台詞の空行

12. 謝罪

 丁寧に積み重ねるように落とされる言葉は光介の物だ。亜樹のするりと落ちる言葉の薄っぺらさとは違っていて、そのくせそれ以上にならない。机の上にただあるだけのような、重すぎない音を拾い上げて亜樹は礼を重ねた。

 どことなく気まずそうに首後ろをさわったままの光介が、少し長めの息を吐く。

「悪い人じゃないし、ああいう反応はするけど、口出しするような人でもないから」

「そうですね」

 わかります、と言ってしまうには足りない。それでも、小百合は楽しげなだけであくまで友達という言葉を選んだし、おそらく光介の言葉を無碍にすることもないだろうと思えて亜樹は頷いた。光介が好んで過ごした場所に寄り添った人だ。もし度がすぎるようなことをする人だったら、光介は亜樹を呼ばなかったのではないかと思う。

 根拠はない。ただ光介をさほど知らないのに積み重なった誠意は、頷くに足り得る。

「……素敵なお店ですね」

 ぽつりと空いた空白に、亜樹は言葉を差し込んだ。光介の手は膝の上に下りていて、見返す瞳はやはり静かだ。

「あまり、馴染みはないんですが。素敵です」

 評価する立場ではなく、実感するには亜樹の感性はおそらく少し薄っぺらい。けれどもこの空間に対する心地は、落ち着く、というのが似合うのだろうとも思った。コーヒーの香りと、音と、音楽に馴染む客の音と。チョコレートブラウンは、やけに光介に馴染む。

「いい店、なんだ」

 少し間を空けて、光介が首肯した。それは丁寧に亜樹の言葉を噛みしめ、ゆっくりと理解し、染み渡ったものへの同意のようで、亜樹は小さく微笑んだ。

 亜樹と光介は違う。ともすると面倒にも思えるような丁寧さは、ひどく優しい形をしているように思えた。

「なんだか、コーヒーをいただく前に空気をいただいているみたいですね」

「……そうだな」

 亜樹の言葉に、光介が再度頷く。それから少し視線を斜め下に動かし三度ばかり瞬いた光介は、ふ、と短く息を吐いた。光介の手が、お冷やに伸びる。

「来てくれて、嬉しい」

 ぽつ、と落ちた言葉は少し神妙でもあった。先ほどの謝罪だけでなく、わざわざ喜びを言葉にしたせいだろう。それは光介から亜樹への礼を示すもので、亜樹は頷いた。

「僕も。機会をいただけて、嬉しいです」

 嘘ではない。言葉を重ねた分、それはじんわりと亜樹の内側で意味をなした。あまり多くの意味は不要と断じてしまいたいのに、それでも確かにあるものを否定することはいささかおかしいことだろう。だから肯定するしかなく、重ねられた礼儀に礼儀を重ねて、意味が形となっていく。

 今の心境をどう言えばいいのか、亜樹にはわからない。是なのか非なのかもわからないまま、それでも亜樹は目を細めた。

 光介がお冷やを持ち上げて口を付ける、その手前。柔らかく伏せた瞳と持ち上がった口角は、亜樹の返礼の意味を光介の形で肯定するようだった。

 見慣れない優しい微笑が当たり前に見える程度に、光介と店は馴染んでいる。

「好きなんですね」

「っ」

 穏やかな空気が跳ねるように、げほ、と光介が噎せた。ぱち、と目を丸くした亜樹がやや腰を浮かせると、お冷やを置いて口元を押さえた光介は手でそれを制する。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だ」

 くぐもった声で光介が答える。二度、三度。そうして確かに静かになったので、亜樹はそれ以上声をかけずに光介を窺い見た。

「……わかってる、大丈夫だ」

 もう一度光介が大丈夫だと繰り返す。亜樹を安心させる為だろうが、なにも言わない亜樹に対して二度はなんとなく珍しい心地になった。わかってる、がなにを示すかわからないものの、繰り返す光介に尋ねるのは失礼だろうことは亜樹にもわかる。そもそも特に意味はなく、噎せたことを恥じて繰り返している可能性もあるだろう。

「好きだ。……昔から、伯父さんの店に行くのが楽しみだったしな」

 言葉の前に一度けほりと堰をしてから、光介がまっすぐ肯定した。伸び直した背筋と同じく言葉はまっすぐで、視線は手元を見下ろしている。噎せたせいで少し赤くなった顔色と固い声は、楽しみ、と続ける頃には少しやわらかくもなった。

