台詞の空行

9. 不得手

「どうした?」

 亜樹を追い抜いたのに照信たちに並ばない光介に、不思議そうに照信が尋ねた。光介の鞄が揺れて、肩紐を握ったのがわかる。

「……下に、喫茶店があった」

 低い声につられて、亜樹は意識を少し前に戻した。エレベーターに乗る手前、確かにこじんまりとした喫茶店があった。こういった施設の中なのでチェーン店かもしれないが、あまり聞かない名前だったと思う。確か、小鳥の喫茶。

「ブレンドが結構おもしろそう、だった」

 おもしろそう。光介の言葉にしては珍しい、というよりも、あまり聞いたことがなかったかもしれない。結局のところ、光介は照信のための付き添いだ。おもしろそう、と思うよりは照信の為に来ていただけだから当たり前とも言える。


 その光介がおもしろそう、と言った。ブレンド。そもそもブレンドにおもしろいもなにもあるものなのか亜樹にはわからないが、照信は「それで?」と聞くだけだった。

 言葉だけでは素っ気ない。声にしても、明るすぎるものでもない。そもそも照信の性格だと、喫茶店があったと聞けばそれだけでいろいろ話し出しそうなのだが、今は言葉がほとんどない。

 それはきっと、彼らの呼吸だ。光介の言葉は、相手の多い言葉で埋もれてしまうから。やはり親しいのだな、という、当たり前がそこにある。

「コーヒーを、」

 ぽつ、と落ちた声が、先ほどよりも鮮明に聞こえた。意識と視線を前に戻すが、光介の体で前は見えない。

 思ったよりも近い。なんで、という疑問がでる前に、光介は顔をしかめた。

「飲みに行ってくれないか」

 え、という音がでなかった。先ほどから、奇妙に声がどこかに消えてしまう。なにを言っているんだ。出なかった疑問は、今度ははっきりとした不理解となって頭の中でめぐる。

 身構えるように顎を引いたのが、肯定となった。

「……から、上は行っててくれ。その間に喫茶店にいるから、終わったら合流しよう。プリントは、俺はわかりやすい方だけでいい」

 訥々と区切りながらも、それでも光介にしては珍しく言葉を並べ立てるように続けた。ぱちくりとした三人が、三者三様に表情を変える。

「リョーカイ! あとで教えろよ!」

「まあ植物見た方が楽なのはわかるし、お前コーヒー好きだもんなあ」

 にんまりと笑った照信とやや苦笑した西之に光介が頷く。まだ困惑している涼香の表情で、ようやく亜樹は思考が追いついた。

「お誘いありがとうございます。西之さんも行かれますか?」

 律儀に一緒にいなくてもいい。思ったよりも他の人間が少ないのなら、二人きりにするのが得策だろう。光介が提案するとは思わず、それもあまり自然にはなりきれてはいないが――友人思いの懸命さは、光介らしいとも言える。

「んー俺はいいや」

 だが、せっかくの提案に対して、意外にも西之は首を横に振った。西之はどちらかというと察しが悪くない方だろう。不思議な心地で亜樹が西之を見ると、西之はにやりと笑って見せた。

「俺はここがいいからさ。どうせ二人が下りるならせっかくだし、俺一人でちょっと動きたい。欲しいのあるんだよね」

「欲しいもの?」

 照信が不思議そうに首を傾げる。ふふふ、と笑う西之はどこかいたずらっぽい表情だ。

「帰りも歩くし、土産は禁止じゃん。別にでかいもんじゃなくて小さいもんだけど禁止してるのにお前等見てるとこで買うと、連帯責任になるから。俺がふらりと消えた理由はお前等知らないってことでよろしく」

 喫茶店前とかで合流ならわかりやすいし、とてきぱき時間を見繕うのも含めて西之らしいマイペースさだ。合わせた気遣いにしても、嘘かホントかわかりづらいあたりも含めて西之らしい。

 喫茶店の方が楽に二手に分かれられるとは思うが、提案を拒否する理由もないだろう。

「亜樹、大丈夫?」

「涼香こそ」

 涼香は照信と二人でもいい、と考えていた。それでも再度確認するように言うと、私は全然、と言葉が返る。どちらがいいか、と聞かれると亜樹はうまく言葉を返せないので、ならいいよね、とだけ返した。

 喫茶店の方がいい、と言ってしまうのは、していいのかどうかわからない。

「じゃあ後で」

 低い声と一緒に光介が動く。ぶつかりかねない近さはやはり珍しく――亜樹は静かに二度瞬いた。

「朽木さん?」

 亜樹の正面から横に移動してすり抜ける手前、大きな手が亜樹の手を掴んだ。まるで当たり前のように手を引く光介に、亜樹は足を早める。名前を呼んだのに、返事はない。

(習慣なのかな)

