1-7)ゆびきり
とりあえずやることは、やった。聞いたのにトイレに行かないのは落ち着かないしさすがに不審だろう。そのまま突き当たりを右手に曲がりトイレに入る。立っている人はいない。個室は鍵が閉まっている。
(一応しとくかな)
よいしょ、と鞄を持ち直してから向き直る。扉の開いた音。個室から人が出てきたのだろうと判断しちらりとそちらを見――横須賀は固まった。
「こんにちはー」
「……え、あ、こん、にちは」
愛らしい少女の拙い声。頭を下げたことにより、さらり、と長い髪が流れる。
「おといれしないの?」
「え? いや、あの」
困ったように横須賀は周りを見渡す。しかし、誰もいない。保護者も、付き添いも。そもそも保護者といっても、少女の拙い言葉とは反対に、その声の主はあまりにも――女性、だ。
「お、おんなのこは、向こうだよ?」
「んー?」
横須賀が女性に向き直る。女性はくてん、と首を傾げた。それから横須賀を見上げて、目を細める。
長い睫の奥の瞳は、月のない夜空のように暗く、優しい。
「おにーちゃん、ないしょにしてくれる?」
尋ねるにも関わらず、肯定だけを導くことが当然とするような色の声。言葉のままに頷きかけ――横須賀はなんとか鞄を握り直して寸前で止まった。
「ええと、わざと、だとしたらやっちゃだめだから、なんでか教えて貰えるかな。あんまり、良い事じゃないよ」
言葉を探して見つけられず、横須賀はかがんで女性と視線を合わせた。
身長はおそらく一六〇より少し小さいくらいだろう。髪は長く腰あたりまで伸びており、人形のようにまっすぐだ。そして人形のような作り物じみたほど美しい直線にも関わらず、髪色は所謂『みどりの黒髪』という言葉がしっくりくるほど艶やかで、髪の美しさを愛したと言われる昔の人の気持ちが分かりそうになるほどの色、がある。
そういう髪を持っているが、女性の見目で目を見張る物はその髪だけではない。陶磁器のようにつるりとした肌、まるで夜の帳のように厚く長い睫。横須賀の瞳はひどく虹彩が小さいのだが、女性の瞳は普通よりよほど虹彩が大きく、見透かされそうなほどだ。
直線の美しい鼻筋と、その下にはふっくらと小さな口。柔らかな唇を持ち上げて微笑めば、えくぼが浮かぶ。化粧っけの無い陶磁器の肌は、そのなめらかさ故に内側の血液を透かせ、愛らしく薄紅に色づいている。
入院患者なのか、ピンク色にキャラクターが描かれた初夏には少し厚手に見える寝間着。マジックテープの白い靴。明らかに大きく見える革手袋。それらすべてが霞むような人形じみた愛らしい顔立ち。
あまり人の美醜に頓着のない横須賀でも、美しい人、ということはわかるほどにまばゆい。造形があまりに整いすぎて年齢はわかりづらいが――それでも、いくら大人びて見えたとしても流石に十五より下ではないと分かる。故に服装とその見目はいびつで、けれども女性の物言いと服装は見合っているようにも見えた。
女性は先ほどから、幼い子供のように声を出している。まだ言葉の形に慣れないように、一音一音拙くどこか舌っ足らずに言うのだ。その大きな瞳でまっすぐ見上げて瞳に映る全てを写し返して、まるで何も知らない子供のように微笑みながら。
「かくれんぼ、してたの」
「ええと、それならここは、ちょっと」
「ここがいいから、ないしょにして?」
首を傾げて再び乞う相手に、うう、と横須賀は呻く。相手が美しいから、ではなく、横須賀は元々頼まれると断れない性格だった。けれども、それでも頷くことは出来なかった。
相手の物言いは子供のようだが、しかし確かに女性だ。そういう女性が、いくら病院とはいえ悪戯に選ぶ場所には好ましくないものだ。その理由を口にすることはあまりに恐ろしい可能性なのではばかられたが、口に出来ないからこそ、彼女の願いに頷くことは出来ない。
「かくれんぼ、でここは、他の人驚いちゃうし。えっと」
「ここなら、ぜったいみつからない、から。みつけてもらえなくても、しかたないばしょなの」
女性の笑みがふと消える。顔立ちが整っているからか、無機質な人形に近くなる。
