1-15)詰問
「それではさっそくですが、話をしましょう」
病院の壁を背にベンチに腰掛けた赤月の正面に座ると、山田はそう口を開いた。座っていいのか悩んだ横須賀はそのまま立って二人を見る。赤月は戸惑うように山田を見つめている。その視線を受けながらノートを隣に置いた山田は、ふ、と赤月を見て笑った。
「オミドリサマ、なんて呼ばれているんですね」
赤月は山田の言葉に一瞬身を強ばらせた。驚いて横須賀が赤月を見ると、赤月の手は戸惑うように自身の胸元で握り拳を作る。視線が左にずれ、口元には微笑。無理に表情を作ったせいか、ほんのすこし口角が震えているのを、横須賀は見て取る。
赤月がオミドリサマと言う結論はどこからきたのか、なぜ今そんな話をしているのか、そして赤月はなにを隠そうとしているのか横須賀には分からない。
ベンチに浅く腰掛けた山田が見ている青写真を、横須賀は見ていない。
「精神をよくしてくれる、だとか。ただの事務員がよくそんな仕事できますね。貴方大学で専攻してないでしょう」
「調べたんですか」
固い声で赤月が問う。山田は口角をさらにつり上げるだけでなにも答えない。山田が調べていたことが何かはわからないが、横須賀が見ている範囲では調べていなかった。けれども赤月がそれを知ることなどないだろう。山田は肯定も否定もせず、笑うだけだ。
隣に置いたノートを山田は左手で撫で、それから再度赤月をみる。サングラスをかけた山田の視線は、そうやって顔の向きや動作が動かなければ周囲には分からない。赤月はノートを見、それからまた山田を見た。赤月の視線は横須賀からはわかりやすい。ほんのすこし眉間によった皺、持ち上がりすぎた口角が一度下がりささやかな微笑に戻るのもわかる。
「オミドリサマなんてまったく知らなかったんですけど、見ての通りウチのデカブツ、寝不足が酷くてですね。親切なお嬢さんに声をかけていただいたんですよ。……副業されているなら先に教えてくださってもよかったと思いますが」
「関係ないかと思いまして」
「ないと思いましたか?」
は、と山田が笑う。赤月の視線が膝の上に落ちる。どういう状況なのか、未だに横須賀には分からない。なぜ依頼人を責めるようなことをしているのだろうか。一人置いてかれた状況で、しかし口を挟めるわけもなく横須賀はじっと見つめる。
山田の言った『ウチの』という言葉に、足りなくても少しでも近づきたいと思ったのだ。探偵事務所の所員というに自身は足りないという自認はあるものの、それでも山田の言葉にゆるりと横須賀は内側を押される。
「どのように治療しているのか教えていただいても?」
「別に……話を聞いて、いるだけです」
「心を治すならその答えでもいいですけどね。話を聞いた限りだと貴方が治しているのは精神の領分だ。所謂誤反応を治している。心は自分で、と貴方自身患者に言ってるそうじゃないですか」
ノートを人差し指の先でこんこんと叩きながら、山田が言う。赤月の手は固く握りしめられていて、きゅ、と唇の端が引き締められるのを横須賀は見てとった。
赤月の顔が上がる。浮かんでいるのは苦笑だ。困惑と愛想笑いを一緒くたにした表情で、赤月は口元に指を添えるようにして顎に手を置く。
「知人に頂いた薬が、寝付きにいいんです。薬を個人で取り扱うのが犯罪、とはわかっていますが――」
「知人は外国人に似た方ですか」
山田が静かに言う。赤月はほんの少し目を見開き、それから二度瞬いた。目を伏せる前に視線が動いたのは斜め左上。
「いえ」
嘘ではないようだが、それでも本当とは言い難い答え。その理由も山田の質問の意図もわからない横須賀は、ちらりと山田を見た。山田は相変わらずサングラスで表情を隠し、唯一見える口元だけが笑みを作っている。
「では、新山先生」
「……いえ」
ぎゅ、と拳が握られ、伏せた瞳が一拍のち持ち上がる。困ったように眉を下げた赤月は、ふ、と短いため息をついた。
「私はあの子の為に薬を探して欲しいと依頼したのに、なぜそんなことを聞くんですか?」
「書類を貴方は確認しましたか?」
「……ええ、それは、お願いする立場ですし私が書類を持ってきたのですから」
「ならわかるでしょう」
山田がベンチに背をもたれかけ、足を組む。そのまま悠然と横須賀を見上げて、おい、と素っ気ない声を出した。横須賀がびくりと鞄のベルトを掴むと、左手が差し出される。
「書類を貸せ」
「あ、はい」
山田の言葉に横須賀は鞄を開く。クリアファイルのケースから慎重に封筒を取り出すと、山田はその封筒をそっと受け取り膝の上に置いた。
