1-3-8)完璧な足
「あ、そうだ、そうだよな必要だよな。アタシは田中花! よろしくー」
「よろしくお願いします」
穏やかに頭を下げた山田はそれ以上表情を変えなかったが、田中の性質に何度目かの浮かんだ憂慮を内心に留めた。
板垣が知っているから意味はないのだが、それにしても名乗られるよりも前に名乗ってしまう無防備さは少々考える部分があるだろう。礼儀としては先に名乗るのが良いとはいえ、先ほどから伝わる田中の様子はあけすけすぎるきらいがある。
「そこの大きいのが事務員で、私は探偵をしています山田太郎です」
「たんてー?」
きょと、と不思議そうな田中に山田が名刺を差し出す。ありがと、と受け取った田中は、「たんていやまだたろー」と復唱すると目を輝かせた。
「へえ、すっごいなあ! 本物はじめてみた! じゃあなんか調べ物? 時間そんなとらないってへーき? なにやってんの? 難しい事件? やっぱ頭いいんだよな、すごいなあ、なんか推理するの?」
矢継ぎ早に質問する田中に、山田は笑みを浮かべて人差し指を唇の前で立てた。お、と反射のように両手で自分の唇を覆う田中は愛嬌があると言えるだろう。興奮しすぎ、と呆れたように言う板垣に、だってぇ、と返す声はあくまで無邪気に聞こえる。
後ろめたさなどなにもないという様子に板垣の視線がちらりと山田に向けられたが、山田はその視線に気づかない振りをして田中を見上げた。
「探偵、といってもおもしろいことは無いですが――期待にお応えしてひとつ」
立てていた指をそのままおろして、腕組みに変える。きらきらと田中が山田を見下ろし、板垣も少し興味深そうな色を見せた。横須賀は田中を見ている。だから、このタイミングだろう。
「田中花さん。貴方、以前、足を怪我したことがあるんじゃないですか?」
言葉で田中を見上げた板垣は、素直に知らないのだろう。窺うような表情が、少しの憂慮に変わる。田中の大きく見開かれた目で山田の問いかけが正しいと確信したのだろう。
口角を大きく持ち上げたまま、山田はそれ以上言葉を重ねない。はく、と田中が唇をふるわせ――しかしまっすぐ山田を貫いた。
「アタシの足は普通だ」
「ええ、今は問題ないようですね」
「そうだ問題ない。なのになんで」
唸るような田中の声は警戒と言うよりも強い憤りを示していた。その感情に気づかない顔をして、山田は腕を組み替えて笑ってみせる。
「単純なことだよワトスンくん」
有名な一説。ホームズを知らなくてもおそらくわかるだろう言葉の軽薄な音を聞いて、ぎゅ、と田中は唇の端を噛んだ。そんなはずはない、という小さな呟きに、山田はあえて言葉を重ねる。
「それなりに時間はたってるでしょうが、それでも長い期間足がうまく動かなかったんじゃないですかね。歩き方に癖がある。探偵ですから、これくらいは――」
「わかるはずがない!」
唸り声が叫びになった。驚く板垣と身をすくめた横須賀を気にかける様子もなく、田中は山田を睨む。距離を詰めないのが不思議なくらいの激情は、縫いつけられたように固まった足が当然にも思わせていた。
「完璧に出来ているんだ。アタシの足は、完璧にっ」
「ええ、わかりませんよ」
田中の叫びを、あっさりと山田は肯定した。足だけはそのままの場所でそれでも前のめりになっていた田中が、虚を突かれたように無防備に目を見開く。
そう、わかるはずない。これは推理でも何でもない、ひとつの事実だ。田中花という名前は、屋代の屋敷で聞いた名前。そしてそれが今回の彼女と同一であるという調査は既に済んでいる。
左足が動かなかったのに動くようになった、前回の死に返り被害者の名前。
山田はあえて緩慢な所作で、自身の右手を右耳の後ろから首にかけてさりさりと撫でるように動かした。
「まいったな。ちょっとしたジョークなんです、これ。傷つけてすみません。そんなつもりはなかったんです」
言葉の後は丁寧な会釈。え、とこぼれた田中の声に、顔を上げた山田は微苦笑で返した。
「見ただけでどこに行ってきたかわかるような頭を探偵全員が持っていたら、それこそ世界が変わりますよ。ジョークなんです」
