2-5)事件翌日
* * *
「今日のニュースは見たか」
朝の清掃を終えた横須賀に、山田がそっけなく尋ねる。山田の言葉を頭の中でなぞるように瞬いた横須賀は、片づけに向いていた意識をややあって浮上させた。
「えっと、新聞でなら確認しました。愛知新聞です。すみません、他は見てません」
新聞の内容は発行元ごと傾向が違う。社会情勢を理解するには複数読まなければならないというのは知っていた。
しかし横須賀はさほど経済的に余裕を持っているわけではないし、調べることが好きなだけで正直そこまで熱心な勉強家というわけでもなかった。そうしろ、と言われたのならばそうするが、自主的に行うほどの積極性はない。
そもそも、新聞も普段は見ないのだ。アパートにはテレビすらない。新聞を見たのは、今日どうしても確認したいことがあったからで――横須賀は、表情を陰らせた。
「地元の新聞ひとつ見てりゃ十分だ。調べる必要があるときは調べさせる」
自身の机の上に置き離していた新聞を指先で無造作に叩いて、山田はそのまま片手で広げる。意図して曲げたのでなければおそらくコンビニで買ったのだろうと推測できるような特徴的なU字型の曲がり癖を気にすることなく、その白い手は大ざっぱに新聞を押し開けた。
「で、感想はどうだ」
「感想」
「……新山病院も女の死亡記事もねえ平和な新聞だ」
山田の言葉に、横須賀が体を強ばらせる。細かく指摘するならば事件がなにも掲載されていなかった訳はない。それでもあの異常な光景、言葉にするのも躊躇うほどの恐ろしい光景を示唆する記事は、確かに何もなかった。
まるで自身の罪を確認するような心地で新聞を恐る恐る確認した朝のことが浮かぶ。手のひらがじわりと粟立ち、広がる違和感を指先で押し耐えようとするがそれでも内側から沸くような感覚は消えない。あれほどまでに異常な死があったのに、まるでそれが夢だというように新聞はなにも見せなかった。
助かったのか、なんて考えられるわけがない。だって目の前で、赤月は異様なものになってしまった。助けようとしたのはほとんど本能的なもので、助かるわけがないと言う山田の言葉は正論以外の何者でもなかった。助かって欲しかった、そういう願いを持っていても、横須賀自身それが無理だと頭の端でわかっている。だから山田の手の下に存在する新聞は、存在するのに非常におかしいものとなっている。
「なん、で」
横須賀と山田が逃げた時点で赤月を誰かが発見する筈である。あそこは病院の敷地内だ。あの異常な姿で発見されれば大きな事件になるだろうに、地元の新聞にも関わらず関係する記事はただのひとつもない。
「新山がクロってのが本当だってことだ。今更だがな。ただ病院全体かどうかってのがわかんねーな。新山と取り巻き一部が影でやったのか、それとも病院にいる連中全てで隠匿したのか。目撃者がわかればいいがまあそれは流石に――どうした」
つらつらと考えを口にしていた山田が、ふと言葉を止めた。見上げた先の横須賀は、ゆるり、と自身の手元を見る。
目撃者。赤月とは別の罪悪が、掠れたインクに沿って横須賀を責める。
「きょーこちゃん」
右手を左手で握りしめ、親指の先で手のひらのインクを押し撫でた横須賀が小さく呟いた。山田が少し眉をひそめる。
静かに息を吸う。それから細く吐き出した横須賀は、ようやっと山田を見た。
「叶子ちゃんがいました、かくれんぼの」
「いた?」
怪訝そうに口の端を歪めると、山田が短く尋ね返す。横須賀は頷いて再度目を伏せた。そうしたまま左手の影で隠れた右手の人差し指を小さく動かし、記憶をなぞる。
「声が降ってたんです」
それがどこまで本当か、横須賀には判断が付かない。それでもあの時、声が降っていた。
「だから俺、上を見たんです」
視界に入ったのは長い艶やかな黒い髪。遠目でもわかった。彼女、なのだと。
「……あの時、二階に叶子ちゃんが居ました」
「は?」
山田の眉間の皺がひとつ増える。歪んだ口元がひくついて、それから右手の親指がこめかみを、人差し指が額を押さえる。
「ちょっと待てなんだそりゃどころじゃネェぞあん時のアレをガキが見てたって言うのか」
「多分」
あの異常な光景を子供が見た。叶子にすべき配慮を失念し逃げ出したことに、みぞおちがじゅくりと痛む。心配しなければいけなかった、という後悔と罪悪、そうしてそう考えながらもなにかがうかんだままの感情は、昨晩からあばらの下、みぞおちの少し上にぶら下がっている。