「貴方が望む薬として提示した資料には色薬という大きなく括りで載っている。色の種類によって治療が別で、貴方が望んだのは藍色、神経を治すものでしたね」
言いながら山田はゆっくりと封筒を開ける。取り出される紙は綺麗に皺のない状態だ。
「オミドリサマ、について知ればひとつ疑問が出てくるんです。貴方はなんで藍色だけを探してるんです?」
「それはあの子がっ」
「貴方は色薬を手にしている」
声を上げた赤月の言葉を、静かな声で遮った。色薬、という言葉に横須賀は赤月を見る。赤月の右手が胸を押さえるようにぎゅっと握り込まれている。
あの甘い香りを横須賀は思いだした。不思議な甘い香りは、どこから香ったのか。
拳の下に隠れたのは、緑の首飾り。
「……あの子の薬では、ありません」
「それでも貴方は得ている。貴方が自力で得たというのなら貴方から、または友人から得たというのならその人物からこちらは話を聞く必要がある。読んだのなら分かるでしょう? 持ち運びすら難しいその液体を扱うためには、相応しい入れ物への知識が必要なはずだ」
「そんなこと」
「――アンタは誰に命令されているんだ」
戸惑う赤月に、山田は下から睨みあげるようにして言う。尋ねるにしては言葉がはっきりとしていて、問いかけにしては有無をいわさない声。静かな詰問、という言葉が見合うようなその音に、赤月は唇を噛みしめる。笑みは消えた。
「命令って、なにをおっしゃるんですか」
「貴方は几帳面な方ですね、赤月さん」
山田が封筒の中にあった紙を、ぴ、と一枚掲げる。質のいい白いコピー用紙。横須賀は読むときに随分注意を払ったが、それは山田もだったようだ。自身の履歴書を渡した時を考えると驚くほど綺麗に皺のない状態で、その資料は赤月の眼前に示されている。
「こちらも確認する際に気を配りましたが、随分と綺麗な状態で貴方は持ってきてくれました。まるで読んだ形跡がない――どころか、ついさっき渡された物をこちらに運んだ、ようだ」
「人に渡すもの、ですので」
「その心遣いはすばらしいですがね、この几帳面さは異常だ」
山田が再び書類を封筒に入れる。赤月の視線はじっと山田と書類に向けられていて、その封筒を横須賀に指し示すのも赤月は見ていた。
仕舞え、とのことだと気づいた横須賀が慌ててクリアファイルを取り出すのも。
――封筒が横須賀の手に渡り、クリアケースに仕舞われ、大きな白い鞄の中に入る。
「赤月さんの持ち物は随分洒落てますね」
「え」
唐突な言葉に、赤月ははっとしたように細いベルトのショルダーバックを自身の側につける。小さな赤い鞄は、先日と同じ物だ。
「普通封筒をひしゃげずに持ち続けるのは随分難しい。ウチのデカブツは几帳面ですがね、それでもああやってケースを使います。しかもそのケースもああいう風に鞄に入れて持ち運ぶ」
山田が赤月に向き直る。赤月の両手は膝の上に降り、自身の左手を握り込む右手の指先は白くなっている。
「貴方は手に持って事務所にやって来た。入る前に取り出したにしても、その鞄にはケースどころか封筒だって入りません。なのに貴方は、綺麗な状態でもって来た。――車ならまだ納得できたかもしれませんがねえ。貴方、電車でお帰りになられましたよね」
「電車が、空いていて……」
「その言い訳は苦しいですよ赤月さん。貴方は車で来た。それを隠していた。おそらくこちらの事務所にそれを持ち込むように言った誰かが、車で送ったんでしょう。車内で渡された資料に目を通すことなく、貴方は持ち込んだ。だからこの資料は異様なほど綺麗な状態でここにある」
赤月はなにも答えない。山田の言葉でようやっと横須賀はその可能性に思い至る。赤月が目を通したと言うには封筒も紙もまるでおろしたてのようだった。印刷した紙を封を切ったばかりの封筒に入れ、そのまま運ばれたような状態だ。
どれだけ綺麗な状態で渡そうと意識しても、履歴書の封筒をそのまま運べばひしゃげるのを横須賀は経験上知っている。それにたとえ電車が空いていて気を配ることが出来たにしても、ショルダーバッグがあるのだ。そこから財布をとりだそうとするときに封筒を持ったままなら封筒を綺麗に保つことは困難だろう。カードをポケットから、はあり得ない。なぜなら赤月は帰りに切符を買っていた。それに全部が全部とは言わないが、切符を買うということは普段電車を利用しないということ、だ。
あの文章を書いた人間が赤月でないことは、書類の内容から想像できる。とすると、山田が指摘していることはすべて自然な流れと言えた。
けれども、何故赤月は――赤月に命じた人間は、山田の事務所を選んだのだろうか。