14. 物好き
「あれはそういうもの、でしたから」
光介の言葉に、亜樹は静かに返した。そういうものだった。涼香のおかげで、亜樹は亜樹のままあの場所にいられた。今の亜樹だって、涼香のそばなら、変わらない。
はくり、と息を吐き、亜樹は小さく笑んだ。不思議なことなのかもしれない。あれだけぐるりとした時間、部外者がそう見える程度に亜樹は、笑っていた。割り切ってしまった今よりも、当時の方が笑えていたのだと光介の言葉が示している。
選ぶ必要などなくなって、追いかけるほどの理由はない。あの日は、あの場所にある。
「好きなら続けていいと思うんですけど、わざわざクラブを探して通うほどじゃなかったんです。涼香と居る時間が楽しかったですし、他は特別、興味ないですし」
今更探すのも大変でしょう。そう含めるように言えば、光介の眉間の皺が深まった。それにつられるように伏せられた瞳は亜樹をみないのに物言いたげで、亜樹は微苦笑を浮かべるしかない。
亜樹自身、光介に言葉を返しながら自分の言葉をそれこそ面倒だと思っていた。光介のような他人を思いやる故の面倒ではない。せっかく思いやっても暖簾に腕押し糠に釘の面倒さだ。
光介の誠意を踏みにじらないのが礼儀だと思うのに、それに見合う言葉は亜樹に足らず、かといって言葉を吐き出せば結局踏みにじる、捨ててしまう。光介に諦めてもらうのが楽なのだろうなと思い、そしてその楽がお互いの為なのに、光介は言葉を探してしまう。
口数が多い人ではないのに。繊細な面倒さに、亜樹は息を吐いた。
「悪い。勝手に、気になっている自覚はあるんだ」
「謝るならもう気にしないって事ですか」
「……いや。気には、してしまうと思う」
亜樹の投げやりな言葉に、神妙に光介が返す。参ったな、という心地をそのままため息にして、亜樹は両手を合わせるようにして組んだ。
「じゃあ、謝らないでください。僕は貴方になにも返せない。それがすごく、そうだな……朽木さんの言葉で言うなら、好きじゃないことで、楽しくないことです」
言ってしまった。肺が少し膨らむような圧をまた細い息に変えて、亜樹は自身の組んだ指に少しだけ力を入れ、緩め、入れた。光介の硬い表情に対峙している自身の表情はどうなのだろうか。うすらぼんやりとした心地も、そのまま指の下で潰してしまう。
「僕にとって我慢していることはないです。でも確かにあの日朽木さんの気遣いは僕にとって呼吸が出来る程度に、良かったことです。あの日の僕は言い出さない。……理由を持たせたくないから、そこから離れる口実を作らなかった。僕にとってメリットで――朽木さんにとっては寧ろ面倒な事だったでしょう」
光介の唇が少し揺れた。言葉を紡がなくていいと示すように、亜樹はまっすぐ光介を見据える。泳ぎかけた視線がかろうじて亜樹の元に戻り、やはり面倒な人だ、と亜樹は内心で繰り返す。
「朽木さんが口実を作って、僕を連れ出すのは朽木さんにとっては得意じゃないことだった。ましてやああいう風に、おそらく苦手だろうと考えた僕への行動も、やっぱり得意じゃないことだった。いつもよりたくさん話すことだって、日野さんたちとならいざしらず、僕と朽木さんでは普段しないことだった。あまりにデメリットが多かったでしょう。確かに、なにも言わずに動いたことは謝った方が楽なのかもしれないからそれなら僕だって受けますけど、でも」
でも。そう、でもだ。ずっとずっと亜樹の内心で繰り返した言葉を静かに聞く光介は、どこまで理解しているのかわからない。
「……そこで謝罪までもらったら、僕はあまりに返せない。僕は適当にやっているといいましたが、それなりにほどよく、主義なんです。相手にもらいすぎるのは落ち着かない」
わからないが、謝罪は、そういうことなのだ。光介が亜樹を思いやってしたことを光介自身が謝罪すれば、それは光介の身勝手になるだろう。
確かに、身勝手だと思う部分はある。身勝手と言うには優しすぎるそれは、亜樹が言葉で求めなかったものだ。けれども思い至った光介が懸命に考え、行動した。その誠意に返せないのに、その誠意を光介の身勝手としてしまったら、あまりにもあんまりだ。
借りというには大きすぎる。そして、それこそが身勝手すぎる。
「貴方の独り相撲にしたいならそれでいいですけど、僕、を貴方は見ているでしょう?」
