台詞の空行

11. もう一度

 * * *

 奇妙なことだ、と、亜樹自身思う。少し落ち着かない心地も正直なもので、しかし断る理由がない。ないなら流されるのはいつものことだ。ならば、落ち着かない心地を持つ必要もないのだが。

「緑静」

「こんにちは、朽木さん。今日はよろしくお願いします」

「……よろしく」

 亜樹が会釈をすると、光介も浅く頷くような会釈で言葉を返した。やけに神妙な様子はある意味では光介らしく、いつもと変わらないのかもしれない。だが、それでもいつもと違って感じてしまう。

 涼香がいない。当然、照信もいないし、西之もいない。この年頃の男女が二人、となると誤解されるのではないかと思う。それも含めて涼香について行っていたのもあるのだが、光介は頓着が薄いのだろう。誤解を解ける自信もあるので亜樹は問題ないが、人に気を使う割にそのあたり光介はずさんだ。

 しかし、光介のスタンスに対して亜樹は特に口を挟む立場ではない。損な人だ、というラベルを貼ってしまうことはあっても、どれも光介が選んでいるものだ。となれば、そこに口出しするのはもっと光介と近しい人だろう。隣を並び歩く亜樹がすることではない。

「伯父さんには言ってあるから」

「はい。有り難うございます」

 言っておく、とは言っていたが改めての言葉に、亜樹はにこりと笑って頷いた。何の因果かと言ってしまえば先日の遠足で、チェーン店でもなくコーヒーを専門とした喫茶店がはじめてだったからだ。

 あの日光介が選んだものは光介にとって好ましい味ではあったようだが、亜樹は選んでいない。気にしすぎというかそれだけコーヒーに思い入れがあるのか、よかったら今度伯父の喫茶店に来て欲しいと提案された。亜樹の思考や謝罪を入れさせないようにする為か、ぽつりぽつりと落とされる言葉は光介にしては相変わらず多く、だからこそ内容が光介の好むコーヒーの話になったからだろうということも、流石にわかる。


 あの日一日、それも喫茶店の時間だけですませればいいのに次回の話まで持ち出した光介は貧乏くじとやっかいをまとめて抱えてしまうところがあるだろう。あまり得意でないだろうに懸命な光介の努力に対し、断ることで礼儀を示せばよかった。けれども義理や気遣いだけと言うにはそこに光介の好意が確かにあって、ああ、そんなに喫茶店が好きなのか、と思えば断る理由は霧散した。

 好きなものを好きだと言われると、嬉しそうに笑う人がいるのを知っている。光介がそんな風に笑うのかと言ったら想像つかないが、しかし面倒や厄介でも、それだけでない好ましい物への気持ちを切り捨てるのはしがたいことだった。光介の気遣いに亜樹が返せるものはなにもなく、だからこそ頷いたとも言える。


 進む時間に、言葉は落ちない。やはりあの日が特別だったのだなと実感を重ねながら、沈黙を当たり前とする光介の隣を歩く。以前涼香に言ったのと変わりなく、言葉のない時間はさほど問題にならない。

「そこ」

 ぽつ、と落ちた言葉に亜樹は視線を動かす。ブラウンを基調とした壁と、白い窓枠。緑色の屋根が柔らかい落ち着いた店はなんとなく光介に見合ってみえた。

 車道側を光介が歩いているため、亜樹は店の前で歩調を緩めた。代わりに、光介が一歩分少し歩幅を大きくして先に行く。

 ぐ、と扉を開けるのに合わせて、カラコロと鈴が鳴った。有り難うございます、と言って亜樹が入ると、頷いた光介が扉を閉める。

「いらっしゃいませ」

 出迎えたのはコーヒーの香りと、穏やかで柔らかい男の声だ。五十代くらいだろうか。音だけでみれば低いのだが、固くならないのは語調と男性が笑顔だからかもしれない。亜樹が会釈すると、男性は元々の笑みをさらに柔和にして笑いかける。

「はじめまして、光介の伯父です。お友達の緑静さんだよね。話は聞いているよ」

「はじめまして。朽木さん――えっと、光介さんにはお世話になっています」

「こちらこそお世話になってます」

 ちょうどあまり人がいない時間を選んだのだろうか。それでもちらほらいる客に対してこれでいいのかという心配は、しかし光介の伯父の笑顔で挟むことが出来ない。客の視線はあるが、表情に険がないだけでなく楽しそうな様子なのでもしかすると多少話してあるのかもしれない。亜樹がそちらにも軽く会釈をすると、やはりにこりと笑い返されるだけだった。

