台詞の空行

2-2)BAR.竜胆

「ドレス着ておけばよかったかしら? 普段着でごめんなさいね」

「え、いえ、その、すみません」

 唇をつり上げて笑うその人に、横須賀は頭を下げる。穏やかに笑う声が響いて、どうにも居場所が無く横須賀は視線をあたりに巡らせた。

 綺麗に並んだボトル。先ほどその人が座っていた席の隣には山田の為に用意しただろう水と、特になにも気にする風なくその席に座る山田。

 長身のその人が普段着と言うように、見渡しても開店している様子はない。ただ、確かにドレスではないもののメイクはきっちりとされているし、ゆるいウェーブがかったなだらかな髪はそれだけで美しいと言える。

 頬に添うようにゆるりと巻かれた髪と、首に巻かれたラメ入りの紫がかった薄手の青いストール。そしてストールを巻いてはいるけれど、その下は襟首の広いワンピースのようだ。黒を基調としたモノトーンの太めの横縞。身長の割に足がきっちりと隠れた品のよいもので、その人物の身長から考えると日本の服ではありえない、と考えられるだろう。特注品なのかもしれない。

「貴方にもお水をださないとね」

「え、あ、すみません」

「いいのよタローちゃんの連れだもの」

 慌てて頭を下げる横須賀に、くすくすと笑い声は絶えず降り注ぐ。するりとカウンターの向こう側にその人は向かうと、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。大きな二リットルペットボトルはあまり減ってはいないが、先程山田に入れた為か既に開いているようだ。蓋を回す長い指は特に力を入れる様子無くするりと動く。大きめのグラスにいびつな氷を割り入れ、ペットボトルを両手で持ち上げて水を。あまり筋力がないのか、ん、と小さな声を漏らしてはいたものの、長身故の大きな手はペットボトルを支えるに十分に見えた。

 重さに耐えるように筋張った手の甲、短く四角い爪先。爪。あの緑色が浮かんで、横須賀は少し眉間に皺を寄せる。考えるな、という山田の声をなぞるように、横須賀は自身の手を見下ろした。

 カウンターの向こうで準備する人の手と山田と横須賀の手と比べると、どちらかというと横須賀に近いだろう。山田は身長から当然だろうが小さな手に少し痛そうな深爪。横須賀は身長から手は大きいし、太くはないが細いというより長い、に近い手で、短い爪は四角い。赤月のような女性は小さい手を細く長く見せる為に伸びた爪先が丸と言うよりは尖った卵形を描いていて――思考がぐるりとめぐる。

「おい」

「あ、はい」

 山田の苛立ったような声に慌てて横須賀は顔を上げる。ぐるり、ぐるりと巡る思考に埋もれかけた頭が、水の中から息継ぎのように浮かぶ。山田の左側に置かれた水と、さらにその左に座る長身の人が少し困ったように微笑んでいる。

「あ、お水」

「ええ、水よ。とりあえず座って、飲んでもらえるかしら」

「有り難うございます、頂きます」

 促されて、山田とその人の間に座る。冷たい水に、胃がじゅくりと痛んだ。それでも頭が内側から冷えていくようで、横須賀はようやく息をついた。

「見ての通りのポンコツだ」

「そういう言い方はダメよタローちゃん。ちょーっとびっくりしちゃったんでしょ。ねー?」

「すみ、ません」

 気遣う言葉に横須賀は元々曲がった背筋をさらに曲げて謝罪する。隣から聞こえるため息に、身が竦む。役に立てなかった。その証拠が、横須賀の白い大きな鞄の中で責め立てる。

「こっち向いて」

 大きな手が、横須賀の両頬を掴む。冷たい水を運んだからか、その人の手は冷たい。

「ん、思ったより顔色は――悪いけど悪くないわね。アナタこのクマどうしたの寝なさいよメイクで誤魔化すにしてもこれ流石に酷いわよ、怖いことあったから寝れないの?」

「ソイツのクマは元々だぞ」

 目を丸くする横須賀に変わって、山田が素っ気なく答える。ぱちくり、と目の前の人は長い睫を揺らして、虹彩の大きい瞳で横須賀を丸々写し込む。

「なにそれ信じられないお肌も水分足りないしもー。寝られないなら添い寝してあげようかしら」

 添い寝。そんなことしてもらった記憶を持たない横須賀は、ゆっくりと言葉の縁を頭の中でなぞった。言葉として知っていても遠すぎるものには、咄嗟に反応できない。

 きょとんと不思議そうな顔をする横須賀を、その人はじっと見る。

「……寝る以外考えられないほどベッドの中で可愛がっても良いけど」

「べっど」

 きょとり、と不思議そうに復唱した横須賀は、それが自身の頭の内側で文字という形で認識され――慌てて体を山田の方に引く。

「おい汚ねぇ体でこっちくっつくんじゃねえデカブツ」

「すみませ」

 声に押されるように山田から離れるものの、その人と山田の間で横須賀は身を固くする。たく、と不機嫌そうな山田の声と触れた場所をはたく音がするのに、頭にきちんと入ってこない。