「途中で視線を動かしたのでわかりませんが、あの場所から動いていなければそうです」
ぐ、とこめかみと額を指で強く押すようにした後、山田が顔を上げる。元々身長差がある二人の間は山田が椅子に座り横須賀が立ったままなのも相まってずいぶんな高低差があるのだが、しかしサングラスで視線が判らないにも関わらず、その差をあっさりと埋めるような意志の強さが横須賀を貫く。
「多少記憶違いでもいい、書き出せ」
右手の平を、左手親指が押すようにして手に力が入る。当然の言葉だろう。実際彼女が何故そこにいたのか横須賀にはまったくわからないが、それでもあの場所に誰かが居たのだなら山田が知ろうとしないわけがない。横須賀自身、何故、と思ったからこそ山田に伝えたのだ。
それでも紙を持つ為の両手は、マジックの跡をなぞるだけで動かない。笑う叶子の顔と、ゆびきりの歌が聞こえる。何故かどうにもこれ以上は躊躇われ、それでいて何故叶子があそこにいたのかという不安はそのままそこにあり、何故という疑問への答えをどちらとも横須賀は持たない。
「お前は俺の目だ」
叶子の、という言葉に、山田の声が被る。指先がひとところで止まり、力が入る。
「間違えようが記憶違いだろうが、お前が見た覚えてるモンでいい。取捨選択はこの俺がやる。やれ」
山田の声は静かだ。横須賀はいちど口元を引き結ぶと、短く息を吐いた。
「昨日、帰ってから書き出してあるので、ノートを持ってきてもいいでしょうか」
静かに横須賀が尋ねる。三秒ほどの間があって、それから山田が息を吐くようにして笑った。眉間に寄った皺と持ち上がった口角は、しかしそれだけで終わる。
「テメェは本当……いや、いい。もってこい」
「有り難うございます、失礼します」
立ち上がり、鞄を取りに向かう。横須賀の鞄の中はいつも紙だらけだ。メモもファイルもノートも、なにもない横須賀の代わりにそこにある。
一冊のノートを横須賀は取り出した。持ち歩くつもりはなかったが、それでも必要になるかもしれないと考えて鞄に入れたノートは結局こうやって使われる。使ってもらえることを横須賀は良いことと考えていて、躊躇う理由はなにもない筈なのだ。――昨日のノートも、結局。
念のため鞄を持って山田の前に戻ると、山田は自身のデスクから来客者用の机に移動していた。机には新聞も置かれている。
来客用の椅子と山田を交互に見れば、山田が顎で椅子を指し示した。失礼します、と呟いて座る。
ノートを置き、鞄からルーズリーフと下敷き、ボールペンを取り出す。ノートを広げ下敷きとルーズリーフをその文字の上に重ね置くと、横須賀は目を伏せた。ボールペンの黒をノックして、小さく息を吐く。
「少しお待ちください」
「ああ」
余分な感情を抜いて、昨日ノートに書き出した部分、あの時に見た光景だけをルーズリーフに書き写す。書き写すだけなのに、ペンを走らせれば文字に乗るようにその姿は鮮明に浮かんだ。
降ってきた声に視線をあげた横須賀が見たのは叶子の姿だ。窓に肘をついて、長い髪を垂らしていた叶子の視線は前に向けられていた。腕はレールの上に乗っていて、右腕が外側、左腕が叶子の体側で、左手の上には顎が乗せられていた。下から仰ぎ見る形だったので口元がわかりづらく、それでもまるで歌うように上機嫌な叶子がふと横須賀を見下ろした。
ぱちくり、と瞬いたのが判った。長い睫が爛々とした瞳を隠すのは遠目でもよくわかる。それからまるでかくれんぼで見つかった時のように嬉しそうに叶子は笑った。それでいて瞳だけは爛々と強い意志を伝えてくる。その意志の名前はなにか、と考えていると、小さな唇が動いた。
お、う、お、お。
唇だけではわからなかった、と横須賀は思う。けれどその時横須賀の頭に響いたのは、叶子の声だ。
『きょーこの』無邪気に言い放ったあの声が、少し強い調子で横須賀の頭にその時響いた。満足そうに首を傾げ微笑んだ叶子の意味を考える前に、山田が横須賀を殴って赤月がああなった。
一連の動作はおそらく流れるようなものだっただろう。異常事態に横須賀はそれがゆっくりと見えたが、実際は数秒のことだ。だからそれがどこまで本当かわからないし、そのあと叶子が見ていたかどうかまでは、あの異様な光景に飲まれて横須賀は確認できなかった。