 これまでそんなことは一切なかったのだが、二人での移動を先導する時の習慣なのか。手を握る力は少し強いが、そもそもどの程度が普通か考えたこともない。

 体の陰に隠れるような握り方だから、人から見たら並んで歩いているように見えるだろうか。いつも後ろを歩く歩幅と違い早足な速度に合わせるように、亜樹も歩幅を広げる。光介を見上げた亜樹は瞳をやや見開くと、そのままどうしようもなさそうに柔らかく細めた。

(ああ)

 ほんの少し、亜樹の眉間に皺が寄る。平時張り付いた笑みはそのままだが、少し伏せた瞳と一緒に眉尻は下がった。

(まいったな)

 なんとか笑みを保ちながら、内心でこぼす。エレベーターの前、ようやく止まった足と、亜樹を見ないまま階数表示を見上げる光介。盗み見れば険しく堅い顔と、血色のいい肌が見える。

 耳まで赤い、という表現が似合うその様から、流石に思い至らない訳がない。

 短い音が、エレベーターの到着を告げる。

「入る」

 短い言葉の後、亜樹の手を引く。引く力は先ほど歩いたときよりも弱く、けれども握る力はやや強まっていた。取り間違えようがない。

 昇降機の中に入れば、亜樹が壁側になる。その隣、ガラス張りの壁から隠すように立ち位置を変える光介は、それ以上は言わない。

 どうして察したのかはわからない。けれども、光介はわかっているのだ。亜樹が高所を好まないことを。別に足が動かなくなるわけでもないから付き合い程度は平気だと思っていたのに、青い空から光介は亜樹を隠した。

 堅く握る手、硬い表情、赤い色。それらは光介がこの状況に慣れているわけではないことを示している。どちらかといわなくても、むしろ苦手な部類なのだろう。

 それでも手を引いているのは、光介なりの気遣いなのだ。亜樹が苦手だろうことに尋ねもせず、ある意味強引な決断は気にしすぎる性格にとっておそらく心苦しいことでもあるだろうに。安心しろとも言わず、助けているという自負の表情でもなく、堅い表情と赤い色は、あんまりにもあんまりだ。

 あまりにも不器用で、あまりにも面倒で、あんまりにややこしい。

 それでも手のひらの熱ひとつぶん、体で隠された視界のひとつぶん、そうして合わさって光介の面倒くささでみっつぶん。呼吸が、できる。

 エレベーターの音が、再度、到着を告げる。

「下りる」

 また短い言葉の後、光介が亜樹の手を引く。人がいないのを見て出口からもう少し横にずれた朽木の押すような所作で、亜樹は先に下りた。そうして下りたと同時に、手が離れる。

 熱は奇妙に残っていて、視界は広がって、呼吸はいつもどおりだ。

「そこ、で、いいか」

 いいかもなにも、上のフロアでそういう話になっているのだ。違うことをしたら涼香に不思議がられてしまう。今更な言葉に、しかしはたり、と亜樹は思考を変えた。

 今更ではあるが、亜樹は結局ろくな返事をしていない。首肯として光介が扱ったものは首肯ではなかったし、誘いに対して礼を言っただけだ。険しい顔のまま首に手を当てて尋ねる光介が考えていることはわからないが、不安に思っている可能性は十分ある。

「おもしろそう、ってどれですか? そういうの、僕わからなくて。気になったんですよね」

 約束ですし、というには約束が半端だったのだから、亜樹は質問に質問で返した。亜樹にとって飲み物は飲み物でしかなくて、おもしろそう、なんて発想がないのも実際ある。がしがしと頭を掻いて息を整えている光介の顔はまだ少し赤いが、ゆっくりと熱は引いているようだった。

「これ。豆の組み合わせが少し珍しいかなって。ブレンドについてあまり細かくこういうの書かない店の方が多いのに、そのへんオープンにしているし」

「へぇ、そうなんですね」

 外から見える客は数名。学校の人間はいなさそうだが、そもそも店の作りが観光相手にしてはこじんまりとしている。コーヒー豆の飾り棚が通路から見えるようになっていて、中に入っている人は見えれども開放感とは違う。扉もガラスではなく木製のデザインで、入ってみないとわかりづらい。

 外に書いてあるのはコーヒーの名前だけでなく成分もで、なんというか門外漢には少し敷居が高い印象を持たせるようだった。

「どうやって豆の購入しているのか、とか。一応ルートで車は通れると思うけれど、自分で毎回行くのも大変だろうし。でも宅配に任せるにしては、期間限定も作ってるみたいだからやっぱり見に行っているんだろうな、とか思って」

 光介の視点は亜樹にはないもので、そうですねえ、と亜樹は頷いた。いつもより多い言葉は、光介の知識であり同時に気遣いなのだろう。上のフロアを無かったことにするような、亜樹の思考をまるで埋めようとするような文字列。沈黙を気にしない様子だったこれまでとは違いすぎて浮いているのに、なんだかそれが光介だ、という実感。