台詞の空行

8. 青

 見事なまでの秋晴れだ。そろそろ冬を運ぶだろう空気は、空の色を青々とさせすぎている。まぶしいと書いてくらむとさせるのが正しいことを思わせる色は、少し肺を狭める。

「亜樹、どうかした?」

 ふ、と、青に差し込まれる声が、亜樹の肺を緩めた。身長差から見下ろす流れに乗って、亜樹はそのまま首を傾げる。

「どうかした?」

 涼香の言葉尻を掴むようにして同じ調子で聞き返した亜樹に、涼香が少し険を見せた。といっても、亜樹を糾弾するようなものではない。眉間に寄った皺すら自身への優しさのようで、亜樹はその美しい形をぼんやりと眺める。

「ちょっと、なんていうか心ここにあらず、に見えたから。調子悪いなら先生に言った方がいいよ?」

 無茶をするな、と言外に含めた言葉に、亜樹は笑んだ。今は別に、なにも問題はない。高校生にもなって行われる遠足は軽い登山のようなもので人によってはハードだろうが、亜樹の体力からはさほど苦にならない程度だ。肩にかかるリュックサックの重みも気にならず、ほかのクラスメイトよりはよほど元気だろう。

「調子悪くないよ、大丈夫。涼香と一緒がいいな」

 にっこりと、亜樹はいつも通り笑ってみせる。少しだけ唇をとがらせた涼香は、仕方ない、とでもいうようにため息を吐いた。

「……ならいいけど。水分とった? 変だなって思ったら言ってよね。授業だし亜樹が気にしなくたって大丈夫だから」

「うん、わかってるわかってる。僕だって今日のは言うつもりなかったし」

 目的地に着くまではクラスごと並んで歩くが、着いた後は自由時間だ。軽い登山のようなもの、と言っても途中わざと険しい道を通っただけで(獣道コース、というらしい)、散策など気楽にこられる場所だ。少し離れた場所に宿泊施設などがあるのも含めて小さな観光地になっている。故に、亜樹はのんびりひとりで時間をつぶせばいいと思っていた。

「いい奴だよねぇ日野」

 涼香の言葉に、亜樹はなんともいえずに笑った。

 授業の一環、人もたくさんいる中で亜樹が照信と涼香の間に立つ必要はない。学校では放っておくようにと外で会っていたが、それを見られる機会だってあった。誤解も揶揄も多少あったが、涼香は相変わらずはっきり言うし、その噂を聞きつければ「俺が勝手に懐いているだけ!」と照信が大きく言い切った。懐くってペットか、いや舎弟じゃないかなんて言われながらもそれ以上酷くは言われず(言っている人もいるかもしれないが表向きは)当たり前になって、だからこそこういう機会で涼香と照信が一緒にいてもおそらく大丈夫だろうという環境は出来ていたのだ。

 こんな行事おそらくないしね。と言った涼香に頷いて、亜樹はそれでいいと思っていた――のだが。

「お、来たね」

 涼香の視線の先を見れば、ひとつ頭が出て光介が確認できる。その周りにいるのは照信と西之だ。光介は目立つから目印にすればいい、と四組の到着を待って照信を迎えにいった二人が戻ってきたことに、亜樹は苦笑する。

 二年のクラス分けでは涼香と西之、亜樹と光介、照信。三つに分かれて、照信が西之にずるいと言っていた。だからこそこの機会に涼香が気を使おうと思ったのだろうが、今回の件について照信はいつもの五人を提案したのだ。

 単純に、一緒に見て回らないという言葉だけだったら涼香も承知してそのまま二人の提案をしただろう。けれど、光介と西之の名前を最初から出していたので、結局なぜか亜樹も交えての集団になってしまった。

 光介や西之だって他に回りたい人がいるのではないか、と思うが、気づくと彼らは一緒にいるのでどちらが良かったのかはわからない。

 人がいいというか抜けているというか――涼香はそういう性質を好ましく思っているようだが、亜樹はため息を苦笑に変えて息を吐いた。

 今日は一人でよかったのに、照信は涼香を見つけて一等嬉しそうに笑うだけでメンバーは変わらない。

「とりあえず展望台だろ」

 放っておくと話が転がっていく照信を特に止めることなく、それでいて目的を遂行するために西之があっさりと言った。展望施設が多くあるのが特徴的なので、事前にどのあたりにするかの見当もつけられているから間違えることもない。バードウオッチングがしやすい場所など、エリアごとに説明も見る場所も変わっているは珍しい。自由行動とはいえ課題には一カ所でいいから見た場所、見たものを書き込むものもある。

「体力大丈夫?」

 向かう先は、途中までエレベーターだがその先は階段が少し続く、らしい。特に高い場所を好んで照信が選んだものだ。それでも状況によっては予定を変えよう、と考えたのか尋ねた照信に、涼香は頷いた。