まるで空気のように。光介のしたいことをしてそれが光介の身勝手で、あの日亜樹の青が減ったことや呼吸が出来たことを無しとするなら、それこそが亜樹の望む亜樹という人間を無視することに繋がるかもしれない。けれどもその空回りが、光介の身勝手がすべてデメリットでしかないのなら。光介のマイナスの原因を作りながら空気となってしまうことを、亜樹は好めなかった。
ぐるりとした感情は、多くの矛盾をはらんでいると思う。思うが、亜樹はそれでも、光介を見据えた。硬い表情の光介は一瞬身を固くしたが、神妙に、本当に神妙に頷いた。
「見てる」
静かな肯定。恥じるわけでも宣言するわけでもなく、ただ亜樹の問いに返すだけの音。ややすると視線が逸れやすい光介は、それでも確かに亜樹を見ていた。だからあの日気づいたのだろうし、平時も、ふと気づけば声をかけていた。
それこそ、この人はどこまで神経を使っているのか。周囲の人間を思いやりすぎて、本当に希望を選んでいるのか。ふと気づけば後ろを歩く人は、そうして全体を眺めて、気を配りすぎていないのか。
亜樹が案じることでは、ない。それは朽木光介という人間が成してきたことだ。しかしならば、亜樹が今光介に案じられることはそれこそ筋合いが無く――けれどもどれもこれもがあまりに懸命だから、その誠意が落ちていくことと向き合うしかない。
「なら、謝罪は無しに。それと僕はそこまで気を配られる理由がないです。僕は適当で、楽を選んでいて、そういう気配りはもっと優しい人に――」
「優しい」
低い声が、亜樹の言葉を遮った。遮ったのにそれは、とん、とボールが静かに床で跳ねたような調子で、焦った音でも亜樹の声をすりつぶすような音でも無かった。無かったが、突然の言葉に結局亜樹は最後まで言葉を発せられず、吐き出す予定の言葉は口の中で潰された。
「優しいだろう」
まるでそれが決まりきった事実というように、光介が繰り返す。亜樹はすりつぶした言葉の代わりに、口角を歪めた。
亜樹と光介は相性が悪いのかもしれない。そんなことすら思ってしまう。面倒、という言葉よりも、なんで、という言葉が浮かび、それはすぐにかみ砕かれた。それこそすりつぶして、無かったことにした。なんで、という言葉は、疑問だ。疑問を挟めば対話だ。光介の誠意が、また、捨てられてしまう。亜樹は、踏みにじってしまう。
「やらない善よりってやつですか?」
さきほどの光介の言葉を使って、亜樹は皮肉気に笑った。どこか嘲るような色の声に、光介はあっさりと頷く。
「やってもらった側からしたら、それがどういう理由かわからないから同じだ。してもらったら嬉しい。他人の事を俺が言っても、緑静は信じないだろうからやめておく、けど。俺は、嬉しかった」
「は?」
怪訝な音が、そのまま出た。光介の視線が逸れる。それは亜樹の声に怯んだというには少し違うようだった。気まずさ、というよりは、気恥ずかしさか。ほんの少しだけ目尻に色が付き、固い息が吐き出される。
「俺、は。緑静に対して、勝手を、してたから。……さっき言ってたから、今は謝らないけど。でも」
ぽつぽつととぎれながらも、また懸命に言葉が並べられてしまう。そのことすら勝手といいそうな光介だが、それ自体が光介の誠意だと、向けられる側が気づかないことも少ないだろう。するすると流暢にではないからこそ、苦手なのにどうしてそこまで、と、そんな言葉が出そうになる。
亜樹にとって光介は、未知だ。理解に至れないものだ。
「緑静にとってどうでもいい髪を、気にしすぎた俺を緑静は責めなかっただろう。面倒だっただろうに」
自覚あったんですか。その言葉は声にならなかった。素で驚いてしまった亜樹を横目に見た光介は、しかしまたすぐ目を逸らした。
「緑静がどうでもいいことを、俺は、気にしてしまう。緑静にとって、どうでもよくないとしたくて、鬱陶しかったんじゃないか、と、思う。でも、そのたび緑静は、お礼を言ってくれた。俺のことを拒絶まではしなかっただろう。したいように、させてくれた。今日だって、ここに、来てくれた」
「……僕が優しい、じゃなくて、朽木さんが優しいんですよ。それは」
なんとか思考をもう一度掴み直して、ため息と一緒に亜樹は光介の言葉を否定した。
