台詞の空行

1-12)叶子

「よこすかー、よこすかぁ」

 けらけらと叶子が笑う。よこすかーかあ、と横須賀も眉を下げて笑って、自身の耳後ろを右手でとんとんと触った。

「きょうこはね、叶える子。願いを叶える子なんだよ」

「すてきだね」

「うん。だからいっぱい叶えるの!」

 得意げに笑う叶子がきらきらと輝いている。日の光を吸い込む髪と、弾くなめらかな肌。その対比からそう見えるのだろう。

 ふと横須賀は、自分の祖父と友人だったという人の孫を思い出す。年下の少女はいつも冷静で表情があまり変わらなかったが、目の前の叶子は笑うことが一等しあわせなように目を細めている。そういう違いなのに、何故かやけに似通って見えた。記憶の少女にあるのは実際の幼さと大人びた表情のちぐはぐさ。目の前の女性は年齢よりも随分幼い態度と表情。そういう、本来と実際のちぐはぐ感だろうか、と考え、しかしなにかが違いそれをなにとも言えず、横須賀はとりあえず笑い返すだけにする。

「あ、おにーちゃん、おなまえぺんある?」

「お名前ペン……うん、マジックでいいなら」

「かーしーてー」

 広げられた手。革手袋なのでそこまで目立たないが少し汚れた手を見て、横須賀はちょっとまってね、と鞄から筆箱を取り出す。細いマジックを渡せば、きゅぽん、と叶子は蓋を外した。

「おにーちゃん、手」

「手?」

 言葉に従い差し出せば、ごわごわとした革手袋が横須賀の手に触れる。きゅ、と叶子はその手を掴み、ペンを構える。

「おにーちゃんお名前ないないだからねえ」

 ないわけじゃないんだけどなあと内心で苦笑しながら、なにをするのか横須賀は見守ることにした。横須賀の手を覆うようにかがんだ叶子の長い髪がさらさらと横須賀の肌をくすぐる。それとは別に、手のひらもくすぐったい。

「できた!」

 叶子がご機嫌な声を上げて横須賀を見る。そのまま差し出された横須賀の手のひらには、ぎりぎりいっぱいの大きな文字で、『叶子』とかかれている。渡したマジックは油性だ。

「叶子ちゃんのお名前?」

「うん! おにーちゃんななしのごんべさんだから、叶子のおなまえかいてあげたの」

 叶子が胸を張る。首元を三度中指で叩いて、結局言葉が見つけきれずに横須賀は笑った。

「叶子ちゃんは優しいね」

「うん! ななしのおにーちゃんね、かくれんぼじょーずだしね、きょーこおにーちゃんすきだからきょーこのにしてあげる!」

 叶子の言葉に、横須賀はぱちくりと瞬いた。好き。その言葉は素直に嬉しいものだ。自分に向けられる言葉としてはありえないもので、貴重なものだとすら思う。

 まさかそれが恋慕などと馬鹿な誤解はしない。叶子は外見と心の年齢が違うように見えるし、なにより自分にそれが向けられることは無いので誤解しようがない。なのでその言葉については問題なかった。

「叶子ちゃん、の?」

 気になるのはその後に続いた言葉だ。まるで所有格のように告げられた言葉に、横須賀は首を傾げる。不思議そうな横須賀とは反対に、叶子ははっきりと頷いた。

「きょーこの、ないと、おにーちゃんいたいいたいする。おにーちゃん、おなまえないない。だからね、きょーこのにしてあげる! おにーちゃんいたくない、おなまえかいたらそれはおなまえのこのもの!」

 えへへーと笑う叶子に、再度ぱちくりと横須賀はまたたき――それから、ふっ、と息をもらすようにして笑った。

「そっか、俺、叶子ちゃんのになっちゃったか」

「きょーこいいこだからねーだいじにするよー」

「叶子ちゃんは優しい良い子だね」

「いいこいいこ!」

 叶子とかいた横須賀の右手を、叶子は自分の頭に乗せる。得意げな言葉にならうように横須賀がその頭を撫でる。さらさらとした髪は横須賀と違い柔らかく、それでいて流れるような芯がある。