 なんとなく幼少期の光介が浮かぶ、といっていいのか亜樹にはわからない。目の前の光介は光介でしかなくて、さらに小さいとき、の想像がつかない。子供の頃と現在は大きく違う。亜樹だって、違う。連続した特別でない当たり前、変化がない中、それでも見目は確かに変わる。それはきっと、人に与えられた救いだ。

 だから、光介を見て幼い光介を想像できなくて、それで確かにいいのに。なんとなしに浮かんだ幼さは微笑むような柔らかさで、亜樹は浮かぶ笑顔を平時と同じように意識した。

「昔から変わりませんか?」

「……そうだな。変わってるところが無いわけじゃないが、それでも」

 ぽつ、ぽつと落ちる言葉は穏やかだ。少し細められた視線はやはり柔らかい。好きなのだな、と、先ほどと同じ実感が浮かぶ。

「ここに来ると、好きだと、思う」

 亜樹の実感に重なるように、二度目の言葉が落ちる。うん、とひとつ声に出さずに頷いて、亜樹もお冷やを一口含んだ。

 こくり、と、飲み込んで、沈黙が落ちる。先日と違うのは、無理に光介が言葉を重ねすぎないところだろう。

「お待たせしました」

 ふぅわり、と柔らかい声と一緒にコーヒーが運ばれる。おかわりもしていいからね、と楽しそうに言った小百合は、先ほどよりもずいぶんとあっさり席から離れた。

 飲食物があるから邪魔をしない為なのかもしれない、と思い、亜樹も素直に食事に向き直る。

「いただきます」

「……いただきます」

 亜樹が手を合わせてうるさくないように言葉を出すと、光介も静かに声を落とした。そうして合わせた手を離して、さて、と二つを見比べる。コーヒーとケーキ、どちらから口にするべきか亜樹にはあまり想像ができない。

 食事に正解もなにもないだろうが、だからこそこういう時の動きが一瞬止まる。

(……ううん)

 光介を見ると、先にパンケーキに手をつけているようだった。大きい口にはくりと入るが、咀嚼はゆっくりで食べる速度とさほど変わりないだろう。丁寧に食べる人だ、という認識をひっそりと落として、結局亜樹はコーヒーに手をつけた。

 先に甘味を食べてしまうと味が変わって感じてしまうかもしれない。そういう理由で口を付けて、飲み込んで息を吐いたところで亜樹は小さく笑ってしまった。

 どうせ味などさほど違いがわからないのに、なんでそんなことを気にするのか。それは自分に対する呆れからの言葉で、本気の疑問ではない。だってそうだろう。なんでもなにもなく、おそらく理由は目の前にあるのだから。

 どうせ細かい感想など聞かれないだろうに。亜樹の笑いに少しのぞき見るようにするくらいで、光介はあまり深くを聞かない。おそらく、前回と同じくおいしいかどうか、そのニ択程度だから亜樹でも答えられるし、それ以上必要ないはずだ。なのに、のぞき見ていた光介に笑みを返せばすぐに視線が逸れる程度の中で、それでもコーヒーの味を探してしまう。

 探したところでわからないものはわからないままだが。

「おいしいです」

「……よかった」

 咀嚼した合間に、感想と言うには単純な言葉を落とす。亜樹の声にちらりと亜樹を見た光介は、浅く頷いて同じように言葉を落とした。会話というには、お互い机の上に並べるような積極性のない言葉だが、この空間にはそれがよく馴染むようでもある。

 光介も亜樹も、食べながら会話をするようなタイプではない。ここに涼香がいたらまた別だろうが、静かな空間でただ食事を成すだけなので、その時間もあっという間に過ぎていく。食べ終わってコーヒーのカップが空くと、小百合が来ておかわりをすすめて。そうして出来た空白の時間で、亜樹はそっと息を吐いた。

「……この間は、有り難うございました」

 告げるかどうか悩んだ礼に、光介が静かに亜樹を見る。おそらく、光介だって光介の気遣いが亜樹にわかるだろうことくらいは予想できたはずだ。手を繋ぐ、という行為にあれだけ気まずさを持つ人が、なにも言われないことに対して予想しないわけがない。