「じゃあ光介君、席の案内を頼んでいいかな」

「うん。……緑静、希望あるか?」

 店内はそこまで広くない。選ぶとしたらカウンターとフロアどちらがいいかということなのだろうが、亜樹はそういった希望があるタイプではない。光介の伯父と話すかどうかで選ぶほうが無難な気がするが、カウンターに一人、フロアに二人いる中で気を使わせてもどうなのか、そのあたりの話が光介と伯父の間でなされているのかまでわからないのもある。

「特にないです。朽木さんは?」

 光介が一度カウンターを見る。案内を頼むと言ったように下がった伯父がにこりと笑い返したのを見て、光介は首後ろを掻いた。

「じゃあ、こっち、でいいか」

 光介が選んだのはフロアの方だ。窓から離れた席に亜樹が頷くと、慣れた様子で歩いていく。

 前回と違い、当たり前だがジャージではない。コーヒーの香りと馴染んで、ここが光介の場所なのだ、とぼんやりと亜樹はその背中について行く。

「ここでいいか?」

「はい。座らせてもらいますね」

 わざわざ机の横で確認する光介に会釈をして亜樹は席に座った。ちらりと光介がカウンターの方を見て、それから亜樹の正面に座る。机の横に置いてあったメニューを取り出して亜樹の方に渡すのも、慣れたものなのだろう。

「有り難うございます」

 礼を言って開く。前回の店と違い、メニューはシンプルだ。光介があの店で珍しいと言ったように、ブレンドに対して豆の種類を細かく書いている様子はない。代わりに、『気になったらお尋ねください』という文言が書いてある。先ほどの光介の伯父の笑顔が浮かぶような柔らかい言葉は、店の優しい音と似合っていた。

「こんにちは、お冷やをどーぞ」

 ふんわりと。柔らかい女性の声に顔を上げれば、声と同じく柔らかいウェーブのかかったショートカットの女性が笑っていた。にこにことした顔立ちは可愛らしい。

「有り難うございます」

「いーえ。光介君のお友達が来てくれてうれしいわ」

 ふふふ、と笑う女性に光介が少し眉間のしわを寄せる。大丈夫よぉとふわふわと笑いながら光介に言う女性はおだやかだ。その大丈夫がなにを示すかわからないが、光介が少し息を吐く。

「ああ、お邪魔よねごめんなさい。ええと、光介君の伯父さんの妻です。光介君小さい頃から知ってるからつい、ふふ」

「……小百合さゆりさん」

 静かな声で光介が名前を呼んだ。女性――小百合は口元に手を当てると、ああごめんなさい、とまた軽やかな謝罪を零して改めてにっこりと笑った。

「あんまり特別なものはないけれど、光介君のお気に入りなのは太鼓判だから。ごゆっくりどうぞ」

「はい、有り難うございます」

 再度礼を言えば、それじゃあお邪魔しましたぁと女性が去っていく。それを見送って、光介が少し長いため息を吐いた。

 頭が上がらない、とはこのことだろうか。小百合を肯定しても光介に同情してもどちらにせよ蒸し返すようなのとどちらにも失礼なようで、亜樹はメニューを再度見下ろす。

「この間の、おいしかったって言っていたけど」

 ぽつ、と光介が落とした言葉に亜樹は顔を上げた。ぱちり、と目が合って、そして当たり前のように反らされる。する、と交差するようにメニューを見下ろした光介は、そのまま文字をゆるりと撫でた。

「今日はどうする? 似てるの、とか、甘いの、とか、あれば」

「そうですね」

 亜樹がわからないと言っていたのを気遣っての言葉に、亜樹も同じようにメニューを再度見下ろした。おいしい、と確かに言ったが、あのコーヒーだったからではないのを亜樹は知っている。飲める、程度なのは結局のところ変わらない。まずいわけではないし、香りが好ましいと思えるから好きか嫌いかで言えば好きなのだろうが、結局二択だからそうなる程度だ。

 前回は光介と同じ物を選んだ。今回は、いや今回も、適当に決めることはなんとなくはばかられる。けれどもどう尋ねられても亜樹の中にどれという感性はない。

「オリジナルブレンド、にします。王道っぽいですし」

 しかし、言葉にしてしまえば適当となにが違うのか、という結果になった。一応これまで機会のない中で、選択肢がないのなら王道を知って少しずつ得ていくのがいいだろうという考えなのだが――自身の思考に、亜樹はほんの少し苦笑した。