もう一度、あくまで冗談だと言葉を重ねる。田中の肩が下がり、体が少し引いた。それでも足は動かない。
「緊張をほぐして話しやすくする為の手札。そういうものとして試したんですけれど、中々難しいですね申し訳ない。違うと否定されてもそうだと肯定されても使える話術みたいなもんなんです。
正解不正解は関係なくて、そこから話を広げるタイプの物。探偵なんて言っても、私は物語の探偵とタイプが違う。そういうことを理解するためのちょっとした話題ですね。ネタばらしをして笑って貰えれば次の会話につながるかな、程度のものなんです。探偵なんて聞くと警戒する人もいますから、お時間を取らせない中で少しでも相手に気を許して貰えればラッキー、という為の話題で」
でも逆効果でしたね。と困惑を見せるように山田がわざと言葉を多く重ねれば、田中はゆっくりと息を吐いた。こわばった表情ではあるが、それでもため息の後は口角を持ち上げ、なんとか笑いを作ってみせる気の良さ。
「ごめんな、びっくりしちゃってさ。随分前だし、昔馬鹿にされたり色々あって、つい」
「思い至らなかったこちらの過失です。軽率に使う物ではありませんでした。申し訳ない」
何度目かの謝罪の言葉と、これまでで一番きれいに頭を下げた山田に田中は手をやわらかく左右に振って「いいよいいよ」と穏やかに返した。下がった眉と微苦笑は、それ以上の感情を伝えない。
「これから気をつけてくれればアタシはゼンゼン平気。んで、聞きたいことってなに? わざわざそーいうの入れなくても、そこそこアタシなつっこく見えやすいと思うのにいれなきゃいけないよーなやつ」
「白鷺病院について窺いたい」
山田の言葉に、ぱちり、と田中は瞬いた。表情だけで言えば、無防備に見える。
三度ほど早い瞬きと思い出すように視線を上に向けた田中は、ややあって「ああ」と納得したように頷いた。
「アタシがそのあたり散歩していたから来た、のかな? 板垣がアタシを見かけたのって、この人たちの関係だったから?」
最初の疑問は山田に向いており、次は板垣に対して首を傾げたものだ。先ほどの激情を見せない朗らかな問いかけに、板垣が眉をひそめて頷くとも頷かないとも言えないような微妙な角度で黒いマフラーに顔を埋めた。
板垣が、そのまま言葉を探すように黒いマフラーを右手で触る。その手がマフラーを下げる前に、山田は口を開いた。
「白鷺病院。話題に事欠かない、それなりに有名なオカルトスポット。廃墟ってもの自体がそもそもこのあたりでは珍しいものであり、病院の形がそれなりに残って見えるのも理由の一つ。県外からも物好きが来るのもあり、夜に遊びに来る不特定多数が珍しくないことからも治安は良くない。ただまあ、この寒い中覗きに行く人間は多くなく、冬はそれなりに静か」
連なる言葉は、それまで田中に向けられた敬語と違い常体である故まるで記事か何かを読み上げるようでもあった。ふんふん、と頷いている田中は特に気にした様子を見せず、逆に板垣が眉をしかめている。
「白鷺病院は住宅街から離れており、あの周囲を散歩するというのは中々物珍しいですよね。今回調査の関係で聞き込みをしたくても、やはりあまりいなくて。板垣さんのお話だけでは足りないんです」
「なんの調査してるんだ?」
不思議そうに首を傾げた様子は、純粋なる好奇心にしか見えない。その小さな黒目が電灯の光で煌めいてすら見えた。焦げ茶色の、ごく普通の瞳。
「――動物の死と土の関係性についてです」
田中の表情は変わらない。笑顔のまま、首を傾げてさえ見せる。
「先日内蔵を引きずり出されたような状態の死骸が発見されました。その死骸に、奇妙な土が付着していまして」
傾げた首を戻した田中は「ふぅん」と穏やかな声で相づちを打った。表情は冷静そのもの。といっても冷たいという意味ではなく、最初に感じた朗らかさそのままの、人の良い顔だ。
だからこそ、違和だ。動揺がない。相づち以上の意味を持たない反応。
「野犬などが原因と考えるにはあまりに綺麗すぎましてね。なにか感染症や別の原因がないか、人が関係していないか心配もあるので調べているんです。特に小さい動物に向けられた行為は、最終的に大きな動物――人間に向きかねない」
「探偵の仕事なのか?」