台詞の空行

1-10)オミドリサマのおくすり

「……信じられない?」

「いえ、その」

「不安になるのはわかるの。けど、オミドリサマは本当だよ」

 人通りのない自販機の前で、女性が止まる。それからいすに座り、横須賀にも座るように促す。失礼します、と小さく呟いて横須賀は女性の隣に拳三つ分をあけて座った。

「オミドリサマは、いつも夕方、病院が終わる少し前にくるの」

 女性の言葉に、横須賀はメモを取りだして書き込む。書き込んだ後ちらりと女性を伺い見れば、女性は小さく頷いた。

「最初は、名前と、お金について。きちんと治るから十分だと思うけど、一回で払うにはちょっと大変かも。お兄さん、大丈夫?」

「えと、探してみますけど、聞いてみないとその。……ええと、あなたの、を聞いてもいいですか?」

 女性の名前を呼ぼうとして、聞いていないことに気づいた横須賀は少し困ったように眉を下げた。女性は自身の文字盤を撫でると、うん、と頷く。

「三十万」

「さんじゅうまん」

 治る、と考えると高いのか安いのかわからなくなって、横須賀はのったりとその金額を繰り返す。

「一回で、ですか?」

「うん。治っちゃう。でも時々こぼれてしまうときがあって、そう言うときはまたかかりにいくの。一万円」

「時々。一ヶ月とかですか?」

「最初の時だけ、一週間。その後、二週間。それから二ヶ月とか一ヶ月ってばらけて、今は半年に一度」

 だからそんなにかかってないの。と言われれば横須賀はメモを取って頷くしかできない。その金額と頻度で辛いことがなくなるのなら、それは安いのかもしれない。怯えることも、傷つくこともないのなら。そういう力があるのなら、救われるのなら。

 文字盤を撫でていた女性は、今度は文字盤を手のひらの下に隠した。

「私は、声がね。聞こえちゃってたの」

「こえ」

 女性の言葉に、横須賀は単調に繰り返しながらも心配そうに女性を見下ろした。俯いた女性の表情は、透いた前髪越しに見える。怯え、緊張、微かな苛立ち。そういうものをない交ぜにして、女性が言葉を続ける。

「みんなが私を笑うの。私を馬鹿にして、私を嘲るの。怖くて怖くて、それが幻聴って先生は言っていたけどでも聞こえるの。聞こえたの。幻聴だから平気って、でも言われていたの、私は」

「……こわい、ですね」

 どういえばいいかわからなくて、横須賀は女性の感情に悲しそうに言葉を落とす。女性は頷き、でもね、と唐突に顔を上げた。

 女性を見下ろしていた横須賀と、女性の目が合う。蛍光灯の光を吸い込んで、女性の瞳は煌めいていた。

「でも、オミドリサマは違ったの。ぜんぶぜんぶ、それはつらいでしょうって言って、そう言ってるのをなくしてあげる、って言って、オミドリサマは私の頭からあの声をぜんぶぜんぶ抜き出してくれたの!」

「すごいですね」

 圧倒されて少し横須賀は身を引きかけ、しかし寸前で耐える。女性はうんうんと頷いて、そのオミドリサマを思ってか横須賀の様子には気づかない。

「だからお兄さん、安心して大丈夫。お薬でどうこうじゃないの。お話を聞いて貰って、オミドリサマのくれるお茶を飲んで。それで本当に声が消えるの! ……心はまた別だから、消えた後がんばるのは自分だけど。でも、声が本当になくなってね。それだけで本当、私は」

 私は救われたの。そう呟く声には救いだけでなく涙をこぼしそうなほどの感謝が満ちている。オミドリサマ。女性の言葉を書き留めながら、横須賀はその言葉を頭の中で反芻した。それから、気にかかった言葉に丸をして、女性に問いかける。

「こころは、自分なんですか」

「うん。オミドリサマは心じゃなくて頭の中を治してくれるの。でも、頭の中がきれいになれば心も本当に軽くなるから、大丈夫。心も一緒に治っていくよ。本当に、本当。不安かもしれないけれど変わるから」