ざわり、と、横須賀の胸で影が動く。
「……病院は、広いから」
乾く口内をどうにか湿らせて、横須賀は呟いた。女性の大きな瞳が横須賀を写す。横須賀は女性の瞳の中に自分がいるのを見つける。
にもかかわらず、なぜか目があったとは感じがたいそれは奇妙でもあった。
「おトイレじゃなくても、見つけて貰えなくても仕方ないし、おとこのこの場所は、やめとこう」
「……でも」
「秘密にはしておくけど、ここにいたら、今度は俺が見つけちゃうよ」
眉を下げて、情けない顔で横須賀が笑う。女性はぱちくりと瞬いて、えくぼを見せた。
「おにーちゃんがみつけてくれるの?」
「う、か、かくれんぼするなら、ちゃんとかくれんぼしている場所で見つけたいかな……ここはずるいよ。ずるっこしてるの、見つけちゃう」
「うー、わかった。やくそく」
慌てて横須賀が言えば、女性はちょっとすねたように唇をとがらせる。それから首に手をやり視線を動かす横須賀に、小指を差し出した。
厚手の革手袋。なぜつけているのかわからないが、外さないことを指摘することもない。ただ、出された小指をそのまま見る。馴染まない、それでも知っている。遠い遠い、約束のおまじない。
「ゆびきりー」
「あ、う、うん」
言葉に、慌てて小指を差し出しす。厚手の手袋に覆われた小指に絡めることは難しかったが、それでも長い指で横須賀はなんとか小指をつかむ。
手袋は女性には大きいようで、上の方は中身が入っていなかった。根本あたりを機軸に指を絡めれば、女性は嬉しそうに目を細める。
「ゆーびーきーりげんまーんうーそついたーらはーりせんぼんのーます!」
ゆびきった、という音で指を離すと、女性はけらけらと幸せそうに笑った。
「じゃあ、ないしょだよおにーちゃん」
「あ、うん。わかった。男の子のおといれはだめ、だよ」
「だいじょーぶ」
ばいばい、と手を振る女性に振り返し、それから右手を見る。
ゆびきり、なんて、横須賀にとってははじめての経験だった。
「……あ、もどらないと」
ただのトイレに時間をかけすぎている。付箋の指示がトイレの場所を聞いて移動しろとのことだったが、戻ってくるなという指示ではない。特に使ってもいないが誤魔化すように手を洗う。一瞬小指だけためらいもしたが――洗って約束が流れることはないのだ。一緒に洗って、ハンカチで拭いて病室に戻る。
戻った先では案の定山田が眉間に皺を寄せていた。
「遅ぇぞクソでもしてたのか」
「す、すみません」
「まあいい。行くぞ」
足早に山田が先をいく。慌てて追いかけようとして、横須賀はしかし振り返った。そうして不思議そうに瞬く矢野と目が合う。
「有り難うございました」
「いえ」
「あの、」
「?」
聞こうとして、秘密にしながら聞けることでもないと気づく。それ故言葉を飲み込んで、横須賀は笑った。
「……よろしくお願いします」
一礼。山田に置いて行かれる前に、すぐに歩を早める。身長差から、追いつくことはそこまで困難ではない。
「山田さん、お待たせしてすみませんでした。ええ、と」
「どんくせーのはもういい。今日は終いだ」
「しまい」
復唱する横須賀を山田が振り返る。横須賀はもう一度口の中で復唱し、終い、と漢字に直した。
「事務所ですか」
「テメェはこのまま帰ってもいいが、戻りたけりゃ好きにしろ。半端な時間だしな。帰るなら俺が事務所戻った時間でつけといてやる」
元々、この仕事は予定外の時間勤務なども起きやすく、故にフレックスも希望があれば使っていいと言われてはいる。移動などを考えてのことだろう、と思いはするが、しかし横須賀にとって職場にいることも家にいることもさほど違わない。
「えっと、事務所、に」
「事務所なら、今日のことでなんかあったらまた書き出しとけ。書いたモン寄越せば、説明は明日でいい。ああ、やけに遅かった便所で何していたかについても書けよ」
便所、との言葉に、あの女性が浮かぶ。秘密にするよう言われたが、山田になにもかも言わないことは流石に出来ないだろう。ないしょ、というあの女性の声が浮かんで、横須賀は小指をくるりとなぞった。
(リメイク公開:)