台詞の空行

1-11)かくれんぼ

 女性をなんとなし見送り切ったところで、ようやく横須賀は山田のところに戻ろうと席を立つ。そうして歩を進め、ふとしたところで視線を止めた。

 病院の日の光を取り込む大きな窓から見える木々の葉。茂る緑の中に、まるで夜を誘うような黒を見つける。

(え、っと)

 葉が髪にくっついている、というより絡んでいる。しかしそれを気をとめることもなく木陰でかがんでいる後ろ姿。幼子と言うには小さくない身長。

 ええと、と内心に浮かんでいた戸惑いをそのまま小さな音にしてから、横須賀はあたりを見渡した。外に出る扉を見つけて、一度山田がいるだろう側にごめんなさいと届かない謝罪をする。そうして扉を開けば、気のせいではない人物の姿を確認する。

 やはり、というべきか。後ろ姿ではあるが、見覚えのある姿だ。昨日と同じ服装だから流石にわかる。その人は振り返りはしないものの、それでもおそらく”かくれんぼ”をしているのだと分かった横須賀は眉を下げた。

 呼ぼうとし、しかしそういえば名前を知らないことに気づく。横須賀は首もとに手を置くと中指でとんとんとノックするように首後ろに触れ、それからあたりを見渡した。

 芝やレンガのある場所ではなく、背の低い庭木の影、土に裾が汚れるのを気にすることなくその人はいる。

 ――おにーちゃんがみつけてくれるの?

 幼い声が浮かび、横須賀はそっと近づいた。やはりその人は振り返らない。かくれんぼをしているのか尋ねようか悩んだ横須賀は、しかし頭の中で響く幼い約束の歌に押されるように、眉を下げて微笑み、少しひざを曲げてかがむ。

「……みつけた、よ」

 黒い髪の人が、振り返る。長い髪がさらりと揺れ、驚いたように横須賀を見上げる瞳はこぼれ出さないのが不思議なくらい大きい。薄く開いた唇は無防備で、ぎゅ、と身を固くした厚手の手袋に守られた手とは対照的だ。

 横須賀の予想通りそこにいたのはあの時の女性だ。そうして驚いた女性は、またたく間に瞳を輝かせる。月の無い夜のような瞳は日の光を吸い込んで星のように輝き、陶磁器のような頬は桜の花が咲くように色づく。そのまま夜の帳のような睫を下げ、小さな唇をきゅ、とあげた。浮かんだえくぼが彼女の喜びを伝えてくる。

「おにーちゃん!」

 表情だけでなく声までも華やかに響かせた女性は、それから「あ」と呟いた。

「……みつかっちゃった」

 えへへ、と照れたように笑う女性につられて、ゆるり、と横須賀も笑う。右手でしゃがむように招かれて、横須賀は体を縮めて女性の三歩前にかがんだ。

 昨日と同じパステルカラーの薄いピンク色をした生地の服装は、裾あたりがゴムで伸縮するタイプのものだ。だからなんとなく、トレーナーとか、派手な色合いから寝間着を思わせたのだろう。正面に太った兎のようなキャラクターが書かれているその服装は、日の光の下で見るには幼い子供が好むように思える。故に女性のなだらかな成熟した体とちぐはぐしていたが、しかしご機嫌な女性には似合っているようにも思えた。

 やはり、入院しているのだろうか。体調が悪いようには思えないし、この病院に精神内科はなかったはずだ。とはいえ人の不調というものは外に出ないことが多いので、横須賀は少しだけ心配そうに女性を見る。女性は見つけてもらえたことがよほど嬉しいのか、睫の影に隠れた黒い瞳は相変わらずこぼれそうな程やわらかいし、紅潮した頬はゆるやかに弧を描いている。

「おにーちゃんじょうずだねぇ」

「そうかな」

「そうだよ」

 ふふふ、と笑う女性はひどくご機嫌だ。にこにこと笑いながら、庭木の葉を手慰みにちぎる。

「あ、あんまりちぎっちゃだめだよ。痛い」

「いたくないよぉ」

 思わず声をかけた横須賀に、けらけらと声を上げて女性は答える。ええと、と横須賀は首もとに手をやると、視線をきょろりと動かした。気づかなかったが、女性が隠れていた木の足下には小さな葉が散っている。

 退屈しのぎなのだろう。葉をちぎり枝を小さくぽきぽきと折った跡を見るとしばらく隠れていたようだ、ということもわかるし、近くの庭木の足下には同じように散った葉や枝がある。葉を目で追えば女性の白い靴。暇つぶしに折った枝と葉っぱの中、汚れた白地の靴はマジックテープで止めるタイプの靴だ。視線をあげれば、女性は今も気にせず葉を摘んでいる。

 革手袋で覆われているから難しそうにも思えるが、女性はなれた様子でぷちぷちと葉で遊んでいるようだ。おそらく少しずつ移動しながら隠れ、千切っていたのだろう。遠目にむしられてはげてしまっている植木までわかり、横須賀は首元を人差し指で三度叩いた。

「え、えーっと。ほら、綺麗に育ててる人がいるからね、悲しいって思っちゃう」

「うー?」

 くてん、と女性が首を傾げる。黒くて長い髪がさらりと揺れ、花の香りが舞う。ううん、と横須賀は唸った。

「きみ、も、知らないところで勝手に自分のものがなくなっちゃうの、やじゃない?」

「うー? ない」

 ざわり、と横須賀の内側が揺れる。ない。言い切った女性はにこにこと笑っている。

「きょーこの、ない」

 くしゃり、と横須賀の顔がゆがんだ。眉を下げてひどく悲しそうにした横須賀は、酸素が足りないとでも言うように胸を押さえる。

「おにーちゃん、いたい?」

「え?」

「おにーちゃんはっぱもいたい、きょーこもいたい、おにーちゃんはいっぱいいたくなるのね。へんなの」

 くすくすと女性が笑い、横須賀は顔を伏せる。変。そう言われてもどうしてもいろいろ考えてしまう。女性の言葉は、横須賀にとって無碍に出来るほど遠いものではない。

「変でごめんね。ええと、きょーこ、ちゃん?」

「きょーこ! きょーこねぇ、おなまえかんじでかけるよ」

 確かめるように横須賀が名前を復唱すれば、女性は得意げに言った。

 ぽきり。葉をむしった枝をあっさりと折った女性は、上機嫌で足下の土に文字を書く。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と一角一角確かめるように書く女性の目は真剣だ。

 そうして浮かんだ文字は、叶子。きょうこ、と横須賀がそれを読み上げると、女性――叶子きょうこは枝を横須賀に差し出した。

「叶える子なの! おにーちゃんおなまえは? かんじでかける?」

「あ、うん」

 す。横に一本線を引く。一、とかかれた地面を見て、叶子は首を傾げる。

「かけない?」

「ううん、これでお名前。はじめ」

 わかりやすいように、と横須賀は一という文字の横に自身の名字を書く。

「せんいっぱい」

「うん、よこすかって読むんだ」

 漢字の上に、ふりがな。よこすかはじめ。

「よこすかはじめ……うー? でもないないしてる」

 どうにも横一本線が叶子にとって納得いかないらしい。はじめ、のふりがなをぐちゃぐちゃに消す。横須賀は苦笑した。