 これからも知っていくのだろうか。その時の機会がどうくるかわからないが、たとえば涼香と出掛けたときにでも、選択肢が一個増えてしまったような感覚が小さく出来てしまったようでもある。

「……そうだな。看板みたいなものだし、丁度いいかもしれない」

 ぽつ、と光介が同意する。頷くだけでないのは光介にとってそれだけじゃないからなのか、なじみがないという亜樹を思いやってのものかはわからない。なんとなく後者なように感じてしまうのは、これまでの光介から仕方ないようにも思う。

「食べ物は」

「ええと、じゃあチョコレートケーキで」

 混雑しない時間帯を選んだので、食事には半端だ。涼香が好むチーズケーキを真似てもいいが、それがおいしいかどうかわからないので涼香に情報を提案できる要素にならない。生クリームは食べ慣れていないし、お菓子で触れやすいのはチョコレートだ。単純な取捨選択で残ったのと、チョコレートカラーが似合う店内に馴染むようだったことで選ぶのは簡単だった。

「朽木さんはどうされるんですか?」

「オリジナルブレンドと、パンケーキにする」

「お揃いですね」

 特別意味はないのだが、コーヒーが同じと言うことを取り上げて言えば光介の顔がしかめられた。不愉快だったのか気まずかったのか、光介の表情から亜樹は察せない。

 前回の亜樹が光介に便乗した形とは違うので、おそらくその点の不満はないはずだ。あるとすれば、お揃い、という単語への感情。それがどちらかはわからないが、好まないのは確かだろう。

「……そうだな」

 いや、好まない、というよりも不得手か。口角を下げて静かに落とされた声は低く、しかし不愉快だけを拾い上げるには少し違う。亜樹は光介をさほど知らないが、先日から少しずつ見かける表情と比べるに気恥ずかしさに近くも思えた。そこまで考えて、ああ、と思い至る。

 お揃い、という単語には親しさが少し多くみえる場合がある。おそらくそう言った言葉選びが得意ではないのだろうということは、亜樹にも多少想像ができた。亜樹がどうでもいいと考えるようなことすら気にかける、繊細な人にとっては幾分か気恥ずかしさがあっても不思議ではない。

 こうやって二人で会うことは平気なのに不思議なものだと亜樹には感じてしまうが、それらの基準は人それぞれ。そもそもこの時間も偶然に近いのだし、言葉選びは多少気をつけよう、と内心でひとつメモをする。

「決まったかしら」

 光介の視線がカウンターに向かったのを受けるように小百合が席に近づき、改めて尋ねた。はい、という亜樹の返事と光介の首肯が重なり、小百合が笑う。

 どちらが注文するかと目配せをすると、光介がメニューに視線を落とした。

「オリジナルブレンドふたつと、チョコレートケーキと、パンケーキで。……他はいいか?」

「はい。お願いします」

 わざわざもう一度尋ねる光介に亜樹が笑むと、小百合がにこにことメニューを復唱した。じゃあごゆっくり、とまた同じように立ち去る所作は軽やかで、可愛らしい。伯父といい彼女といい、光介の物静かさとは反対で、けれどもしっくりくるような優しい空気に亜樹はそっと息を吐いた。

「……悪い」

 ぽつ、と落ちた声は相変わらず静かで、けれども視線が逸れたままの光介からみえるのはほんの少しのバツの悪さだ。謝罪の意味を問うように亜樹が光介を見つめると、二度の瞬きのあと光介が頭を掻く。

「あまり、変なこと言わないでくれって言ってあるんだけど。……女子、を、連れてきたこと、ないから」

「ああ、それじゃあ光栄ですね」

 ぼそぼそと気まずそうに落とされる言葉に、亜樹はあえて明るく返した。逸れていた視線が亜樹に向かう。亜樹は、出来るだけやわらかく微笑むことを意識した。

「嬉しいです」

 変なこと、がなにか想像がつかないほど亜樹は愚鈍ではない。既にそういった言葉をかけられていたにも関わらず、亜樹を呼ぶことを無しにしないのは光介の真面目さだろう。

 その誠意に対して亜樹は返せる物がないからこそ、嬉しい、という言葉を伝えるのが礼儀だと思った。たとえ流されてだったり、面倒に感じることがあっても。そもそも光介の懸命さへの返礼であることを置いておいても。

 おそらく、不思議なことに、どうでもいいとは言えない程度には今ここにいるのだから。

「……友人、とは、言ってるから」

「はい」

「今日は、有り難う」

「こちらこそ、有り難うございます」