第二話 うつわ(後編)
2-1)残業
事務所に戻っても、頭の中から声が、音が、映像が消えない。紙をめくるだけでまるでどろりと剥がれるような錯覚が、喉奥に酸味をせり上げる。ただ、なにもかもがぐるりと回る。
「おい」
横須賀の思考を遮るような短い音が下から上に投げられ、横須賀は視線を動かした。あんなことがあったのに、きっちりと撫でつけられたオールバックは相変わらずそのままだ。
「残業代付けてやるからついてこい」
山田が横須賀を見上げたまま、短く命じる。残業代。ついてこない。どこへ。
疑問が小さな声になったのかそれとも動いた唇を見たのか、山田は鍵を鳴らして横須賀の隣を通り抜けた。通り抜けた、ということは外だ。緩慢な思考の判断は、しかし山田の行動以上を想像させない。
「知り合いの店だ。……そういやお前、酒は飲めんのか」
「飲め、ます」
横須賀が戸惑いながら答えると、山田が再度横須賀を見上げる。つり上がった眉が少し持ち上がり眉尻が下がったようだった。といっても、おそらく眉をそういう形に意図して山田は作っているようなので、眉が上がっても下がってもそうとわかる程度であまり表情自体に差異はない。
「は、クズガキかと思ったら意外だな」
喉奥で笑うような音が響いて、山田が先を行く。その言葉にどう答えればいいかわからない横須賀は、鞄をまとめて慌てて山田の後ろについた。
「現地解散だ、荷物は忘れるなよ」
「鞄、だけなので」
事実、着替えなどしないので横須賀の荷物はそこにまとまる。とはいえ、山田に至っては鞄すら持っていないようなので移動自体はその身ひとつで済むと言えるだろう。先を行く山田は、いつもと変わらず振り返らない。
まだ山田に雇われて日は経っていないが、後ろを歩くのがなんとなく慣れてきた。元々、横須賀自身誰かの隣に並んで歩くタイプではないのもある。身長の大きさから随分コンパスが違うので追い抜かないように多少は気を付けるものの、山田は足早に進むのでそこまで気にするほどのことでもない。山田さんは足が速いな、と、横須賀は内心で呟きながら斜め後ろを歩いた。
「俺は酒は飲まねえ。ま、仕事終わったら好きに飲んで帰って良いがな。カモられるんじゃねーぞ」
「カモられる、ですか?」
カモられる。あまり馴染みのない言葉に横須賀は首を傾げる。言葉として知っているがそれは横須賀にとっては遠いことだ。
それは別に横須賀の外見からそういった機会がない、というわけではない。確かに横須賀は、高い身長と切れ長で鋭い三白眼という特徴的な見た目を持っている。それを基準に言うなら横須賀は話しかけにくく絡まれづらい外見だろう。しかし鋭い三白眼の下には幼い頃から消えることのない浮かんだクマ、そして撫で分けたセンター分けの前髪の下では気が弱そうに下がりきった眉がある。髪型自体、ワックスで整えてはいるものの山田のようにきっちりしたものではなく、ところどころ寝ぐせのように跳ねた毛先があるくらいだ。総合的に言えば横須賀の見目は上背の割には薄気味悪く気の弱そうな外見で、そういった点からは確かにカモとして向いていると言えるだろう。だから、馴染み無いというのは別の理由からである。
それは行動範囲と、その存在感だ。そもそもあまり繁華街などには横須賀は行かないし、人に声をかけられるという機会が不思議なほど少ない。声をかけられるときは、気が弱いとか心が少しだけ弱ってしまった優しい人が、同じように気が弱そうな相手を心配して、だったり、あとは意図して利用しようとされた時、くらいだ。身長の割に存在感の薄い横須賀は、加えて利用されることはうれしいと考える癖がある。だから、カモ、という言葉が馴染まず、不思議そうに首を傾げた。
「……酔って変な奴に連れてかれんなよ、ってことだ。仕事で使う鞄を持ってんだしな」
山田が少し声の速度を落として、ため息と一緒に告げる。山田を見、鞄を見た横須賀は、あ、と小さく声を漏らした。
「あの、飲めます、けど、あまり飲まない、です。飲みたい、って思ったこと、なくて」
「ああ、付き合い程度ってやつか。……酔ってなくてもほいほい着いてくんじゃねーぞ」
「え、あ、はい」
念を押すように言われて、戸惑いながら横須賀は頷く。不思議な言葉だ、と思いながらその背を見れば、ひとところで止まった。山田の視線は雑居ビルの階段の先を見ている。それからなにも言わず振り返りもせず、山田は駅前の雑居ビルの中に進んでいった。
山田の背中と一緒に上を見れば、看板には飲み屋らしき名前を複数見つけられる。だからお酒について聞いたのかな、と考えながら横須賀は後を追った。残業、飲み屋。調べる相手がいるのだろうか。聞くに聞けず鞄を抱える。その中には、今日使ったノートも入っている。
今日使った内容を、家に持ち帰っていいようには思えない。けれどもこれは、山田に入れておくように言われたものだ。
時間は十八時五十六分。いや、五十七分。不思議なことに他の客とすれ違うことなく、雑居ビル独特の狭い階段を上りきる。準備中、とある扉の前で山田が立ち止まった。
扉の横から階段に向かって見えるようにでている釣り看板には、BAR.竜胆の文字がある。黒背景に明るい青紫の文字が書かれていて、アクセントとして釣り鐘の花が咲いている。おそらく名前の通り、竜胆の絵なのだろう。花にあまり詳しくない横須賀だが、イラストと名前を見れば流石に結びつく。
横須賀が山田の背に立つと、山田はなにもいわずに扉の下をつま先で蹴り扉を開けた。扉にはやはり釣り鐘の花が描かれた看板と、その下にはさらに小さな板がある。同じく黒背景に五つの釣り鐘の花と月のイラストが馴染むように描かれ、準備中との文字が少々レトロな字体で書かれていた。しかし山田は準備中の文字を確かに見ているはずなのに気にもせず扉を開いて中に入る。
「え」
咄嗟にどうするべきかと横須賀の足がすくんだ。入れ、の言葉はなかった。山田だけがいいのかどうなのか判断できない。かといって声を出して引き留めていいのかも、目的を知らないので邪魔にならないのかわからない。残業と山田は言っていた。仕事だとしたら無駄に自分がしゃべってはいけないのではないか。見ろと言われている。飲酒について聞かれたからついていってもいいのだろうか。けれど準備中で。
閉まった扉の前で、横須賀はぐるぐると考える。
「おい、おせえぞクズ」
しばらくすると扉が開き、山田が横須賀を面倒くさそうに罵った。びくり、と肩を揺らしてから、戸惑いながら横須賀は扉に近づく。
「あ、入っても」
「入ってまずいなら来んじゃネェって言うに決まってんだろクズ。入りもしないヤツに流石に残業代は出さネェぞ」
「す、すみません」
横須賀が謝れば、山田が反転する。その後を追うように入ると、テーブル席が二つとカウンター席が八あるのが目に入る。
そのカウンター席に座っていた長身の人物が横須賀を見、微笑んで立ち上がった。
大きい。ハイヒールを履いている為か、横須賀と並んでも遜色ない長身。しかし相手がハイヒールとはいえ、百九十を越えている横須賀とさほど変わらない身長は珍しいと言えるだろう。