台詞の空行

一歩分の空白を(三浦仁)

三浦みうら、お前大丈夫か?」

 缶コーヒーを手にした同僚の言葉に、三浦は瞬いた。肩が触れる、まではいかないものの体を寄せ声を潜める様子から、神妙さは伝わる。だからこそ仕事の話でないことはわかった。仕事ならもう少し気安く尋ねるし、そもそも今はあまり問題がない。仕事がせっぱ詰まっているわけでもないし、チーム内も良好だ。

「なにがだ?」

 結局同僚の態度だけでは推測が出来ないので、心当たりがないことを含めるようにさらりと三浦は問い返した。眉をひそめて三浦を見る同僚の目はやはり真剣で、しかしやっぱり三浦に心当たりはない。

「……見たんだよ、この間」

 声を潜めたまま、同僚は缶コーヒーのプルタブに視線を落とした。そうして指先の圧でプルタブはあっさり開いて、しかしそれだけとなる。三浦は自身の缶コーヒーを手の中に納め直して、言葉を待った。

「ヤバイ奴と関わるタイプじゃないだろ、お前。金とかに困ってるわけじゃないし変な詐欺も避けるタイプなのに」

 ブツブツと声を潜めながら言葉を重ね、しかし本題に入りきらない同僚に三浦は眉尻を下げた。本題に入りきらないが触れてはいる。そして、そこまで触れられれば心当たりはあって――素直な気持ちは苦笑となって零れた。

「あー、あれか。サングラスオールバック」

 横目で同僚が三浦を見上げる。いぶかしむ色と抗議の色は、純粋に三浦を案じているものだ。だからそれに三浦は怯む必要はなく、ただ、参ったなぁと頭を掻いた。

「言いたいことはわかる、ありがとな。でもあれ悪い人じゃないんだよ。見た目はあれだけどどっちかというと真面目な人」

「お人好しにもほどがあるだろ、騙されてるんじゃないのか」

「騙されてない騙されてない」

 まだ不審げな同僚に、三浦は出来るだけ軽く笑った。言いたいことは非常にわかる。三浦自身、見る側だったら同じような不審を持っただろうとも思うのだ。

 オールバックにサングラス、黒いスーツに赤いネクタイ。身長こそ小柄で、それこそ三浦の妹よりも小さく華奢な体をしているのだが、佇まいは随分と迫力がある人だ。山田やまだ太郎たろう、という人物の外側を見るだけなら、当然警戒する。探偵と言うよりはヤクザかなにかでは、と思うような見た目だし、言葉遣いだって随分と軽薄だ。

 それでも今の三浦には、そう見えない。

「一緒に背の高い人もいただろ? 前ちょっと面倒事に巻き込まれたときに助けてもらってさ。それから仲良くさせてもらってるだけだよ。フツーの人」

 そうは見えないと言っても、しかしどう見ても見た目で誤解を招くのは事実でもある。ならばとどこからどうみてもお人好し、腰が低くて寧ろ心配になる横須賀よこすかはじめをあげてみれば、同僚の目はうろんだと言うように半眼になった。

「あのデカい奴も含めてだよ。どっからどう見てもその筋と舎弟って感じだったぞ。……声かける度胸なくて悪かったけどさ」

「ヤバイ奴なら声かけなくて正解、かけられた方が困る。で、その人たちはマジでふつーの人だからかけられた方が誤解は解けたかなとは思うって感じかな」

 心配は嬉しいぞーと笑いながら三浦は缶コーヒーを揺らした。ちゃぷちゃぷと残った半分が音を立てるのを聞いて、同僚が息を吐いた。

「まあ、お前は一人で無茶するタイプじゃねぇし信じるけどさ。でもヤバイ時はまじでどうにかしろよ」

「おう」

 話は終わり、とでもいうように呆れたため息の後同僚がようやっとコーヒーに口を付ける。三浦も残りの半分をあおり飲んで、ありがとな、とだけ伝えて自販機を離れた。

(見た目はどうしようもねーからなぁ)

 休日ですらあのスーツで移動するのはどうかと思うが、山田はそういう主義のようだから三浦から口出せるものではない。横須賀が舎弟、というのは正直笑ってしまうくらいなのだが、遠目に見れば体格が優先されるのだろうからこちらも仕方ない。実際のところ、目だけ見れば確かに鋭いだろうが穏やかな表情と申し訳なさそうに縮こまった猫背は同僚の心配と真逆の印象なのだが。山田はともかく横須賀の誤解は、彼を目の前にすれば一発で解けるはずだと三浦は考えている。

(どっちかというと、俺が勝手に絡んでいる方だしな)

 小さな微苦笑は喉奥に留めて、三浦は笑った。いびつな笑みは自嘲に近いかもしれない。三浦|じん、という人間は、あの二人にとってよほど軽薄だろう。それでも手にした縁を離すつもりはなく、拒絶されない故にそのままにしているのだが。

 なんだかんだ楽しんでいるのは、自分でもわかっている。だから三浦は、その内心を微苦笑の奥に飲み込むだけだった。

 * * *

 山田太郎と横須賀一、二人との出会いは奇妙な偶然だ。元恋人からのワンコール、取れなかったそれを後悔にしたくなくて、けれどもどうすればいいかわからずにいた自分に訪れた偶然。おそらく、山田太郎が探していた何かと重なった故に謀られた偶然だと、三浦は理解している。

 酔っぱらいに絡まれたのは偶然だったのだろうか。その段階から実は計算されていた?

