台詞の空行

1-3)見送り

 赤月の否定を山田の言葉が打ち消す。愛想のよい笑顔と言うには口角がにっと上がりすぎているような笑みで、山田は横須賀を示した。

「こいつは私にとってワトスンみたいなものでしてね。頼りなく見えるかもしれませんが、十二分に信頼の置ける男ですよ。横で突っ立っているだけで終えるのはあまりに格好がつきません。見送る名誉くらい与えてください」

 丁寧というよりは芝居がかったような語調は、山田の外見と合わせるとやや胡散臭く感じるのだろう。赤月は困惑したように山田からちらりと横須賀をみた。あ、という音が出損なったように口を動かした横須賀は、山田が顎をしゃくるように動かしたのを見て慌てて頭を下げた。

「あの、えっと、よろしくお願いします」

 言葉と一緒になった反射のような言葉に、赤月は息を吐いた。そうして、観念はしたが困惑の色を隠すこともない様子で立ち上がる。

「ではお言葉に甘えますね」

 かろうじて取り繕ってはいるがそれでも伝わる不要の感情を、山田は指摘せずにただ笑む。それから、「ああ」とややわざとらしく、今思い出したように声を出した。

「そうだ。なにか頼みだとか思い出したこととかあったらそいつに言ってやってください。メモをとらせて、一語一句間違えずこちらに伝達させますので」

「わかりました。では失礼します」

 赤月が山田に頭を下げる、その後ろ姿を横須賀は見た。先ほどの語調とは結びつかないくらいに、深く丁寧なお辞儀だ。髪に隠れて首筋はみえない。黄色い靴は細いヒール。内側にかかった靴減りが見えるが、それは本当に多少だ。色合いから見ても新しいほうだとわかる。

 赤月が振り返る。さらりと髪が揺れる。

「では、駅までよろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

 先に歩き出した赤月を横須賀が慌てて追い、事務所の扉を支え開いた。扉を押さえる横須賀の隣を赤月が通り抜ける。身長は、さきほど予測したとおりおそらく一六〇より上。横須賀と違って背筋はまっすぐ伸びている。

 通り抜ける際に甘い香りがしたのは、おそらく香水だろうか。ふわりと香る程度で、すぐそこに人がいると分かるようなほどのものでない。品がいいと言うべきなのだろうか。その香りを求めるならおそらくもっと近づかなければならない、そういう誘うような微かな香り。

 なんの香りなのか。その答えには一歩の距離があり、横須賀はすん、と鼻を鳴らした。香りはおそらく首筋からで、そこに無遠慮に近づくなど他人である横須賀には出来ない。そもそも香りを当てられるほどの知識を横須賀は持たないので、考えること自体無意味かもしれない。

 結局、横須賀に出来ることは見ること程度だ。

 事務所の階段を降りれば一階はコンクリートでなにもない。先を行く赤月の斜め後ろを歩きながらその姿をじっと見る。見ろ、と行っていたので隣に並んだ方がいいのだろうか。けれどもなんとなく、人の隣は横須賀には難しく感じた。

 しかし、何の意味があるかはわからないが雇い主である山田に言われたことは仕事だ。追い抜かないように歩幅を小さくしていたが、並んだ方がいいだろうか。ぐずりとした思考で次を探していると、赤月がショルダーバッグを横須賀がいる斜め後ろとは反対側にかけ直した。

「随分信頼されているんですね」

「え」

 赤月の言葉に、横須賀は間の抜けた音を漏らした。返事と言うよりもそのままうっかり漏れ出たと言うに適した音を、赤月はそのまま首肯で返す。

「ワトソン、とおっしゃっていたから。探偵なんて私にとっては馴染みがないんですけれど、その名前が出るくらいに信頼されているんだな、と」

 赤月の言葉に、横須賀はつい首後ろに手をやった。ワトソン。シャーロック・ホームズに出てくる、ホームズの親友の名前だ。元々は相棒の人だな程度の印象でしか知らなかった横須賀は、山田がその名を使うことから試しに本を読み、そういう立ち位置の人だと認識を改めた。そしてその認識から自身がワトソンかというと、なんだか嘘をついているようで落ち着かない。

 そもそも山田は、名前を使うだけで小説なんざ読んでない、と言っていた。赤月、横須賀、山田の持つシャーロック・ホームズへの知識がどの程度共有できるモノかわからないが、ワトソンという単語への印象と横須賀の立場は、横須賀にとっては重ねきれないものだ。

 とはいえ、依頼人にすべてを語るのは不安を煽ることになるだろう。横須賀はワトソンではない、と言ってしまえば、信頼を示すためにその単語を使った山田を否定することになる。山田の言葉は、横須賀にとっては正しい。依頼人にとっても、正しい方がいい。

 曖昧に笑うことでそれ以上言葉を重ねない横須賀に、赤月は特に言葉を重ねず、まっすぐと前を向き進む足を止めなかった。変わりに、横須賀は首筋を撫でながら赤月を見下ろす。

「今日はご用事の後こちらにきたのでしょうか?」

「いいえ」

 きっぱりとした否定。横須賀の元々情けない眉が、さらに下がる。

 赤月の視線は横須賀とはかち合わない。横須賀は歩幅があるので苦ではないが、赤月の歩く早さは女性にしては随分と足早で、駅まではすぐにつきそうだ。

「なにかお聞きしたいこととか、伝えておきたいことがあればお気軽にお申し付けくださいね」

 それだけ言うと、ほんの少しだけ歩く速度を緩める。隣ではなく右斜め後ろに。時々、甘い香りが風に運ばれる。

「……薬」

「はい」

 小さな呟きに、横須賀は相づちを打ちながらメモ帳を取りだした。一言一句、という山田の言葉が浮かぶ。

「見つかったらすぐにご連絡お願いします」

「はい、そのようにお伝えしておきます」

 会話はそれで終わりだった。横須賀がメモを取るのを見もせず、赤月は進む。

 斜め後ろからよくよく見ると、赤月の耳にはピアス跡がある。今日はしていないだけのようで、塞がっている様子はない。駅へは本当に短時間でついた。

「では、こちらで」

「あ、改札までお見送りします」

 慌てたように横須賀が言うと、いぶかしがるように赤月が見返す。困った顔で横須賀が笑えば、赤月は深く深く息を吐いた。

「……お手数お掛けします」

 赤月が電車の切符を買い、改札を抜けるのを見送る。赤月が改札の向こうで一度だけ振り返り、横須賀は頭を下げた。

 赤月の姿が見えなくなって、横須賀は人混みを避けるように端に寄った。そうして馴染んだ所作で、先ほど使ったメモ帳と向き合う。頼みについてはすでに書いたが、それ以外の発言を書き留める為だ。そう数はないが、念の為行う癖が横須賀にはついている。

 ワトソン、という単語をペンが記し、ほんの少しだけ横須賀の表情が苦笑を作った。『ワトスンにしてやる』、そう言った、山田の声が浮かぶ。

(探偵、は、俺も馴染みがないな)

 横須賀が山田の事務所で働くことになったのは偶然だ。探偵になりたかったわけではないし、そもそも事務員としての仕事しか今のところしていない。雇われて初めての依頼人が赤月で、これからなにをするのかは山田の話によるが――山田は、横須賀に探偵の仕事を期待して雇ったわけではない。つい、というように、横須賀の視線がくうを見る。ここから見えるわけなど無いが、思考をそのまま乗せたように視線は図書館のある方を見、しかしまた紙に向かった。ぽつり、と、紙に押さえつけられたペンが黒を作る。