 女性が言葉を繰り返す。懸命な言葉に横須賀が頷くと、女性が安心させるように笑った。

「それでお兄さんは、なにを治して貰いたいの?」

「え」

 きょとり。不意打ちに驚いて、それから横須賀は、ああ、と納得したように声を漏らす。オミドリサマを探して見えたからか、女性は横須賀が病気を治すためにきたのだと考えたのだろう。

「ええと」

「お兄さんも声? それとも何か見えるのかな。眠れてないんでしょう、大変ね」

「え、あ、はい」

 女性の問いに横須賀は反射で頷く。横須賀の場合目の下のクマは昔からで、出来てしまったシミかなにかのようにほとんど消えない。寝付きが浅いのも自覚したのが小学生くらいからで、それ以降はずっとだ。だから病気ではないしなにも問題ないのだが、しかし山田に適当に頷くよう言われていたので戸惑いながらも女性に話を合わせる。

「夜になると、いっぱい声が聞こえるんです」

 嘘では、ない。別に幻聴ではなく、こういった昼間に会話した人の声が体の中をぐるぐると巡ったり、思考に引っ張られるように別の言葉になったりする程度なので女性のような苦しみはない、と横須賀は考えている。ほとんど毎日のことだし、今更だ。眠れないと言うより寝付くまでの儀式のようなもの。

 それでも女性は、痛ましそうに眉を下げる。その表情を見ると本当だけれど嘘を付いているようで、申し訳なくなって横須賀は元々丸い背をさらに曲げた。

「それと、夜、起きちゃって」

 これも本当だ。しかしやっぱり小学生の頃からずっとのことで、だからなに、という訳ではない。なのにやっぱり女性は悲しそうに顔をゆがめるので、ああ、優しい人に申し訳ないなあと横須賀は居場所なく身をすくめる。

「そう。……そう。大変ね。頑張ったね」

 同い歳か歳下か、たとえ歳上でもさほど歳が離れていないと分かるような女性にひどく優しい声で言われ、横須賀は自身の首もとに手をやった。落ち着かない。とんとんとそのまま指先で軽く叩いたが、どうにも戸惑いが奇妙な膜を揺らす。

 亡くなった祖父の友人の孫ということで年に一回程度会う機会のあった四つも歳の離れた少女以外、横須賀は女性と話す機会があまりなかった。もっと言うなら、歳の近い女性と話すのは一言二言くらいだったり、あとはなにか捜し物を手伝ったときくらいなので、こういうふうに酷く優しい声で話しかけられる、ということには馴染みが無い。先日女性を見かけ話したが彼女も年下だし、そもそも、彼女については語調からして今話す女性とはまた感覚が違う。

 罪悪感をあばらの真ん中に抱えて、横須賀は女性に頭を下げた。

「ありがとう、ございます。ええと、こぼれちゃう、って先程いってましたけどそれって」

「オミドリサマが言ってたんだ。いらないもの包んでくれるおともだちがいて、それがある分にはそのこが拾ってくれる。でも、そのこははじめての場所だとすぐにこぼれていっちゃう。繰り返していけばその子が馴染むから、こぼれる量が少なくて大丈夫なの。さいごにはずっと一緒にいてくれるようになるんだって」

 女性の言葉を紙に書きながら、横須賀は首を傾げる。正直いまいちピンとこない。

「薬はないっていってましたけど」

「うん、薬はないよ。ただおともだちが守ってくれる、って」

 それ以上は女性も知らないのだろう。そうですか、と横須賀が頷けば、女性は立ち上がる。

「オミドリサマに会うなら夕方。今日もいると思うよ。頑張ってね」

「はい、有り難うございます。あ、えっと!」

 女性が立ち去る前に、横須賀は慌てて声を上げた。きょとり、と女性が瞬く。

「えっと、その、オミドリサマに会った時、お話聞いたこと、を、伝えたく、て」

 嘘、に近い。下手なことは話すなと言われたことが浮かんで、震える喉に横須賀は縮こまった。それでも、と、女性を見る。

「あの、お名前、聞いてもいいですか……」

 消え入りそうな声に、女性は笑った。

鈴木すずき。多分、私のこと言ってくれれば大丈夫だよ。じゃあね、お兄さん」

「あ、はい。……ええと、お大事、に」

 振られた手におずおずと振り返す横須賀の言葉に女性は文字盤を撫で、有り難う、と笑った。