 する、と、亜樹を見ていた視線がやや逸れる。

「勝手をして、」

「正直なところ助かりました」

 続く言葉がなにかまではわからない。それでも光介の性格からして謝罪に思えて、亜樹は少しだけ声を大きくした。店内に響きすぎない程度に、しかし光介の言葉をくい止める程度の語調に、光介の逸れていた視線がまた戻る。

「……別に、特に意味があるわけではないんですけれど。平気なんですけど、得意ではない、のだと思います。付き合いくらい平気ですが、好まないとこはあったので。……お心遣い、有り難うございました」

 再度の礼と、言葉に続けて頭を下げる。礼に対して謝罪をしようとしたのだという予想が合っていた場合、おそらく光介はまだ気に病んでいるはずなのだ。亜樹にとってそれは本意ではなく、また光介の行為に甘えたままはどうにも落ち着かない。

 そうしてようやく一つの区切りをつけた亜樹は、下げた頭を戻すとややたじろいだ。

 かろうじて口の端は持ち上げたまま、それでも困ったような顔で亜樹は光介を見上げる。

「えっと……」

 なんと言えばいいかとっさにはわからなかった。しかし沈黙で良しとするには違う、と亜樹にも思える程度に、光介の眉間の皺とどこか神妙そうな表情は固い。どうすれば、という疑問に答えはなく、代わりに気づいたのは光介が礼を言えばそのまま良しとしてくれると思っていたので、その事実に遅れて動揺もした。亜樹らしくない、と、亜樹は自身を評し、しかしやはり言葉は出ない。

 それでもなにかを、と当たり障りのない返答を考えようとしては白んだままの思考に、光介が静かに息を吐いた。ため息と言うには呼吸に近く、それでいてため息と言うしかないようなそれは亜樹に答えを与えない。ただのため息なら謝罪でいいのに、それはあくまで光介の中で完結していて、今とりあえず出す謝罪が適当とは思えなかった。

「緑静は、もう少し自分のことを言ってもいいと、思う」

 静かな言葉は、言われたことがないわけではない言葉だ。言ってるよぉと笑って流して、涼香には怒られたこともある。クラスメイトなどには、そっかなーと軽い言葉で返され、それでも亜樹が笑ってしまえば終わる言葉だ。

 自分のことを話すのは、手間だ。聞くのは楽だ。選ばないのも、気楽だ。聞くのが楽しいんだよ、と言えばそれでいい。それに、そもそも言っている光介だって聞く側だろう。

 けれどもそういう言葉は、外にでない。礼を良しとしなかった光介が、その言葉を是とするかどうかわからず、そうしてしまうと続く言葉を待つしかなかった。

「言えば、聞いた、し。苦手なのを知られたくないなら、そこじゃない場所が気になる、でよかったんだ。そうしたら、最初から別々に動いたかもしれないし、それともみんなでそっち選んだかもしれない。どうなるかは、わからないけど、言えば、俺たちは聞く。……水沢だって、そうだろう」

 訥々と重なる言葉は、少し酸素が足りないようにも思えた。光介の言葉は残念ながらもっともで、それなのに亜樹は返す言葉を持たない。

 謝罪が意味を成すのか。意味など無くても、とりあえずでいいのに。光介にしては多い言葉はそれでも相変わらず静かで、とぎれた後の沈黙は音楽でも埋まらない。

 呼吸をひとつ。ふたつ、みっつ、よっつといつつ。瞼を閉じて静かに繰り返し、亜樹はようやく笑みを吐き出すように零した。

 謝罪をする。亜樹に非があるのは確かで、そうしてしまえば終わりだ。謝罪をどうとらえるかまで、亜樹は考える必要など無い。人は言葉で思考を交わす。浸食することなど、その権利など持たない。亜樹と光介は、その不可侵がある関係だ。

 はくり。せっかく繰り返した呼吸のリズムが崩れて、もう一度、今度はゆっくりと息を吐く。

「別に、気を使って言わなかった訳じゃないんですよ」

 謝罪を。そのはずなのに零れた言葉に、亜樹は少しくらんだ。まばゆさに眩む、ではなく、頭の中のうろがこぼれるように暗んだ。ほんの少し喉奥が窄まり、けれども存外穏やかに亜樹は微笑んだ。光介は多くの言葉を落とした代わりというように、今度は無言のまま亜樹を見ている。

「得意じゃないだけで、理由がないから必要なかっただけです。理由もないのにわざわざ避けるなんて、理由ができてしまうみたいじゃないですか」