1-9)オミドリサマ
着いた先は先日の病院だ。待合室の中を見てろ、とだけ残し山田に置いて行かれた横須賀は、言葉に従うまま周囲を見渡した。正直、患者ではないのに人の多い待合室にいるのは少しばかり後ろめたい。いつも以上に体を縮こまらせて隅に立ち、視線を巡らせる。
子供、母親らしき若い女性、高齢者。多い患者はそのあたりだろう。とにかく見たことを残すためにメモを、と考えポケットに手を伸ばした横須賀は、しかし動きを止めた。
「お兄さんもオミドリサマを探しているの?」
「え」
声にそちらを向けば、小柄な女性が気遣うように横須賀を見上げている。オミドリサマ、という聞き慣れない単語に尋ね返そうとして、しかし横須賀は寸前で言葉を飲み込んだ。
「はい」
「ああやっぱり。でもオミドリサマ、この時間はいらっしゃらないの。ええとそうだ、ちょっとこっちにきて」
女性が背を向けて歩き出す。あたりを見渡すが山田はなにやら看護師と会話をしていて横須賀の様子に気づいていない。
前をいく女性はおそらく横須賀が一人だから声をかけたのだろう。横須賀が誰かを捜していることに気づいていないと言うより、気にしていない。思い至らないことなら仕方がなく、適当に頷いてとの山田の言葉を思い返して横須賀はポケットに右手を入れた。
ポケットの中で手探りに手帳用の短いペンを動かし、付箋をひっかくようにして文字を書く。ぺりり、とノリ部分を剥がす際ポケットの布に付かないように気をつけて、それから待合室の壁にその付箋を貼った。山田の視線と水平になるような位置になったことを確認すると、そのまま女性の後を追う。
「オミドリサマ、いらっしゃらないんですか」
黙って歩くのも、と思い横須賀が後ろから声をかけると、女性が振り返る。並び歩くのを躊躇う横須賀を気遣うように、女性は歩調を緩め自分から横須賀の隣に並んだ。
並び歩くと、横須賀の高さからではそのうなじや首筋がよく見える。ほっそりと痩せた首筋の皺に沿うように浮き出た骨。それにかかる程度の焦げ茶色の髪は、毛先が分かれているようだった。
「そう、噂を聞いて来たんでしょう? 頑張ってきたよね」
女性の歳は横須賀とさほど変わらないくらいではないだろうか。二十代前半くらいに見える。指先のささくれや筋張った姿から水分というよりか栄養自体が足りていなさそうで中々年齢の判断はしがたいが――薄桃色の愛らしいカーディガンと白いスカートは、学生の頃キャンパスで見かけた女性達と似たような雰囲気と言えた。
そんな女性に何故だか優しい目で気遣うように言われるのは、なんだか奇妙だ。横須賀は自身の首筋を触り泳ぎそうになる視線をそれでも女性に留めた。落ち着かない心地が、ざわざわと皮膚を撫でる。
女性がそんな横須賀に少しだけ笑みを零す。隠すと言うよりは添えるように口元に置かれた左手には、大きな文字盤の時計がついている。金属の太いベルトは銀色できらきらとしていて、手首側につけられた文字盤がきらりと反射した。
「オミドリサマは夕方にいらっしゃるよ。私も治療していただいていてね」
「治療」
「うん、だからお兄さん、そんな心配しなくて大丈夫」
安心して、おんなじだから。そう言葉を重ねられ、横須賀は困ったように視線を動かした。それから目を伏せ、高い身長にも関わらず伺い見るように女性に視線をやる。
「もう、治った、んですか」
聞いても良いのか悩むような声音に、女性は少し眉尻を下げた。女性は左手をおろし、その時計の文字盤を右手で触る。
「うん、大丈夫。もうほとんど平気なの」
ほとんど。その言葉を横須賀は心内で反芻する。女性は痩せ形を好むと言うが、それにしても随分華奢な姿はなぜだかのどの奥をざわざわと刺激した。酸素が足りなくなるような不安になる心地を、それでも所謂拒食症と呼ばれる人たちほどではない姿であるということでなんとか宥めすかし、横須賀は改めて女性を見る。
きれいに撫でつけられた髪は、艶やかというには少し違う。横須賀のようなのっぺりとした髪でもなく、それは細い首筋だとか水分の足りなさそうな肌だとかが理由を物語っている。
全体的に栄養が足りていない、のだろう。襟首は広いカットソーで、鎖骨が浮き出ている。夏にも関わらず肌が見えないタイプのカーディガンを着ている。病院内が涼しいからか、と考えるのが一番なのだろうが、横須賀は少しだけ視線を揺らした。
山田は常に長袖で腕を捲ることすらない。他人に肌を見せることも触られることも嫌いな軽度の潔癖であると聞いたのは勤めることを決めたあとだった。潔癖なら整理整頓を好むのかと思っていたが、そうではないタイプらしい。目の前の女性がどういうタイプか、はわからないが――それでも、そういう可能性より別を考えてしまう。
横須賀も、露出は好まない。山田と同じでいつでも長袖だ。触られることが嫌なのではなく、横須賀の身長が随分と伸びた頃、与えられた服に半袖が無かっただけだ。そのまま馴れてしまった、くらいが横須賀の感覚である。それに加えて暑くて袖を捲った時、ひどく怯えたような汚らわしいとでも言うような不愉快を伝える目と偶然かち合ったことも原因だが――まあ、それらは横須賀にとっては今更考えるほどのことではなく、ただ長袖であるのが当たり前である、というだけなので横須賀は自身が長袖であることについてさほど気にもとめない。
そういういろいろな理由があると分かっている上で、それでも横須賀はある可能性を考えてざわざわと心内を揺らがせていた。カーディガンから伸びる左手。細くて横須賀の手で両手首を掴んでしまうことができてしまいそうだ。愛らしい服を着ているのに左手首の時計はやけに大きく、とある単語が頭をちらつく。