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台詞の空行

A子の告白 2


 それからしばらくの間、私と彼の間に変化はありませんでした。

 ただ「おはよう」と「じゃあ」という言葉が飛び交っているだけでした。

 変化は――そうですね。彼と私の変化が彼によってもたらされたように、その変化も彼によってもたらされました。

 その日、私は一人で帰宅していました。

 いつもはミナと帰宅しているのですが、その日だけは、私は一人でした。強くも弱くも無い雨が、サーッと降っていました。いつも二人で歩く道を一人出歩くのは、とても奇妙な感覚を伴いました。その感覚は、同じ方向を歩く人が誰もいないという事実に気づいた時、余計大きくなりました。

 委員会で遅れたため、歩いているのは私一人でした。雨の中薄暗い世界は、私に違和感を与えます。体育館から漏れる明かりと、部活を楽しむ人の声は遠くに聞こえ、世界が違う錯覚を私にもたらしました。

 私は、そんな感覚を以前にも感じたことがありました。――その時は気づきませんでしたが。

「おい」

 雨の中その声は響きました。しかし私はその時、その声を音としか認知しませんでした。

「おい」

 もう一度、その音が聞こえ、私はキョロリとあたりを見ました。姿は見えませんでした。

 私は、こっそりと後ろを見ました。すると、彼がいたのです。少しばかり私は驚いてしまいました。

「ひとりか?」

 見てすぐわかる事実を、彼はわざわざ口にしました。私はただ、頷きました。

「じゃ、一緒に帰ろうぜ」

 もう一度、私は頷きました。彼の家を私は知らず、彼も私の家は知らないはずでした。けれども私はそのことを気にしませんでした。

 彼は無言で私の隣を歩きました。私も無言でした。

 周りの雨の音とは違う傘にあたる雨音に、私は耳を済ませていました。申し訳程度に響く音は、あるリズムを伴っているのです。そしてリズムは、あまりにも空気が静かな為一人で帰っているという錯覚を起こしそうな私に、二人で帰ってるのだと言い聞かせてくれていました。

「……ここ」

 無言の中、声を出すのは苦手です。だからその時も、私の声は少し小さくなってしまっていました。

「家、ここだから」

 私の言葉に、彼は何かいいたげに口を開きました。あ、という形になった唇は、音を紡ぐことなく閉じられました。彼は眉を八の字の形にすると、ん、じゃあ……と口の中でモゴモゴ言いながら、手を軽く上げました。

 それはあまりに未練がましく、私は口元に微笑が浮かぶのを感じたものです。

「ねぇ」

 自然と、あまりに自然と声が出て、私はその時驚きました。その時の気持ちは、ミナと話しているときと酷似しているとても気分のいいものでした。

「用があるなら、上がってく?」

 彼は私の言葉に大きく目を見開き、頷きました。

 傘をたたみ、玄関から外を見て、私は以前感じた感覚を思い出しました。それは彼と初めて話した日と同じ感覚でした。

 世界は相変わらず、ソコにありました。当たり前に。

 私は奇妙な安堵感を覚え、後ろ手でドアを閉めました。彼を部屋に招きいれ、私は床に座りました。彼も床に座りました。

 それからどれくらいかの沈黙が流れて、彼はその間ずっと、手で何か掴もうとするように拳を作ったり作らなかったりしていました。

「あのさっ」

 彼の手が強く彼自身の拳を握り締めたのとやけに高くなった声が響いたのは、同時でした。

「俺、好きな奴が出来たんだ」

「は?」

 彼の言葉に私は間抜けな声を出しました。でも、仕方ないですよね? あまりに唐突なのですから。彼の顔は、真っ赤でした。

「突然、しかもこんな相談、迷惑な事ぐらいわかる。わかるけど、誰にも相談できないし、黙ったまま溜め込むのも俺、耐えられなくて。本当、悪いとは思うけど――……」

 あーもう、と彼はぐしゃぐしゃと頭を掻きました。あまりにも子供っぽい仕種に、私は心が軽やかになるのを感じました。

「話聞くぐらいなら、別に迷惑でもなんでもないけど」

「マジ!?」

 嬉しそうに彼は笑いました。その顔に馴染んだ表情に、私もつられて笑いました。それからいろいろなことを聞きました。彼の好きな人、好きになった理由など。

 大方話が終わった後、彼は、「でも」といいました。でも、告白は絶対にしないのだ、と。すればいいのに、と私は思わないわけではありませんでした。そんな考えが顔に出たのでしょうか? 彼はその時、困ったように笑いました。

「気味悪いだろ?」

 ……ああ、あれは笑っていなかったのかもしれません。あれは――ただ、顔を辛そうに歪めただけなのかもしれません。いえ、きっとそうです。

 ……とにかく彼はそんな表情をしていました。私は、彼の言葉がとても不思議でしょうがありませんでした。だって、そうでしょう? 恋することの何が悪いんですか?

