台詞の空行

1-2)探偵と依頼人

 グラスを拭いたところで、インターフォンが鳴った。つい体をびくりと跳ねさせた横須賀は、小さく息を吐いた。人が来る、と聞いていたとはいえ、突然の音は空間を裂くようで驚いてしまう。

 自分が押したのは面接の時と初出勤の日だけだ。それも押した側だから中の音はまた違って聞こえる。大きすぎる音ではないがつい反応しがちな自身に苦笑すると、横須賀は給湯室から顔を出した。山田は座ったままで、先ほどの雑誌は未だに仕舞われず机に平置きされている。視線は山田の手元側。時計でも見ているのだろうか。室内に時計はあるが、山田も時計をつけているので可能性としてはあり得るが、応対にでない理由はわからない。こういうのは下が出るもの、なのだろうか。不思議に思いながら、しかし応対用の受話器が山田の机にあるので念のため横須賀は山田を見た。

「えっと、出ますね」

「いい。テメェは客が座って三分経ったら水運ぶなりなんなりしてこっちこい。こっちきたら俺が何か言わない限り動くな」

「……? はい、わかりました」

「テメェは黙って突っ立って見てろ。それがテメェの仕事だ。邪魔だけはすんなよ」

「はい」

 もう一度、インターフォンが鳴る。そこでようやく山田が応対用の受話器を取った。

 受け答えするならすぐだろう。入ってくる前にと横須賀は慌てて給湯室に引っ込む。山田が客に入室を促し、受話器を置いた音がわかる。

 給湯室ではする事がなく、そもそもなにかしていいのかも横須賀にはわからない。手持ち無沙汰もあり中の様子を伺うように聞き耳をすると、コツコツとヒールの音が響いた。少し神経質に床を叩くような音だ。とはいえ、焦っている様子はなさそうである。

 おそらくまだ客は座っていないが、念のため横須賀は時計に視線を向けた。

「改めまして、本日はよろしくお願いします。赤月あかつきです」

「話を聞きましょう。座ってください」

 名乗ったのは女性の声だ。足音は一つ分だったので、依頼人は一人なのだろう。山田の言葉に靴の音が再度響いて、止まる。横須賀が時計を見るのとさほど変わらないタイミングで、また靴の音が響いた。とはいえ、こちらは山田の靴音だ。おそらく、デスクから応接椅子の方に移動したのだろう。

 三分。内心で呟いて、横須賀は時計の針を見続ける。

 山田が座っただろう音がして、十三秒間、声はなかった。赤月が訝しげにあのと声を漏らしたとき、同じ単語を山田が被せた。

「あの、具体的に用件をお願いできますかね」

「え? あ、はい。こちらを見ていただきたいのですが」

 ほんの少し靴が床をする音。客用の椅子は低い為、少し身じろぐだけで音が出る。それと紙かなにかのすれる音。差し出しただけなのだろう、取り出すような音は続かなかった。

「薬を、探してほしいのです」

「薬」

 山田が抑揚のない声で赤月の言葉を繰り返す。はい、と返す赤月の声は静かだが妙に悲しげな色があった。

「息子が病気で、――手の施しようがない、と言われました」

「手の施しようがない、ですか」

 は、とこぼれるため息。山田はそれに倣うように、抑揚のない声だが赤月の声と同じ程度の声量で小さく返す。

「はい。ですがたった一人の息子です。信じたくありません。様々な病院に行きましたが、しかしそれでも無理と言われ……先日、もしかしたら効くかもしれないと、そういう薬の話を伺いました」

「先日ですか」

 山田の声は単調だが、音量だけは赤月の声に倣ったままだった。希望が本当に大事だったのか、少しずつ赤月の声が大きくなり、山田の声も大きくなる。そしてそれにつられて赤月がさらに感情を込めて言葉を続ける。

「ええ。ようやく見つけた希望です。ですからこちらでその薬を探していただきたいのです」

「ようやく見つけた希望! それは素晴らしいですね。ですから先日話を聞いてすぐ、こちらに依頼にきたと」

「はい、その通りです」

 山田の声が、それまでで一等大きく、そして先ほどまでの抑揚のなさとは打って変わって芝居じみた調子で高らかになる。そうして笑いを含んだ声で赤月に声をかけると、赤月は神妙に頷いた。

「なるほどなるほど、よぉくわかりました」

 くつくつと喉で笑うさまが見えるようだ。赤月の靴が床を擦る。

「では、依頼を受けていただけるのですね。私の大事なあの子は」

「失礼します」

 給湯室に扉はない。だから壁を使ってノックを四回。話し中ではあったがきっかり三分経ったので、横須賀は中に入った。

 赤月が驚いたように横須賀の方を向く。山田は赤月を見ている。

「お水をどうぞ」

「あ、ああ、有り難うございます」

 左手側からグラスを置いた横須賀に気を使ってか、赤月は右手にある鞄と一緒に少しだけ右側に席をずれた。山田は身じろぎしないどころかグラスも見ない。机の上には綺麗な封筒が未開封のまま置いてある。

「このでかいのは私の補佐です。一緒に話を聞かせてもらいますね」

「あ、はい。……よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 横須賀は頭を下げ、ソファの横で立ち竦んだ。なにか命令がない限り動くな、と言われているため山田の横に座ることは出来ない。というより客用の長椅子と違い、その正面にある椅子は山田一人分だ。山田のデスク以外に座る場所自体無く、命令もない。どうしようもないので、結局横須賀はお盆を持ったまま赤月の横にそのまま立った。