 横須賀からみたところ、叶子は普通なら高校生くらいだろう。美しく愛らしい顔立ちで、住む世界が違うように思えるほどの見目をしている。

 けれども先程の言葉から、横須賀は叶子をただ遠くに置くことが出来なかった。彼女の後ろに透けて見える家との関係を思う度、胸が痛む。

 その叶子が、たかだか二度あっただけの横須賀に名前を書いて上機嫌になるのなら、横須賀はそれでもいいと思った。病院にはおそらくそう何度もこない。それだけが心残りで――けれどもなにか自分の物がどこかにあると考えてることで、叶子が笑顔になるのなら。

 結局横須賀は、ななしではないという誤解を解かずに終えることにした。きょーこの、と繰り返す叶子は、一等上機嫌に横須賀とまた指切りをして、けらけらと笑っていた。

「オミドリサマ、ねえ」

 横須賀のメモと話に、山田はどこか呆れた調子で呟いた。体を小さくしてその様子をうかがう横須賀は、山田の言葉を待つしかできない。

 不愉快そうにひそめられた眉。それでいてやっぱりか、とでも言うような呆れた声。その理由を横須賀は察することができない。オミドリサマ、という単語を呟く際の声は確かめるようだったから知っていたわけでもないのだろう。だとするとなにが山田にそう言う声を出させているのか、横須賀にはさっぱりだった。

「夕方、女、オミドリサマ。三十万。ってことはこっちはもう結論でてるな」

「え」

 きょとり、と横須賀が瞬く。間の抜けた声に山田は顔を動かしもせず、そして説明もしない。

 病院から離れて人通りの少ない歩道を歩きながら、山田はメモを見据える。隣を歩く横須賀は山田と歩道、車道を気にしながらそれを見守るしかできない。

「……先走ると逃げられるか、逆にここからしかいけないか。判断するとこがここか」

 調子を落とした静かな声で山田がつぶやき、それからようやく顔を上げた。サングラスに隠れて見えない瞳の色を、横須賀は知る由もない。

 メモが横須賀の体に突き返される。

「お前、寝不足なんだろ」

「え、いえ」

「クマこさえた結果見ず知らずの人間に心配されるとか中々だよな」

「あの」

「オミドリサマ、は夕方。流石に今日はこのまま戻るが、明日するコトしてから動いたくらいが丁度いいだろう」

 理解しきれず困惑する横須賀を気にすることなく山田は言葉を重ね、歩き出す。メモを見ているわけではないので、横須賀は先程とは違い二歩後ろに下がった。

「すること、って」

 横須賀が尋ねても、やはり山田は振り返らない。振り返らないが、それでもひょい、と左手をあげたので横須賀はそちらをみる。

 挙手するときのように揃えられた指が、親指から順に握るように折られていく。

「ガキは見た。待合室も把握した。あとはなんだ?」

「外国の方、ですか?」

 横須賀の言葉に、山田の薬指がひょこひょこと動く。握り込まれそうで握り込まれず、その後中指が代わりに握り折られた。

「外国についてはどこつついたら出る蛇かわからねーからな。それはあとだ。先にやることがあるだろ」

「やること」

「依頼だよ、依頼」

 くつり、と笑った山田に、横須賀は再度ぱちくりと瞬いた。依頼。思わず不思議そうに瞬いた横須賀だったが、別に忘れたわけではない。依頼は薬探しだ。

 しかし、今ここで、というのがわからない。山田は以前色薬をどうこうしろという話ではないと言っていた。

 では、山田の言う依頼とは何なのか。横須賀にはそれを想像するための手札がない。

「テメェを使うのは俺だ。無駄に考えんな、明日になりゃキリキリ仕事してもらう」

「仕事」

 そのままなぞるような復唱に、山田が振り向いた。先ほど掲げていた手は、親指をズボンのポケットに入れるようにして仕舞われている。

 に、と笑う口角の感情を、横須賀は正確に理解しない。

「仕事は仕事だ。給料分は働いてもらうぜ」

 言い切られた言葉は雇い主としては当然だろうもので、横須賀はとりあえず、という形で頷いた。

(リメイク公開: