台詞の空行

1-8)疑惑

 * * *

「便所についてだが」

 その言葉がかけられたのは、意外にも次の日の昼過ぎだった。出社してから午前中はそわそわと落ち着かなかったが大丈夫だったのだと安心した頃合いだったので、横須賀はついびくりと体を強ばらせた。そっと山田を伺い見ても、あいかわらずサングラスは山田の表情を隠していて、それ以上にはならない。横須賀は首もとに手をやると、中指でとんとんと二度叩いた。

「えっと、なにか変でしたか」

「かくれんぼしていた人間ってのはどんなやつだ。やけに説明短いな」

 タイミングが午後になっただけで、山田の指摘はもっともだった。横須賀も自分が渡した紙を読む側だったら、意図して描写が削られていると訝しんだだろう。けれども病院で偶然会った人を説明するのに、横須賀はあまり上手に言葉を見つけられなかった。

 人の美醜に疎い自覚がある横須賀ですらわかるほど美しい女性がそこに隠れていた、なんて。内緒にするしない以前の段階で、その意味が全然別の物になってしまいかねないからこそ横須賀は言葉選びに慎重になったし、記述するのに困ってしまった。

 特に関係ないだろう人物のことなのに、それだけで紙が足りなくなってしまう。

「えっと、おんなのこでし、た」

 困惑しながらも横須賀がなんとか情報をひとつ落とす。山田の眉尻が上がる。

「男子便所に?」

 本当のことなのに訝しげに聞かれて横須賀は困ったように体を縮こまらせる。文字で伝えることが困難なことを、言葉で伝えられるなんてそんなわけがないのだ。だって、声は届かない。言葉の意味は、文字以上に存在しない。

 紙とペンを横須賀の手は探し――しかし結局止まる。内緒、というあの声がくるくると響いて、小指がじくりと脈打つ。

 書くということは、残すと言うことだ。左手で右手の小指を掴むように握り、横須賀は浅く息を吸って吐いた。

「便所でオンナに捕まってたのか」

「はい」

 山田の揶揄するような物言いに、至極真面目に横須賀は頷く。ふん、と山田が鼻を鳴らした。

「どんなやつだ、何してた」

「綺麗なひと、で、その、かくれんぼを、ないしょ、って」

「ハァ?」

 山田が大きな声で威圧するように返す。横須賀は体を縮こまらせていて、大きい横須賀と小さい山田の態度はまるであべこべ反対のようだった。

「――なんだてめえガキに惚れたのか。ロリコンか」

「え」

 酷く軽蔑したような物言いに、横須賀は驚いたように声を返した。サングラスの奥の瞳は相変わらず見えない。

「そいつに惚れたから言えねえんだろ。大概だな」

「ち、がいます!」

 横須賀が珍しく声を荒げる。山田が横須賀を見ると、血の気が引いた怯える瞳とかちあった。唇が震えており、小さな黒目は忙しない。

 図星、というにはあまりにも色のない表情だった。恥ずかしさというより恐ろしくて恐ろしくて仕方ないというような表情は、山田の言葉に対するにしてはあまりにいびつだ。

「そんなこと、違う、駄目です、失礼だ、駄目だ、可哀想、そんな」

「……言うぐらいどうでも良いだろクズ。まあ、冗談だ冗談。間に受けんな」

 おろおろと単語を繰り返す横須賀に、山田はあっさりと引いた。その言葉でようやっと息をついた横須賀は、胸の前で拳を握り浅い呼吸を繰り返す。

「得手不得手は別に良いし俺はお前の目さえありゃいいがな。苦手なことなら自覚しとけよ。なにが駄目なのか、なんで駄目なのか。いつかてめえの首を絞める」

「自覚」

 言葉を横須賀は反芻する。自覚。乾く口内を、湿らせる術はない。切らなきゃ。浮かんだ言葉が肺を掴む。自分は、駄目な子だけど、これがなければ――

「かくれんぼのガキがいて、内緒、ねえ。なにが内緒なんだ」

 山田の声が、思考を今に繋げる。は、と、驚きで持ち上がった顔が、喉を広げ、酸素を取り込む。ズレた思考のピントをなんとか合わせ直し、横須賀はあの日を文字から拾い直した。

「かくれんぼであそこに隠れていたこと、を、内緒にしてほしかったんだと思います。なのでええと」

「ガキに興味はネェ。俺は聞いてねえよ」

「有り難うございます」

 山田の言葉でようやっと安心したように横須賀が笑う。山田は息を吐いた。

「待合室にいたとかならもっと突っ込んで聞くんだがな。病棟の男子便所だろ? 噂になってねーってことは常習犯ってわけでもネェのか? まあガキのことはクソどうでもいい。ガキにはみじんも興味ねえ」

 シュウくん、に対しての山田の声を思い出すとその言葉は奇妙でもあった。あれが意図して出した声にしても、横須賀には遠い遠い優しい声で、山田は子供が好きなのではないか、と思ったほどである。実際あのかくれんぼの女性は子供と言うには大きかったがそれを知らない山田がガキと定義し興味ないと言い切るということは、山田にとっての子供はそういうことなのだろう。驚くくらい優しい声は、山田にとっては必要にあわせて出したもの、だということか。