「依頼を受ける前に、いくつか聞かせてもらいたいことがあります」

「はい」

「薬はどちらで聞いたのですか」

「先日、病院から出るところを呼び止められまして。その方が言っていました」

「その方の、なにか身元の分かるものは」

「話だけでなにも」

「どんな人物です?」

「すらりとした綺麗な方でした。切れ長の目が少し特徴的にも思えましたが、誰に似ている、とかまではちょっと、私には。外国の方でしょうか。非常に整った顔をされていまして――」

 二人のやりとりを聞きながら、横須賀は赤月を見る。メモをとりたいがとれないのでもどかしい。しかしもどかしくとも、とれと言われていないのだからおそらくとってはいけないのだろう。

 おそらくだが、横須賀がこの場所にいるのは話を聞くためというより見るためだ。山田はその大きなサングラスが理由かどうかはわからないが、あまり見ることは得意ではない、らしい。整理の時も、見つけるのがお前の仕事だ、と横須賀は言われていた。

 改めて見ると、赤月は随分と身だしなみに気を使う女性のようだ。肩胛骨にかかる長さの赤茶色の髪は自然な色というよりは染めているようだが、痛んだ様子はない。おそらくれればするりと通るだろう柔らかい髪の毛先はゆるく巻きが掛かっており、サイドの髪はいたずらに顔に掛からないように編み込んで後ろで結ばれている。髪飾りは青と白のストライプ。

 前髪は眉より少し長くしたものを、おそらくワックスかなにかで流しているのだろう。向かって左側はおでこがでているが、真ん中より少し右側の髪は斜めに流れて表情を作っている。横須賀のように分け目を作っても両サイドが少し眉尻にかかるような髪型とは違いきっちりとしていて、形のよい眉は隠れることがない。

 それ故に下がった眉や、平時ならおそらくもっと溌剌としているだろうに悲しげにゆがんだ瞳の目尻に浮かぶ涙は決して隠れることなく、憐憫を誘うようでもあった。つるりとした白いおでこ、それから悲しみで赤くなった目尻。すっと通った鼻筋はおでこと同じく白い。今は右手に隠れてしまっている嗚咽を漏らす唇はピンクがかった赤。おそらくそれにはなんだかややこしい名前がたくさんあるだろうが、横須賀はそういったことにはてんで疎く違いがわからないので真っ赤ではなくかといって暗すぎるわけでもないほんのりピンク、くらいしか読みとれない。

 手は細くて長い指。マニキュアはほんのりつけていると分かる程度の桜色。女性らしい手、としてあげられるイメージに随分近いと言える。

 ほっそりとした首筋のラインから下を見る。襟元は女性の着る服によくあるデザインで、少し空いていて鎖骨が見える。その上には小指の爪ほどの小さな緑の石。石の周りには銀の飾り枠があり、そこから細い銀のチェーンがつながって、首元を飾っている。

 きっちりとアイロンの効いた薄い青と白のストライプシャツは長袖より少し短い。七分袖だっけ、と横須賀は考えるが、正直半袖より長く長袖より短いものは全部七分袖かなとか考える程度のざっくりとした知識だ。細い左手首を、細いピンク色のベルトが飾っている。内側に文字盤を向けているのかベルトしか見えないが、アクセサリーにしては飾りがなさすぎるので間違いではないと思われる。大腿部の上に置かれた左手は拳を作っており、ベルトのバックルはテーブルと拳の影でわからない。ベルトはきっちりとラインを作る黒。ズボンは白色で、ジーンズではなく伸縮しやすいタイプのようだ。

 赤月が座ってる状態で読みとれるのはそれくらいだ。上から見ているとはいえ、足下まではわからない。赤月の持ってきた鞄は細いベルトのショルダーバッグで、色ははっきりとした赤色。悲しみにうかぶ涙を拭うためにハンカチを取り出したものの、小さなサイドのポケットから取り出したので鞄の中は見えなかった。

 山田へ賢明に語りかける赤月をゆっくりと観察した横須賀は、今度はちらりと山田を見た。山田は横須賀と違って随分小さく一五〇センチと少し程度の身長で、座っている状態でも赤月より小さい。山田との差をざっとみても、赤月は一六〇はあるだろう。

 ワックスできっちりと撫でつけたオールバックの下の眉はほとんど動かない。ゴーグルのように密着したサングラスで目元がわからないのも相まって、口元だけが表情を伝えている。大きく持ち上げられる口角とは反対に、顎は小さい。その下の細い首と、一応程度にアイロンが掛かった襟に、白いシャツの下から透けて見えるのはベストの黒色。赤いネクタイはすらりとした首元できちんと締まっている。すべてが当たり前に整然としていて、無機質だ。

 ふ、と、山田がこちらを見たような気がして横須賀は視線を逸らした。赤月をもう一度見る。山田が小さく笑ったような空気を揺らす音がした。

「では、依頼を引き受けましょう」

「ありがとうございます……!」

 話はあっさりと終わった。山田の言葉に赤月が感極まったように頭を下げる。それから書類の記入を促し前金を受け取る、まで終えると、山田は横須賀を見上げた。

「外までお見送りしろ」

「あ、はい。あ、お盆、置いてきます」

 持ったままだったお盆を慌てて給湯室に戻すと、横須賀はもう一度赤月の隣に立った。赤月を見下ろしたところで、山田が口を開く。

「今日は車ですか?」

「いえ、電車です」

「そうですか。では、そこの男に駅まで送らせます」

「え」

 赤月が驚いたように声を漏らす。駅まで。せいぜい事務所の入り口までと思っていた横須賀も、つい山田を見てしまう。

「あいにく車でお見送りまでは出来ませんが……まあ見ての通り図体は立派でしょう。昼間とは言え女性を一人で行かせるわけはいきません。駅までですがお見送りさせますよ」

「いえ、ですがお手数をお掛けしますし」

「気にしないでください」