「私は大丈夫」

 選んだのは照信だが、涼香も楽しみなようだった。多少疲れてもイベントごとのようで楽しそう、と考えるのは涼香らしくて、好きだと思う。

「亜樹は大丈夫?」

 さきほどのことがあったからだろう。心配をあまり表には出さないものの再度尋ねる涼香に、亜樹はへらりと笑った。

「体力は十分あるよぉ」

「じゃ、行くか」

 西之が先導して、照信と涼香が一緒に話すのを亜樹は少し後ろから眺める。相変わらずと言うべきか亜樹の少し後ろを歩く光介に、亜樹は歩きながら少し視線をやった。

「僕ラストでいいんで、西之さんと行って大丈夫ですよ」

 平時は寄り道も前提としているからか西之は真ん中を歩く。先をいく照信にたまにまざったり、光介と一緒にいたりと自由に動くことが多いのだが、今日はおそらく場所が決まっているからの先導だろう。ならば光介も一緒にいた方が、と思うのだが、ある意味案の定というべきか、光介は首を左右に振った。

 まあ歩く場所も好みだしな、とは思う。

「……邪魔か」

 ぽつり、と落ちた声は静かで、亜樹はそれが自分に投げられたのかどうか一瞬見落としかけた。振り向けば、眉間に皺を寄せた光介がじっと亜樹を見ている。

「いえ、そんなことないですよ」

 特に濁したわけでもなげやりな言葉でもなく、事実だった。光介の物静かさは、邪魔、というものとは違うだろう。時折面倒やらなにやら感じるが、それはそれであって邪魔と感じるようなうっとうしさやうるささなどとは無縁に思える。

 今だから特殊なのかもしれないが、後ろにいるという形は、少しだけ呼吸をするスペースすら感じた。

「おー、すごいな!」

「エレベーターで暴れんな」

 中に入って楽しそうな声を上げた照信に、西之が指摘する。ごめんごめん、といいながら奥に進んだ照信は、それでも楽しそうにエレベーターの壁を見た。

「こっち側だけガラスなんだ」

 涼香が感心した声を出して、照信の隣に並ぶ。西之もボタンを押しながら眺めているようで、亜樹はその隣に立った。

「僕がボタンやりますよ」

「ん、いいよ。そこまでキョーミないし」

 ひらひらと手で促され、亜樹は少しだけ口をもごりと動かした。亜樹も興味はないが、それを言うのは涼香の楽しさに水を差してしまうかもしれない。

 光介が入ると、エレベーターの扉は閉まる。はく、と、呼吸になり損なった空気を内側に取り込みなおして、亜樹は口を閉じた。リュックサックを背負い直すように軽く動かすと、階数の表示にあわせるように書かれた簡易の案内に意識を向ける。

「こっちはあんま人いないのかな」

 照信の声はまだガラス側に向いているのだろう。外を見ているのなら、クラスメイトが見えるのかもしれない。そうかもね、と涼香が頷く。

「先に近場の野鳥や植物観察できるところ見てからってのもありそう。正直高いだけだと書くもの思い浮かばないし、後回しの人もいるかも」

 ようやくエレベーターが止まり下りた先で、おそらく涼香の予想がさほど間違いではないことが察せられた。ここからさらに階段に登るので確定するには少し早すぎるが、それでも学校の人間はまばらにしか見えないからだ。

「ここでも結構いい眺めだよなぁ」

 照信の言葉はおそらく正しい。レンズをのぞかなくとも、ガラスで開けた空間は青をめいいっぱい取り込んでいる。高所故の酸素不足を思わせるような心地すらある。それが気のせいだとわかりながら、亜樹は細く息を吐いた。鞄が揺れる。

「あ、あれ先生じゃない? 小山」

 涼香の言葉に、照信と西之がそちらに進んだ。あそこあそこ、という声に、うーん、と唸ったのは西之だった。

「俺はわかんないな」

 あっさりとしたギブアップに、えー、と照信が声を出す。

「目細いなら遠く見えるんじゃねぇの?」

「細いのと遠く見えるがイコールなのが一番わかんねぇよ。細いから見てないとかじゃないの」

「ほら、目を細めて遠く見るっていうし」

「そっちかぁ」

 どっちにしろ変わらないって、という西之の声はそれ以上気にしていないようだった。おそらくどうでもいいのだろう。亜樹にとっても、どうでもいい。ただ、青い空が瞼に少し痛いくらいだ。

「俺も小山先生って思うけど……光介たちもこっちこいよ」

 照信の言葉に、亜樹は笑みを吐き出した。そうですね、という同意はおかげで言葉にし損なって、でもまあいいか、くらいの感覚で少し大股を意識して足を伸ばす。

 そうして一歩進んだところで、光介の気配が亜樹を追い抜いた。珍しくぶつかりそうな距離に一歩分横にずれると、光介の体で青がずいぶん減っていた。