台詞の空行

第一話 うつわ(前編)

1-1)五月十五日、探偵事務所にて

 愛知県民話集、来訪する神とマレビト信仰、花田の葬送文化、土着信仰における情報と心理の相互作用……おおよそ探偵事務所には物珍しいと言えるだろうタイトルの本が、段ボールの中で並べられる。積み重ねるばかりだった本をそうして二段分仕舞いきると、ノートパソコンのキーを叩く音が埃っぽい室内に響いた。ややあって音が止まり、段ボールにラベルが貼られる。そこまで作業を終えてようやく横須賀よこすかはじめは小さく息を吐き、立ち上がった。

 それまで物に埋もれるようだった体が突然天井に刺さるような圧。とはいえ原因である横須賀はそんなこと自覚する由もなく、ラベルが貼られていない別の段ボールを抱えて扉を開けた。背中が丸まるのは段ボールの重さからではなく、単純に猫背なせいだ。

 それでも一九四という長身が縮むにはあまりにささやかすぎる。頭をぶつけないようにかがんだ横須賀は、先ほどの雑然とした室内とは真逆の整然とした部屋の明かりに目を細めた。そうしてすぐ、口を開く。

「山田さんすみません、こちらですけど」

「勝手にしろ」

 部屋の中央から窓際よりにあるデスクで、所長である山田やまだ太郎たろうは短く言い捨てた。サングラスで視線がわからないとはいえ、雑誌から顔を上げない状態では一瞥すらされていないのは察しやすい。

 横須賀の元々ハの字のように下がった眉がますます情けなさを形作るが、見ていようが見ていまいが気にしないのが山田太郎という人物である。ここ数日の勤務でそう理解できるほどに、山田の態度は露骨でわかりやすかった。

 とは言えそもそも横須賀は、自身の表情が他人になんらかの影響を与えるとは思っていない。つい表情が変わってしまうだけで情に訴えたいわけではなく、確認が難しいことに困る以上のものはなにもない。

 だから粗野な物言いに怯む様子はなく、でも、と、困った様子そのままにもう一度口を開いた。

「分類が難しいものがあって、どうまとめようかなと思って、その、ご意見伺いたくて。本とか紙は別にまとめてあるんですけど、えっと、これとか何の物かわからないからメモの残し方もわからなくて……」

 段ボールを一度置いて横須賀が手にとったのは竹のようなもので編まれた丸いなにかだ。卵のようにも見えるが、実際なんなのか横須賀には想像ができない。編み籠、という単語が浮かぶものの、籠として機能しているようには見えない。小物と書いてもいいのかもしれないが、それは大きな分類でしか無く似たようなよくわからないものと区別が付かない。

「適当でいいつってんだろ。死体部屋のモンは全部死体でしかネェんだよ」

 山田は顔を上げない。それどころか雑誌を少し持ち上げて顔に近づけた。室内なのだからサングラスを外せばいいだろうが、横須賀は山田の素顔どころかその目元を確認したことがない。ミラーグラスと呼ばれる構造の濃度が高いサングラスは、横須賀の顔を映す以上のことはなかった。

(九月号)

 つい本を確認してしまう癖のある横須賀はその背表紙を確認し、内心で小さく呟いた。今日は五月十五日。確実に去年以上前の物だが、流石に遠目では年数まではわからない。別途整理していた雑誌類には二十年以上前の物もあったので、最新号でないことは特に気になるものでもなかった。それよりも問題は持ち込んだ段ボールであり、横須賀は用途不明の置物を段ボールに戻すと、もうひとつの困り物を取り出した。

「えっと、じゃあ、服の置き場所だけでも教えてくださいませんか? どうすればいいかわからなくて」

 記録を残しづらいという意味で困った置物以上に、洋服は置き場所に困る。取り出した白いワンピースは無造作に段ボールの上にあったものだが、かといって段ボールの上に戻すわけにもいかないだろう。今のところ他に服を見つけていないが、適切な場所があれば仕舞っておきたい。

 しかし横須賀の思考を一蹴するように、山田は短く鼻から息を吐き捨てた。

「んなもん、あるわけネェだろ。テメェのロッカーすらネェんだからあったらおかしいくらいだ」

 肩をすくめ、最後には嘲笑すら浮かべてみせる。山田のそれはあからさまに小馬鹿にするような態度であったが、横須賀は確かに、と頷いた。勤務時の服装は普段着のジーンズでいいと言われたから気にしていなかったが、死体部屋と山田が言う部屋の入り口に鞄を置いている程度に横須賀の場所はない。もっと言えば横須賀専用のデスクも無く、作業する時も食事の時も基本的には客用の応接机を使うことになっている。