 考えたところでわからないが、リン、という人間が声をかけた時には既に決まっていた。ただの好意なはずがないということは、前払いの必要ない依頼でよくわかった。

 元々慎重な気質と言えるだろう三浦にとって、調べてもほとんど情報が出ない探偵事務所と不可思議なリンの店は身構えるに十分だった。かすかに出た情報から仕事を選んでいるだろう事、口コミサイトなのに口コミというよりは宣伝文句のような『失せ物探しならおまかせを、ただし狂気の沙汰ですが』という奇妙な文言は、怪しさにしかならない。同時に、だからこそ三浦は出会いが意図されたものだとも理解していた。

 それでも縋ったのは、意図したものなら彼女に繋がるはずだと思ったからだ。三浦が彼女と繋がるには、既に切れたワンコールの電話しかない。手札がほとんど無い状態で、わざわざ三浦を利用しようとした人間がいる。ならば飛び込むしかない。三浦にとってほとんどゼロのような手がかりを、三浦という人間を使えば増やすことが出来るなら、選ぶしかなかった。軽率、だったと思う。それでも三浦は、ひとりで抱え身動きできなくなってしまう癖のある元恋人を選んだ。だから山田は三浦を利用して、三浦は山田を利用していた、と言える。

 人の良い横須賀がそれらを理解していたか三浦にはわからない。山田はおそらくいくらか理解して、しかし敢えてふれなかったのだと思う。わざわざ言葉にするには足りない。お互い利用しあったのだと理解して、それでおしまいにしてある。ただ、ただ、と三浦は思考を重ねてしまう。山田は横須賀を動かした。三浦は、結局見送った。

 不器用な元恋人に伝えた三浦の言葉は、軽薄だっただろう。自身を助けるために動いている横須賀に聞かせる物ではなかった。それでいて、三浦は言葉を選んだ。

 自分を利用した探偵が炭坑のカナリアだという言い切り。山田太郎の命が元恋人の命を保証する。山田はそのことをおそらく理解した上で横須賀に言葉を渡した。横須賀はその意味を理解していなかったのに、三浦の言葉で、おそらく知ってしまった。

 横須賀が山田を信頼しているのをわかっていながら、お前の大切な人が死んでしまったとしても自分の大切な人は故に保護される、大丈夫だと連ねた言葉は悪魔のささやきだったと三浦自身思う。誰かを助けるヒーローになりたい。そう願いながら、やっていることはただの外道だ。けれども三浦は持ち得た手札を使い切るしか出来なかったし、そういう風に、自身の優先順位で他人を切り捨てられる薄情さを自認している。血も涙もないのはこのことだ。彼女が死ねば自身の心がぐずぐずになると自覚しながら、山田が死ぬことには仕方ないとすら考える程度の、彼女を助けるためにどうするか考えるしかない程度の、そういう残酷さ。

 だから同僚の心配は、はっきりいって見当違いだ。お互い利用した、そしてもっと残酷に、三浦はあの時切り捨てていた。自分が切り捨てるからこそ、横須賀があの探偵に寄り添って、自分の妄であるカナリアを否定すればいいと願う程度の外側でもって。幸い事件は彼らの犠牲を出さずに収束したが、三浦仁、という人間はあまりに非道だっただろう。

 それでも、彼らとの縁は奇妙に続いている。罪悪感から誘った食事のあとも、彼らと重ねる時間を確かに三浦は好んでいる。

(二人とも良い人、なんだよなあ)

 横須賀はもちろん、山田も三浦にとっては人が良いというか、随分と奇妙な柔らかさをもっているように思えた。目を合わせるのを躊躇うような強い見た目を選んでいるのに、山田はある部分では柔らかい。

 たとえば、横須賀がふと暗い思考に沈んだ時。山田はなんてことないように、話題を変える。気を使いすぎているような色ではなく、まるでそれが当然のように、横須賀の痛みに触れない。寄り添わない。ともすれば無関心にもなりかねないそれらは、横須賀の思考をあっさりとずらす。踏み込まないまま、扉を開く。