 そりゃあ、少しばかり珍しい性癖かもしれませんが、そこまで気味悪いとは思えません。ただ対象が異性から同性に移っただけなのですから。

 黙り込んだ私を、彼がどう受け取ったかは知りません。けれど、彼はとにかくそれを悪くとったようでした。

 彼はあぐらを組んだ膝の上に肘を乗せて、頭をその手に押しつけました。その様子があまりに深刻そうで、私にはますます不思議で訳がわからなくなってしまいました。

 あの時の私の困惑といったら――今思うと、とても間抜けでしたよ、ええ。

 とにかく何か言わなければ、という強迫観念が私を押さえつけてきていました。圧迫感は重く私の肺を苦しめました。彼は、それでもそんな私に気づくことなく、辛そうに顔を伏せていました。

「あのさ」

 やっと出すことができた私の声はあまりに小さく、その小ささに私は驚きました。

 小さすぎる声が彼に届くことなど、ありませんでした。

「あのさ」

 もう一度試みると、今度は予想よりも大分大きな声になり、彼は顔を上げました。それを私は妙に気恥ずかしく感じました。

  何故かはわかりません。私はその気恥ずかしさから逃げるように、慌てて言葉を続けました。だから、続けられた言葉には、まったくもって考えや下地が無く、まっさらな状態からの言葉になりました。

「好きな人がいるのって、いいことだと思う」

 その時、私は自分の顔が熱いのを感じていました。それは可愛らしい照れや気恥ずかしさから来るというよりも、考え無しに言葉を口にする自分への羞恥心から来るものでした。

 私は何かに急かされるように、早口で言葉を続けました。

「実は、私『ハツコイ』もまだでね。だから、恋愛とかのアドバイス、出来ないんだ。だから、だから恋愛って憧れる。凄いと思うんだ。人を愛せるって。すごい、と思う。そう、すごい。私も恋したいって思う。だから、相手が男だろうが女だろうが恋自体が綺麗で透明で、ガラス細工のように感じるから、気持ち悪いなんて思えないんだ」

 私の言葉に、彼は目じりを下げて、クシャリと笑いました。

 それを見て私は、やっと落ち着けました。いつのまにか力のこもっていた拳をだらりと横に降ろして、私は息をはきました。

 その時、そのまま自分の中の空気がすべて抜けてしまうのではないか、なんてありえない心配をしたくらいです。

「サンキュ」

 彼はそういうと、んー、と一つ伸びをしました。私はきっと、気の抜けた笑みを浮かべていたと思います。

「でもさ」

 ふと、彼はやわらかい表情で私を見ました。

「それも、いいと思うけどな」

「それって」

「恋をしないってのも」

「え」

 彼の言葉に、私は自然と眉を顰めました。だって、私はどれだけ恋を渇望したといえるのでしょうか? そして何度、恋が出来ない自分に絶望したといえるのでしょうか? それを彼は知りません。

 ――ええ。過去のあの時も、今現在も。そしてきっと、これからも。

 彼は笑っていました。不快感と不安感に、私は目を伏せました。

 そう、その時私は不安だったのです。私が恋もできない人間だという事が、恋が出来ない欠陥品だという事が、彼にばれるかもしれない、という事が。

「恋ってのはさぁ」

 やけに彼の声が、甘ったるく感じました。

 それはドロドロとした緩やかな時間と酷似しているようで――いいえ、きっとそれそのものだったと思います。

「その人だけに全てを注ぐものだと思うんだよな」

 ……今思うと、彼の言葉はあまりに理想めいて、偽善めいていたかもしれません。

 けれどそれは私にとって、あまりに綺麗であまりに眩しい、透き通ったガラス細工そのものでした。

「だから、さ」

 彼の声はわたしに顔を上げさせました。彼は優しく笑っていました。

「きっと恋を知らない奴は、とてつもなく綺麗にとてつもなく純粋に全ての人を愛せると思うんだ」

 根拠の無い言葉です。でも彼は微笑んでいました。

 「まーだからって恋が悪いわけじゃないし、お前だっていつか恋すると思うけどな」

 やわらかい声の後慌てて付け加えられた言葉は、照れ隠しのようでした。

 私は彼の言葉に、心の臓がジーンと痺れるような、頭から足まで電気信号が急速におちるような感覚を持ちました。

 彼の言葉は、まるで井戸水のようでした。こんこんと沸くガラス細工が、冷たい井戸水に変わっていったのです。私はその井戸水を飲み干してしまいたい衝動に駆られました。

 キラキラとしたガラス細工が喉を潤す水になり、それを飲み込むことによって私もそのキラキラに近づける気がしたからです。

 彼は私の性癖――恋ができない性癖を、知りません。知ることもありません。

 それでも私はその言葉に飲まれました。いや、知らないからこそその水は冷たくて綺麗だったのでしょう。

 その時の私の心持は、まるで釈迦の説法を尊ぶ僧のようだったと思います。けれど彼は釈迦ではありません。それに私の神は既に一人いるのですから、彼は釈迦にはなりえません。私の神は釈迦ではありませんし、私の中の神は友人である彼女一人きりなのですから。

 でも彼は彼の言葉によって、天使に近しい存在になりました。私は彼をとても愛しいと思いました。

 けれども、それは悲しいことに恋ではありません。それでも私は確かにその一瞬、彼を愛しいと思えたのです。まるでマリアを想う信徒のように。

 だからといって急速に何かが変わることはありませんでした。カミサマを想うように、ひっそりと天使を思うだけです。

 相変わらず私たちは「おはよう」と「じゃあ」の言葉だけを交わしていました。時々彼の恋の話を聞いたりもしましたけれど、それは時々で、変化というものではありませんでした。

 そう、私も彼も変化を起こす力を持たなかったのです。

 変化は――カミサマが風とともに起こしました。