「赤月のガキだが」

 まるで横須賀の思考をなぞるように、山田が呟いた。自分の思考が漏れ出たようで思わず体を強ばらせた横須賀は、山田の言葉を待つ。

 サングラスの奥の瞳が何を思い何を見ているのか、横須賀にはわからない。

「意外とまともに面倒見られてたな。子供を心配して、に嘘はネェようだ」

 病室を思い返す。子供の寝間着は病院の物ではなく持ち込みの物だった。山田がこつこつと机を人差し指の爪で叩く。

「てめーが便所の場所聞いている間に見たが、棚にはおそらく持ち帰る用のパジャマが袋につっこまれていた。ガキが言うように日曜に来るであってんだろう、一週間分きっちりあったな。予備のタオルもあったし、リハビリ用なのか赤月からの手紙みたいなもんも入ってた。てめえに確認させりゃよかったかもだがまあさほど意味ないだろう」

 横須賀は山田の指先を見ながら頷く。母親が子供を心配する。依頼の内容からも想像がつくことをなぜ今更と思いながらも、それが山田にとって気になったことならわざわざ聞こうとは思わなかったし、現在その不審は解消されているのだからさほど気にならなかった。

 こん、と山田の爪が机に押しつけられて、音が止まる。

「そう考えるとやはりおかしいだろ」

「?」

「単なる事務員だ、赤月は」

 事務員だからおかしい。それがピンとこなくて横須賀は首を傾げる。山田は説明する気などないのか、めんどくさそうに息を吐いた。

「赤月に情報を渡した見目の良い男、待合室の女。そのへんをどうにかしとかないとなんネェな」

 ぶつぶつと山田が呟く。水はどうなったのだろうか。そう聞きたくもなるが、山田によると今回の依頼は色薬を見つけるということではないらしい。依頼内容は確かにそれなのに何故、と思うが、横須賀には考えてもわからない。

「……待合室の女にはあたりがついてる。外国の男はそっから引っ張るか。情報が足りねえ」

「もしかすると外国の方じゃ無いのかもしれませんね」

 山田の独り言のような言葉に、横須賀はそろりと言葉を落とした。山田が横須賀を見上げる。

「まあそもそも目鼻立ちや血筋だけで外国人って考え方はおかしいがな。日本国籍の有無で言えば今時ナンセンスだ。ただ、そう見えるだけってことで確証はないだろうとは思うが、どうしてそう思った」

「外国の方でしょうか、と赤月さんはおっしゃってました。山田さんが言うように、外国人、と確証はきちんとお話しないと難しいとは思います。でも、外見からそうかもしれないと思ったらそのままそう伝えると思いますが……外見だけでは足りなかったか、それとも別の要素があったか

 言葉選びには、人の癖がある。ただそれだけで、横須賀の言葉には根拠がない。しかし山田は少し考えるように顎を撫でた。

「続けろ」

「ええ、と。外国の方だと思います、や、外国の方のようで、でなく、でしょうか、はこちらへの問いかけですよね。すみません俺続く言葉は聞いてなかったんでずれてるかもしれませんが」

「好きに言え」

「……思い返した時に、外国の方と思える要素があったか、思い返したときに外国人じゃないかもしれないという要素があったのか。声色的には、ふとそう思った、というような色があったと思うんです。だから、外国の人と言い切れるほどのものではないのかな、と、思いまして」

 確信はありませんごめんなさいと横須賀が謝罪で言葉を締めれば、山田はくるりとペンを回した。眉間には皺。口元は考えるように覆われている。

 山田の表情が硬くなったことに横須賀は体を縮こまらせる。が、その顔から目を離すことはしない。

 細い眉がぎゅっと中央に皺を寄せている。それは怒りとかそういう感情ほどの強さではなく、しかし悲しみと言うには眉尻は下がっていない。サングラス越しの瞳は相も変わらず見えず、口元も覆われて表情という表情はわからなくなっている。先程掴んで回した右手のペンは、ペン先を出して貰うことも無くその平らな先端を机に押し当てられていた。

「クソめんどくせぇな」

 小さく山田が吐き捨てて、それから立ち上がった。ペンは無造作に机の上に投げ出され、ころころと転がって机の下に落ちる。横須賀がそれを拾うと、山田はそのつむじを見下ろした。

「いくぞデカブツ」

「え、あ、はい」

 ペンを元の場所に仕舞いながら横須賀は慌てて返事をする。山田はもう横須賀を見ずに先を行っていたので、横須賀は慌てて白い鞄を持って後に続いた。机の上の紙は山田が段ボール箱に入れたので、ああ、あとで片づけなきゃななどと横須賀はそれを軽く確認した。

 横須賀の渡した書類、二十二年前のオカルト雑誌、九年前の経済誌、昨日の新聞。統一感のないラインナップだが、それはいつものことだ。

「おい愚図」

「す、すみません」

 慌てて山田を追いかける。小柄な山田を見下ろせば、いつものきっちり撫でつけられたオールバックと、細い首、小さな肩。こうしてみればさほど威圧感などなさそうなのに、正面から見ると堂々としていて凄いなあと横須賀は純粋に感心してしまう。

 山田が振り返る。サングラスは大きくて、なにもかもを隠している。

「下手なことは話すんじゃネェぞ、よく見てろよ。それとなんか話しかけられたら適当に頷いて話を聞き出すくらいはしとけ」

「はい」

 念押しに素直に頷けば、くつりと山田が笑う。横須賀もつられるように、へらり、と気の抜けた笑みを浮かべた。