 偶然と言うには鮮やかすぎ、しかし気遣いと言うには素っ気ない優しさだ。山田太郎という人間を三浦はよく知らないが、それだけで好感を強く持ててしまう。横須賀一が信じた人。元恋人を救うために利用した人。それだけでなく、押しつけない優しさを持つ人。

 そう理解してしまえば、見た目のギャップともあいまって親しみを持てる人だと言い切れる。山田はそれを迷惑がるだろうか、どうでもいいというだろうか。わからないが、今、横須賀と山田のそばを許されていることは事実だ。

 山田への好意はそういった積み重ねと、食事の時の丁寧な所作と、ふとしたときに降り積もったものだ。警戒したら気づかなかったかもしれないが、横須賀と共にいる山田太郎は、そしてふと他人に一歩礼儀を重ねる山田太郎は、三浦にとっては心地の良い距離の人でもあった。気安い、というと、やはり同僚は信じられない顔をしそうだが。誤解される態度をしなければいいのになあと思いつつ、寧ろあえて選んでいるんだろうなとわかるほど強烈な見た目なので三浦はその願望を言葉にしない。

 つらつらと思考を重ねて、三浦は浅く頷いた。そう、好んでいる。好んでいるからそばにいるのだ。危ういと思っただけでない、憐憫でもない。――横須賀への感情も、同じだ。特に三浦は、横須賀につい向けそうになるその感情を山田の所作でなんとか霧散させているのかもしれない。

 横須賀一、という人間がどういう人間なのか、三浦は知らない。優しい青年であること、それだけでいい。同姓同名の親戚と同一人物なのか確かめる術はないし――違えばいい、と思っている。

 三浦が名前しか知らない親戚は、もう生涯会わないはずだ。家庭の事情で親族の付き合いに顔を出さないはずだから、名前だけ、に留めるものでしかない。ふとした時に見る暗い表情だとか、選ぶことが得意でないところだとか、ショートケーキを食べたことがなかった様子だとか、そういうものから、勝手に結びつけていいものではないのだ。横須賀の家庭事情を三浦は知らないし、それを問いかける距離でないことくらい、わかっている。

 勝手な憐憫は、相手を見ないものだ。三浦が好んでいるのは食事をする度きらきらと目を輝かせるところだとか、優しい考え方だとか、まっすぐすぎてたまにこちらが照れくさくなるような困ってしまうようなところだとか、山田への物言いが意外にもはっきりしているところだとか、こちらを信じていると伝えるように、少しずつ嬉しいを素直に持てるようになったところだとか、そういうものだ。たくさんの好ましさが三浦にとって横須賀と親しくなりたい理由だし、山田とも同じくで。そう、それらは全部、三浦の勝手な願いと喜びだ。

 後ろめたさも罪悪感も自身の非道さも関係ない。それどころか、自分がそこにいるのを当たり前に喜んでくれる横須賀と、なんだかんだ言いながらも受け入れてくれる山田の好意だ。許し、と言いたくなる部分は飲み込む。三浦とて、彼らがただ許すなんて考えていない。それこそ好意に失礼だろう。三浦から一歩進まなければ確かに機会がなくなるだろう二人だが、それでも三浦の一歩を楽しんでくれている、と、三浦だって信じられる。

 だからこれは単純な、友人への思いだ。友人が誤解されたことを憂いはしても、罪悪感のような物を思い出す必要はなくて。

「ん?」

 ふと響いた通知音に端末を取り出す。噂をすれば影が差す。彼らと連絡を取り合うグループに新規メッセージが出ていた。基本的に三浦から連絡するばかりなので珍しい、と思いつつ端末の画面をタップし、アプリを起動する。

 そうして三浦は、思わず破顔した。

「マジかぁ」

 珍しい横須賀からの連絡だ。三浦と横須賀のみのグループではなく、三浦と横須賀と山田のグループ。なにか用件を代弁ならまだしも、そうではない。そうではない、ことが、じんわりと胸に滲みる。

 挨拶、突然すみませんとの謝罪、それから用件。丁寧に言葉を重ねるのは横須賀らしく、そしてその用件が三浦にとっては意外で、けれどもどこか当たり前に馴染んでしまうものでもあった。

 用件は単純に、喫茶店への誘いだ。訪れる機会があった場所がとても素敵だったので、ご存じかもしれませんがもし行ったことなければ一緒にいきませんか、というもの。山田のことは書かれていないが、彼らは同じ事務所で働いている。山田も横須賀が三浦を誘うことをわかっているというのだろう。それを、許容されている。

 ついにやけてしまいながらも、三浦はするすると文字を連ねた。嬉しい気持ちともちろんご一緒させてほしいとの旨、自身の都合のつく日。楽しみ、という趣旨の画像も貼って、ややあってついた既読のマークに目を細める。

 端末をそっと手で覆うように撫で、言葉を待つ。相手から埋められた一歩分に喜ぶ現金さを隠すことなく、三浦は緩みっぱなしの口角をそのままにした。