1-18)逃走*
「……行くぞデカブツ。でももだっても聞かねえ。同じになりてえのか俺はごめんだ」
肩に掛けた鞄を山田が引っ張る。赤月はもう赤月だったとわからなくなっていた。緑の汚泥が、そこにある。腐臭が香らないのがおかしいようにすら思えた。林檎のような香りが、喉に酸味を運ぶ。
「ひ、とを、呼ばない、と」
「目の前で人が溶けたって正直に言うのかアホ! 人殺しになりかねねーぞ!」
「お、おれ、俺が殺し、」
泣き出すわけでも悲鳴を上げるわけでもなく、しかしひゅーひゅーと浅い呼吸の中動揺したように呟く横須賀に、山田が頭を抱える。そのままかきむしろうとしたのをなんとか耐えた山田は、また横須賀の腹を加減無く殴りつける。
「ああもうなんでそうなんだ!! んなわけねーだろ冤罪だよ冤罪! そもそも話しかけたのは俺だし、かといって俺のせいにされたらたまったもんじゃねぇよこんなこと! せめて外なら別かもだが、ここじゃアウェーにもほどがあるんだクズ!! ずらかるぞ!!」
鞄を引きずるようにひっぱられ、そのまま車にたたき込まれる。反射のように震える手でシートベルトを締め、鍵をつけ、エンジンをかける。そういう作業は体が覚えているだけで、横須賀の半分は、まだ病院にあった。
「め、目の前で」
「戻ってもどうにもならネェだろなったら寧ろバケモンだ。んで次は俺かテメェになるのに戻りたいのか自殺には付き合わねーぞ」
山田がサングラス越しに横須賀を凄む。横須賀は震える手でハンドルを掴んだ。
「出せ」
アクセルを踏む。あれだけの異常事態があったのに、病院の様子を駐車場から伺い見てもなにも変化は見えない。まるで嘘のように静かで、そのことすら恐ろしいようにも感じられた。
それ以上時間をかけることも出来ずに、横須賀はそのまま車を走らせる。
「車返しに行くぞ」
「は、い」
「……アタリ案件だとはわかっちゃいたが、まさかああなるとはな」
舌打ちをして山田が吐き捨てる。アタリ。心内で復唱し、しかしそれ以上はわからない。誰もいなかったのに。そういう山田の言葉の色を、横須賀は追いかけようとした。
「考えるなよデカブツ」
まるで横須賀の思考を読んだかのように、山田が呟く。ちらりと山田を伺い見ても、サングラスは相変わらず無機質だ。
山田の手の中で、ノートが固く握られている。
「オミドリサマ、色薬、新山。そのあたりはおそらくこれから調べることになる。テメェが逃げたきゃすべて忘れろ。逃げなくても、赤月がなんでああなったのか、については考えるな。テメェのクズみてーな頭じゃなにもわかんねーだろうし、それはこの俺に任せときゃいいんだよ。テメェにそこまで望まねえ」
静かに、太く大きな杭を押し込むように山田が言う。自身の頭では確かに考えることなんて難しいだろう、と横須賀は内心では否定しないが、しかしそれでも考えるな、は難しいことだった。
目の前で人が死んだ。死んだ、といっていいのかわからないような恐ろしい形でもって、溶けていった。溶けた、でよいのかもわからない。まるで、オミドリサマ自体が、緑の汚泥になっていった。
シュウ君の顔が浮かんで消えない。ぞわり、と首筋の裏側を何かが責めるように撫で押す。
「っ」
ハンドルを握る左腕を小さな拳で強く打ち付けられる。山田は小柄で、衣服で隠れているから実際どうかはわからないものの見かけではさほど筋力を持たないようだ。実際こうして打ち付けられる拳は、骨が当たり随分響くものの、喧嘩になれたものとは考えがたい。小さく呻いた横須賀は腕のしびれに飲み込んだ酸素を細く吐き出した。
「……辞めるならとっとと決めろ。役立たずがいなくなったところで関係ねえ。ビビりを連れてくつもりもネェしな」
信号で車が止まる。あと三つ分で、レンタカーの店に戻ることになる。山田が足を大仰に組んで、山田の手元のノートが見えなくなった。
それでも横須賀の上背からでは、覗き見ようとすれば簡単に見えてしまうだろう。覗き見はしないものの、結局それはあるのだ。赤月を追いつめた、横須賀が見つけた物が。
「新山は言ったようにクロだ。赤月の件もあそこで処理するんじゃネェかと思う。看護師は把握してなさそうだったから、そこをどう誤魔化すかまでは謎だがな。テメェは初めてだろうが、ああいうオカシイコトってのはいくらか存在する。――まさかああなるとは思わなかった、のは事実だ。知っている俺ですら見極めが難しいような狂ったこと、に、ついていけねえなら辞めるか事務所で待て。テメェの能力を無くすには惜しいが、辞めたきゃ寛大な俺が許してやるし、辞めねーならまあ足手まといにならネェ場所にいろ」
信号が青になる。話を聞きながらの移動はあっという間だ。店の駐車場に止めて、横須賀は山田を見る。山田の細い眉は、神経質そうに眉間の皺を作っている。
「お、れ」
辞めたいのか、どうか。その感情を、横須賀は見つけることが出来なかった。今渦巻くのは、声と姿だ。見てしまったものだ。考えるな、と言われても後悔は内側をなで続ける。
辞める辞めないではない。それは、存在した。
「……使ってくだ、さい」
横須賀の喉から漏れたのは、小さく、細い音だった。それはあまりに横須賀にとって身勝手な言葉で、山田にとってはどうだったのだろうか。細い眉が跳ね、それから歪む。
「テメェは本当、狂ってんな」
山田の乾いた声は、笑っていた。
(第一話「うつわ」前編 了)