訳ありません。横須賀一、です。山田さんの事務所で事務員をさせていただいています」

 座ったまま、リンが横須賀に手を差し出す。少しどうすればいいか逡巡を見せた後、横須賀はその手のひらの前に自身の手を差し出した。ぎゅ、と強く手を握られる。それに返すように、横須賀は控えめに握り返す。カウンターの隣席なので、さすがに相手の正面に向かって頭を下げることは出来ずに横須賀は斜め左前側に頭を下げた。

「ほんとタローちゃん珍しい子見つけたわね。どういう風の吹き回し?」

「売れ残りを拾ってやったんだ。愚図だが目だけはいい」

「ふぅん、まあタローちゃんが選んだならいいんだけど」

 手を離そうと力を緩めるが、リンの手はまだ横須賀の手を握ったままだ。それどころか空いていたもう片方の手も、横須賀の右手を包むように添えられる。

 短く四角い爪は料理をするための気遣いだろうか。うっすら塗られたマニキュアは少し暗い青色。入り口にあった看板を思い出し、横須賀はほんの少し眉を下げる。

「ん? どうしたの横ちゃん」

「え、あ、リンさんの爪、青いな、って」

 突然尋ねられ、横須賀はつっかえながらも素直に答える。ああ、とリンの視線が指に落ちる。

「あんまり長くはできないけど、ちょっと色だけね。可愛いでしょ」

「はい、可愛らしいです。お花が好きなんですね。とてもお似合いで、素敵だと思います」

 ふふん、とどこか自慢するように言われて、横須賀は素直に頷いた。ぴくり、とリンの手が少しだけ揺れる。

 お洒落といったものには疎い横須賀だが、それでもその爪が個人の嗜好によるものだと判れば別である。見目の判断は難しくとも、人の感情というものになら横須賀は素直に好意を示すことが出来る感性をしていた。

 看板にリンドウの花。そしてリンという名前。少し暗い青いマニキュア。好きなもので周りを埋めて得意げに笑う人は、幸せそうで横須賀は見るだけで嬉しくなる。元々の顔立ちから覇気はないのだが、それでも素直に横須賀がやわらかく笑えば――手に、くすぐったく髪先が落ちる。リンがその手の上で顔を伏せたからだ。

「なん……なにこの子タローちゃん」

「知るか俺を巻き込むな」

「うっかり私の乙女と雄が同時に咲き誇るところだったわもーサービスしちゃうわよなに飲む!?」

「え、あ、お、お水で大丈夫です」

 手を離したリンから何故か怒ったように叫ばれ、戸惑いながら横須賀は背を丸める。声がそう聞こえるだけで怒っているわけではなさそうだということくらいは流石にわかるが、どう返せばいいかまではわからない。隣の山田を伺い見ても、相変わらずサングラスで表情を理解することが出来ないので、横須賀はまた水をちびりと飲んだ。

「まあ気に入ったならちょうどいい。コイツに仕事用の携帯を持たせるつもりでな。用意しろ」

「あらあらようやくスマホを持ってくれるのね。タローちゃんの代わりに横ちゃんが連絡とってくれるなら便利だし、横ちゃんが欲しければどんなのでも用意するわよ」

「えっ」

 ばちり、と長い睫でウインクをされて横須賀は山田とリンの間で視線を動かす。山田の言葉は願い出るには不遜すぎるが、リンがそれを咎めることはない。それどころか楽しそうに横須賀を見る瞳に、横須賀はどうすればいいかわからなくなる。

 仕事のものに自分の希望を出す発想はなかったし、そもそも横須賀の携帯端末は特に理由があって選んだわけではない。持っているのは型落ちの安い時期に買ったもので、携帯端末に対してなにが欲しいという希望もないのだ。

「普通でいい普通で。そっちで見繕え」

 横須賀の意見を待つリンに対して、山田は面倒くさそうに言い放つ。横須賀自身希望などないし仕事のものなので選んでもらう方が楽なのだが、リンはその言葉に不満そうに声を上げた。

「えー! どうせ使うの横ちゃんだけでしょ。だったら横ちゃんの欲しいの買ってあげたいじゃない。ああ折角だしデートしましょうよ横ちゃん。背大きいから一緒に並んだら映えるわよぉ」

「えっえっ」

 横須賀が困ったように身を引く。山田の方にぶつかると怒られてしまうので半端な姿勢だったが、リンは気にすることなく上機嫌に自身のスマートフォンを取り出した。うんうんそれ素敵じゃない、などと言いながらアプリのスケジュールをスライドする。

「デートいつにする? アタシの都合はねぇ」

「映えるんじゃなくて浮くんだろうどこの巨人の島だ。テメェがやりたいだけで連れ回そうとすんな」

 上機嫌なリンの声を山田が遮る。いまいち話についていけないまま二人の間で置いてきぼりの横須賀は、仲がいいな、と見当違いなことを考えながら水を一口飲んだ。

 山田の言葉に携帯から顔を上げ、にんまり、とリンが笑う。

「あら、タローちゃん嫉妬? 牛乳飲む?」

「いらねぇ伸びるわけネェだろこの歳で今更伸びたらバケモンじゃねえかアホが」

「アラフォーの成長期とか素敵じゃない」

「普通もう朽ちるだけだバケモン。携帯は適当に準備しろ」

「はぁい。ザーンネン」

 山田の舌打ちとリンの笑い声で話はついたらしい。なにやらリンがスマホに文字を入力して、それから横須賀に微笑む。

「タローちゃん携帯使ってくれないし、なにかあったら連絡させてもらうわね。準備できたら届けるわ。渡すときに、アタシのアドレスはいれとくから。よかったら横ちゃんのプライベートアドレスからも連絡ちょうだいね」

「あ、はい」

 リンの言葉に、反射のように横須賀が頷く。隣で山田がふん、と鼻を鳴らした。

「……別に止めねえけど俺の関係ないトコでヤれよ」

「? ええと」

「タローちゃん焼き餅?」

「違ぇっていってんだろ。おいデカブツ、んなことよりアレだせ」

 横須賀の鞄を山田が足で蹴る。う、と短く呻いた横須賀は、小さな黒目を不安げに揺らす。

「今日の資料。リンに渡せ」

「え、でも」

 仕事で作ったものだ。だから、山田のもので、指示に従うのは横須賀にとって馴染んだ行為だ。けれどもアレは、横須賀が追い詰めたものを思い出す。山田の言葉、だけではない。その元は、結局。

「でもじゃねーよテメェに考える権利はねーんだ。俺が出せといったら従え。テメェのような愚図じゃねえ。俺の判断だ」

「は、い」