「そーんな怯えなくても、冗談よ。ノンケには手を出さないわ」

 真っ青に血の気の引いた顔で目を見開いて固まる横須賀に、その人は困ったように笑った。強ばった唇がうまく動かず、ひきつったまま声を出そうとすれば、ひゅ、と音にならない空気が漏れる。

「……あら、本当ごめんなさいそんな怯えるとは思わなくて。ええと」

「のん、け?」

 ざわりと手のひらが何かに責め立てられるように粟立つ感覚に固く拳を作りながら、うまく言葉を見つけられないまま横須賀が反芻した。意味も分からず復唱した外国語のようないびつな音に、ぱちくり、と再度その人は瞬く。

「女が好きな男に無理強いはしない、ってこと。いや、普通に男が好きな男にも無理強いはしないわよ。愛し合ってが一番だと思っているもの。……あ、アタシこういう格好しているけどトランスジェンダーってわけじゃなくてただの女装趣味なだけだから別に女として扱わなくて平気よ。可愛いっていってもらえたらまあ嬉しいけど」

「じょそう」

 流れるように喋る相手の言葉とずれたテンポでもう一度、横須賀が復唱する。横須賀を見るその人は、そうよ、と言いながら頷くことでも肯定を示した。

「お、とこの、ひと」

 それだけ呟くと、横須賀はようやっとという様子で長く息を吐いた。まだ胸は苦しいが、それでも恐ろしい心地は随分減ったと言える。

「アタシが可愛いからびっくりしちゃった?」

「あ、はい。とてもお綺麗でした、ので」

 頷きながら、横須賀は改めてその人を見る。男性と考えれば確かに合点がいった。長身の女性もいないわけではないが、それでも目の前の人は確かに男だ。

 鼻筋の通った顔立ちと長い睫は化粧だけでなく本来のもので、元々見目の美しい人なのだろう。目鼻立ちだけではどちらと判断しづらいが、きれいに口紅を塗られた柔らかそうな唇は大きめで、顎がしっかりしている。柔らかく巻かれた髪で頬と首のラインを隠しているが、よくよく見ればがっちりと太い。首に巻かれた鮮やかなストールは、おそらく喉仏を隠すためだろう。大きく開いた襟元で気づかなかったが、改めてみれば肩幅も広い。なによりその大きな手は、女性よりも男性的だ。

 そうやって観察を終えると、探るような瞳とかち合う。爛々とした瞳に一瞬身を固くした横須賀は、良くもわからず微笑んだ。その笑みに返すように、彼も笑う。

「綺麗なのはよーく知ってるわ、アリガト。どっちかというと可愛いって褒めて欲しいわね、褒め言葉は毎日いつでも募集中よ。……女の子苦手なお仲間なら、冗談だったのは半分だけでもいいわよ。可愛いからちょっと考えてもいい」

「はい?」

 最後の言葉だけ、作った声より本来の声色に近かったのだろう。よく通りそうな声だな、と考えた横須賀は、しかし相手の言葉の意味が分からず首を傾げる。代わりに理解したのだろう山田が舌打ちした。

「ソイツはそもそもそういう話題が苦手なガキだ。苦手なだけで多分ノンケだろ、ヤるなら俺のいないとこでヤれよ」

「あら残念、ノンケならアタシの主義に反するし口説かないわよ。それに、恋人以外とはしない主義なのわかってるでしょ。……とりあえず元々の顔色以外は大丈夫よ、びっくりしただけで意外と肝が据わってるのかもしれないわね」

 よくわからない会話に挟まれながら、もう一度横須賀はちびりと冷えたグラスに口を付ける。じゅわ。ぬるい水はいつも気持ち悪くなるので苦手なのだが、この水は胃をぎゅっと締めて逆に平気で、ほんの少し安心する。