 横須賀の場所はない。とは言え山田の場所があるかというと、デスクはある。が、ロッカーはない。山田は横須賀と違いまるで喪服のような黒いスラックスに黒い革靴と白いワイシャツ、それでいて喪服でないのを主張する真っ赤な細いネクタイといった出で立ちだが、別に着替えているわけではない。黒いジャケットをイスの背にかけて置いているので、ハンガーといったものもおそらくないのだろう。この事務所は余剰が存在しない。きっと存在する余剰は、死体部屋にしか残らないのだ。

 結局言い切られてしまえばどうしようもないので、横須賀はワンピースを箱に戻した。せっかくの綺麗な白も、鬱屈とした段ボールの中ではただの布だ。雑巾とまでは言わないが、服という機能を見せることはない。

「お時間かけてすみません。わかりました」

「時間といえば、わかってんのか」

 山田がようやく顔を上げる。段ボールを抱えたまま横須賀が瞬くと、つい、と、山田は壁に掛けてある時計を示した。

「言っただろ。客が来る」

「あ、はい。これだけ確認しようと思っただけなので」

 勤務するようになって初めての客だ。十分前には、と言われていたので、作業自体さらに五分前に切り上げての確認だった。

 ならいい、と山田はそっけなく言葉を落とすと、雑誌を閉じる。机の上に平置きされたものは気になったが、横須賀が片づけていた部屋は山田曰く死体部屋だ。物騒な言葉選びだが、いわゆる不要品置き場と判断できる。現在見ている物は山田の言う『死体』にはならないだろうと判断して、段ボールをとりあえず部屋に戻した。

 時間としては悪くないタイミングだろう。再び部屋に戻ると、先ほどと違い山田と目があった。――とは言っても、サングラス越しに瞳は見えないので想像でしかないが。

「お前は給湯室にいろ」

「給湯室」

 唐突な言葉に不思議そうに横須賀は瞬いた。それからややあって、ああ、と頷く。

「お客様に飲み物、ですね。えっと、なにを出せばいいでしょうか」

 給湯室は好きに使っていいと最初に言われていたが、横須賀は基本的に水筒でなんとかしてしまっていた。客にお茶を出す、ということはマナーの本で見たことがあるが、実際やったこともない。緑茶でいいのかと思い尋ねると、山田はひらりと手を雑に振った。

「水以外ネェからなにってモンもねーよ。水道水で十分だ」

「お水ですね、わかりました。入れ物は……」

「ガラスのコップがある。棚にあるモンは好きに使え」

「わかりました、有り難うございます」

 事務所は広くない。山田が今いる場所は業務をする場所であり応接室もかねている。そこに繋がった給湯室は扉など無く、横須賀は中に入りながら明かりをつけた。

 夕方の掃除機をかける時に入ることはあっても、視線はいつも床を見ていた。意識しなかったシンク周りを確認する。

 棚は小さいものの、山田が言っていたガラスのコップしかないのでがらんどうだ。コップの数は四つ。小型の冷蔵庫も置かれているが、横須賀は特に利用したこともなかったので中がどうなっているかはわからない。布巾がシンクの上にあるバーにかかっているのと、タオルがシンクの手前にあるのでおそらく使っていいのだろう。物がなさすぎるので、逆に使っていい物がどれと悩むことはなかった。使う物しかない、と言えるのかもしれない。お盆もあるので、布巾で拭いてこれを使えばいいだろうとまず先に取り出してから横須賀は棚に向き直った。

 グラスは綺麗に見える。とはいえ、いつ使ったものか、いつから置きっぱなしなのかわからないのでスポンジで洗ったほうがいいだろう。山田が水を飲んでいる姿は見るので一切使っていない訳ではないだろうが――山田が使うコップは他と違いなく、好きに使えと言われた現状この四つのうちどれがそのまま放置されているか判断は出来ないので、念の為と惰性でもあった。横須賀はあまりそういった点を気にしないが、他人に出すなら気をつけておくべきだろうという想像はなんとか出来る。