だってそうだろう。そうしようと考えることが身勝手だとしても、その気遣いは光介にとって不要なものだった。しなければいい、関わらなければいい。それなのに、光介は不器用にも向き合う。逃げる髪をほどこうとするように、けして得意ではないのに、丁寧に、丁寧に。
「俺の勝手な気持ちを、緑静は拒絶しないでくれる、だろう」
ボタンが切られた、あの瞬間が浮かぶ。ばちん、と、切れた糸。勝手。確かに勝手だ。亜樹の髪が切れた方が良かった。けれども絡まった髪が残らないようにするなら、ボタンを切るのもわからなくもない。それに、結局あの気遣いは、光介の不器用な気遣いだった。
思いやることと身勝手は同一で存在する。その道理はわかりながら、けれどもやはり頷くには足りない。だって、そうだ。
「拒絶するほうが面倒だったと思わないんですか」
「どちらにせよ、俺は、拒絶されなかったことが嬉しかった」
お人好しすぎる。何度目かの言葉は喉につっかえた。そもそも亜樹自身、無難にあるために人の心に波風立てないようにと行動を選んでいた。嫌われにくい行動。当たり前にそれなりに、特に心に残らない程度の態度。残るなら、適度に、プラスになる程度のもの。
だからプラスに感じることは、間違いじゃない。嬉しいという個人の感情を否定する立場でもない。なのに、言葉がぐるぐると巡る。多くなる。多くなっても、その誠意はこぼれていくのに。
可哀想な人だ。
「勝手を許してくれて、有り難う」
何度目かの冷めた憐憫に、静かな声が重なる。許す、というにはもっと遠いようにも思えた。遠い場所で何かなされても亜樹には関係ない。勝手にすればいい。そういう言葉は、しかし外にでなかった。おそらく、それすらも光介にとっては許しになっているのだ。
黙した亜樹に、光介の眉が下がる。伏せた瞳。その表情がなにを示すのか、亜樹にはわからない。光介の表情は、読みとるに少し難しい。
「……これからも、出来れば」
許して欲しい。続いた言葉に、迷惑、といえば光介は距離をとるのだろうか。その言葉は、亜樹にとっては好ましくない言葉だ。迷惑としてしまうのは、意味を成してしまう。どうでもよく、それなりに、適当に。そういう人間を作れなくなってしまう。だから言えない。それに、光介は謝ったところで気にしてしまうと言っていた。どうせ成される行為だとしたら、そこに感情を乗せるだけ無意味だ。光介の誠意になにも返せないのに、光介を否定するのはおかしい。許されないのは、寧ろ。
「僕にとっては、別に。朽木さんの徒労なだけですし、関係ないです。人が良すぎるとは思いますがね」
「人がいいわけじゃない」
「流石にそれは笑っちゃいますよ」
光介の否定に、亜樹は息を吐き出した。笑えている。さきほどまでどんな顔をしていたのか、笑っていたのかも亜樹にはわからない。けれども今はいつもと同じだ。いつもよりもよほど軽薄だろうことは想像できたが、それでも亜樹は笑えている。
「自分勝手でも、お人好しすぎる」
素直な感想だ。こぼした言葉があまりにそのまま過ぎて、亜樹はようやくカップに手を伸ばした。コーヒーの香りは、少し冷めても変わらない。味は、少し変わったかもしれないが言葉にできるほどの差異はわからない。
「緑静もな」
光介の言葉に、亜樹は瞼を伏せた。否定したところで意味はないだろう。必要ない。多くを語りすぎて明らかに軽薄な自分勝手を伝えたのに、それを光介の自分勝手と同じように扱われるのは理解できないが、しかしそれだけだ。
見ている、という言葉はともすれば圧迫感さえありそうなのに、あの日の呼吸がみっつぶん。奇妙な空白で、そのままとなる。
特別になり得ないという意味では、圧がないのは好ましい。零れ落ちる誠意に返すものは相変わらずなにもないが、これだけ言葉を重ねて変わらないのなら亜樹に出来ることはなにもない。
「……気が向いたら、話してくれ」
なにを、とは聞かない。話す、とも言わない。それはおそらく、嬉しいことや辛いことだとわかる。
「物好きですね」
「好きなんだ」
神妙に落とされた声に、亜樹は笑った。やはりお人好しじゃないですか、と続けるには会話が不毛すぎて言葉にならず、ただの笑みで霧散する。自分でもわかっているのだろう、また少し目尻が赤くなった光介は亜樹にとってやはりお人好しで、面倒な人だった。
参ったな、という言葉は、心内で溶けて響きはしなかった。