台詞の空行

1-17)溶解*

 挑発するような声。赤月の瞳はもう動かない。なにか、なにか。焦るような声ばかりがそこにある。

 赤月の細い指が、胸元に。揺れる木の葉に紛れ隠れて仕舞うほど小さな声が、上から降り積もる。

「……貴方になにがわかる」

 小さな声が、ぐ、と土を踏みしめるように落とされた。左手は胸の前のまま、右手が赤い鞄に。

「やらせねえよ!」

 山田が赤い鞄に手を伸ばす。びくりと震えた赤月は、笑っていた。

「山田さんっ」

 横須賀は訳も分からず声を上げて、山田の肩を掴んだ。細い薄い肩が一瞬強ばる。反射のように山田の手が横須賀の手を弾いた。そのことを非難する性格ではなく、そも別のことに意識が奪われていた横須賀は、山田にそれ以上声をかけずに赤月を見る。

 右手は違う。赤月の左手が近づくのを、まるでスローモーションのように横須賀は見る。

 赤月の左手には、あの緑の石。小指の爪ほどのそれは――いや、そこで、そこまで近づいて横須賀は、気づいた。気づいてしまった。

 それは正しく人の爪だ。緑色の石のようで正面から見る分にはわからなかったが、緑である以外はほとんど変わらず、薄くゆがんだカーブがはがれた爪のような形を物語っている。

 人の爪を首飾りに使うという異常なこと、その爪が山田を傷つけるためにこちらに向かってきたことに横須賀は動揺し、しかし絡まった蔦のような小さな声に動くことが出来ない。退け、と山田が怒鳴る声とわき腹を殴られたような痛みを感じながらも、その低い声は絶えずそこにあり、上から木の葉に紛れて積もるのを止められず――

(う、え?)

 そこまできてようやく、横須賀ははっとしたように上を見上げた。自身に近づく狂気じみた緑の爪は、スローモーションに見えているだけですぐそこに迫っている。きっとたやすく横須賀を傷つけるだろうに、山田を背に庇ったまま横須賀は上を向いた。

 愚行、だろう。たかが爪とはいえ、そもそも何故人の爪がそこにあるかという薄気味悪さ、そして敵意はまっすぐ存在している。普通の人間なら自身に迫る凶刃から目を反らすことなど無いだろう。それでも横須賀はその降り注ぐ声に誘われるように『上』を向いてしまったのだ。見ることが、彼に出来る唯一なのに。いや、だからこそ。

「……きょーこ、ちゃ」

「ぼさっとしてんなデカブツ!」

 横須賀の声は山田によってかき消された。山田の小さな体が横須賀を引くのにそのまま従って、わき腹を殴られたまま横須賀は山田と一緒に横にずれる。赤月がたたらを踏んで横須賀と山田に向き直り――唐突に、それは起こった。

「ひ、」

 ひきつった声は赤月の物だ。あ、あ、あ、と短い音が肺から押し出される。たたらを踏んで横須賀と山田に向き直った赤月は、喘ぐように舌を出す。

「なんだとつぜ」

 それ以上は言葉にならなかった。山田がびくりと体を強ばらせる。なにが。なんで。言葉にならない疑問とともに横須賀は赤月を見る。

 ――音、というものは、喉を震わせ、空気を押し出して成り立つ。それは排出だ。あ、あ、あ。だからそれは、人の排出、だった。

 ご、ぽぽ。けぽ。人の排出と一緒に混ざるその音は、ならば、なんだったのだろうか。疑問は答えを運ばない。答えを運ぶのは、目の前の事実だ。

 げぽ。それが嘔吐ならまだよかっただろう。けれども違う。なにが、なんで。困惑から目が逸らせない横須賀は、故に、気づいてしまったのだ。

 口内は露出できる内蔵だ。のぞき込める臓器は、粘液と筋肉でその体内を語る。その、第一が。ごぽり、と、溶けた。

 溶けた? その認識は合っていたのだろうか。けれども横須賀は理解した。それが、粘液が、歯肉が緑の液状となり崩れるのを。内側からなされた異質物の排出ではない。だってそう、歯が、ゆるり、と、崩れ、散る。

 なんで。困惑が、視線を口から顔に移す。かろうじて瞳には涙が浮かんでいる。当たり前のことなのに液体があるということに何故か横須賀は安堵を覚えた。大丈夫、まだ。誰にいうでもなく、大丈夫がなにをいうかもわからず横須賀は内心で呟く。

「赤月」

 山田がまるで確認するかのように赤月の名前を呼ぶ。答えはない。もう、そこからでるのは、人の音ではない。

 どうすればいいかわからず近づこうとすると、山田の手がそれを遮った。視線だけは赤月の瞳から離せず、焦点の合わないその瞳がまだ濡れていることだけを横須賀は理解し――それが横須賀の愚かさだった。

「……え」

 横須賀の声が落ちる。ぐずり、ごぼり。音に合わせて、涙がどろりと増した。……どろり? どろり、だ。眼球を肉の蓋が覆うのではなく、どろり、と。それは溶け出た

 ごぼぼぼぼぼぼ。口から溶けていく。まるで、声無き絶叫のようだ。いや、もしかするとそれは、口内がどろりと崩れたように、声が崩れた形だったのかもしれない。

 伸びる腕。腕は、腕はまだ。はっとしたように、横須賀は手を伸ばした。

「赤月さん!」

「駄目だ!!」

 けれどもそれは、山田に遮られる。崩れる、こぼれる、溶ける。溶け落ちる。皮膚がただれ落ちるように、汚泥のような緑がぐちゅりと、腐った果実の皮のように剥けていく。溶けるろうそくよりはやく、液体と言うには形を保って。顎が、崩れ落ちる。

 まるで悪趣味なB級ホラーだ。それがただのB級ホラーでないことは、鼻につく異臭と耳を侵す異音が脳にたたき込んでくる。

「テメェはさっさと戻れ、俺は――」

「でも、だって、こんな、だめ、あ」

「もう意味ねえんだよ見るなクズ!」

 怯える横須賀と対照的に、山田は苛立つように叫んだ。それでもなにか、誰か。どうにかしなければ。ぐわぐわと脳が揺れる。それはもう崩れ、山田の肩よりも低く。

「でも」

 それでも横須賀は、目を逸らせなかった。できるわけがないのだ。崩れて異形と化した、もう人と言い難い姿となっても横須賀の頭の内側には子供の――シュウの姿があった。赤月は人の親だ。誰かの家族で、誰かが求める相手だ。

 それを目の前で失うなんて、そんなこと、横須賀にできるわけが。

「赤月さ、」

「役立たずは出てけって言っただろう阿呆!!」

 怒声。鳩尾に痛み。ぐ、と呻いた横須賀は、痛みに一瞬息を止めたのち、ぜ、ぜ、と浅く息を吐き出した。

 どろどろと地面に広がりだし、もう自身の腹よりも低くなったそれを山田は見、唇をかんだ。