1-3-7)白いマフラー
* * *
時刻、十九時三十八分。ジムから出てきたのは女性で、それが山田たちの目的の人物であることはほとんど間違いなかった。
背丈は一七〇程度。髪はだいぶ短い故に毛先が立って見えるようなベリーショート。ジムの明かりで照らされた髪色は茶褐色で、写真で見ていた本来の色より少し明るく見えるくらいが差異だろうか。白いマフラーに顔を埋める田中は、山田たちに気づいていない。
事前に確認していた情報と重ね合わせた山田は、横須賀を挟んで隣にいた板垣を見やる。サングラスで視線はわからないものの顔の向きで理解した板垣が頷き、山田は行動を促すように顎で女性を示した。
板垣が再度頷く。すり、と少しひっかかるように黒いマフラーをつかんだ板垣は、それを少し下げて口を開いた。
「田中」
「ん? ああ、板垣!」
板垣の呼び声に振り向いた田中は、非常に嬉しそうに表情を華やがせた。冬の夜というのに明るい笑顔はまるで初夏を思わせるほど暖かで、田中の性情をストレートに伝えてくる。板垣がうつむくと、厚手のマフラーは板垣の口元をすぐに隠してしまう。
「偶然だな、今日は――っと、お知り合い、か?」
にこにこと板垣に近づいた田中は、横須賀と山田を見て首を傾げた。視線が上と下に動いたので、きちんと二人を見上げ見下ろしたのだろう。そうしてまた板垣に動いた視線に、板垣がまたマフラーを少し下げる。
「ん。こっちが大学の時の友達で、こっちは友達の職場の人。悪いけど時間くれねぇ? ちょっと聞きたいことがあってさ」
「ふーん? 不思議なメンツだなー」
田中の言葉はもっともだろう。大学時代の友人だけならまだしも、その職場の上司がいるというのは奇妙きわまりない。もっと言えば、そもそも山田は見た目が怪しい。
今回、横須賀は板垣にあわせカジュアルな格好――最近の職場ではオフィスカジュアルな格好をさせていたが、以前させていた私服だ――をさせているが、山田はいつものスーツだ。しかも季節柄、板垣はマフラー、手袋、ダウンジャケットと暖かい格好をしており、横須賀もマフラーや手袋をしていなくてもダウンジャケットは羽織っている。山田はコートを着ている物の、あくまでスーツに合わせたブラックフォーマルで防寒機能はこのメンバーで一番落ちるだろう。さらに言えば夜にサングラス。板垣が黒い服を好んでいるので黒だけで怪しまれることはないだろうが、それでも不思議なメンツで留められているのは随分とした寛容と言えるだろう。
「田中、時間は?」
「ヘーキヘーキ。今日は他にバイトもないし、家帰って寝るだけ」
ひらひら、と手を振って田中が笑う。職業柄か、爪はそれなりに短い。しかし深爪という様子もなく、健康的な手と言えるだろうその指は長く、爪が少し黒ずんでいた。
「どーする? すぐ終わるならここでもいいけど、長くかかりそうならどっか店行った方がいいだろ」
「長くかかるものではありません。こちらで少し、よろしいですか?」
板垣に尋ねる田中に、山田は穏やかに声をかけた。外見よりも存外穏やかな物言いのせいか少しだけ目を丸くした田中は、しかしすぐに歯を見せて笑った。
「いいよいいよー、板垣の知り合いだろ。ゼンゼンヘーキ! アタシ丈夫だし、アンタたちがいいならいいんだー」
あははー、と少し間延びした声で田中が笑ってみせる。朗らかな笑顔と快活な語調は田中の人の良さを伝えてくるものだ。
印象だけで言うなら、板垣の言い分もわからなくもない。夜の病院と彼女は、随分と似合わない。
「すみません、冷えるとは思いますがご容赦ください」
「へーきだって! マフラーもあるしな! な、板垣っ」
ばし、と板垣の背中が叩かれる。音はダウンジャケットの分それなりにしたが、揺れた程度の板垣の様子から多少の加減はされているだろうこともわかった。にこにこと見下ろす田中に、ややあって板垣が「おう」と少しくぐもった声で答える。
マフラーに顔を埋めているので声がくぐもるのは当然だろうが、板垣の視線が明後日の方向にあるのは少し奇妙だろう。
だがしかし、これから尋ねることを思えば朗らかさから目をそらしたくなるのもわからなくもない。わざわざ聞く必要もない程度の差異なのでそれ以上山田は思考するつもりもなかったが、横須賀は不思議そうに首を傾げた。その視線が、田中と板垣に動く。
マフラーをわざわざ板垣に言ったことが疑問なのだろうか。山田の想像と同じ思考をしたのか、横須賀の様子に気づいた田中は「ああ!」と明るい声を上げた。
「このマフラー、板垣から貰ったんだよ。余ってるからやるって」
「余る」
横須賀が確かめるように復唱した。うん、と頷いた田中は嬉しそうにマフラーをふかふかと触ってみせる。
「アタシ普段マフラーとかしないからさあ、あんまなじみ無かったけどふわふわしててお気に入りなんだよなぁ」
にこにこと田中が言葉を重ねて、山田は眉間に皺を寄せるような心地をとりあえず内心に隠した。知り合い、といっていたが、板垣にとってはそれだけではないのだろう。別にどういった感情を向けていようが山田は行動を変えないが、板垣が渋ったのもそれでいて無碍に仕切れなかったのも、理由が一つはっきりする。
ただ、納得と面倒に内心嘆息したくなった山田と違い横須賀は理解していないのか、田中のマフラーを眺めたままゆっくりと首を傾げ、続けて板垣を見下ろした。板垣は気まずいのか顔を逸らしたままで、二人の視線はかち合わない。
「板垣、黒い服しか買わないのに余ったのか?」
「っ」
げほ、と板垣がなにもないのに噎せる。げほげほと音を出す板垣に横須賀はおろおろとしているので悪気はない。悪気はないが、である。
「そういやいっつも黒い服だよなー」
「そっれは、」
けらけらと笑っている田中は気にしていないようだが、板垣の声が裏返っていて見ていて哀れだ。不思議そうな横須賀と特に気にとめていない田中とは対照的に、寒さだけでなく赤くなった耳とマフラーから顔を出せない板垣に、山田はため息をついた。
やや大げさなため息に、三人の視線が山田に向く。山田はあえて気にしないような顔で横須賀を見上げた。
「黒い服しか着ないから余るんだろ。白いモン貰うなり買うなりで余分に手に入ったら好みじゃねーけど新品捨てるのもってなるだろうしな。黒だったらそのまま自分で使うから余分にならねぇじゃねぇか」
「あ、そうですね」
「白いのも似合いそうなのになー」
山田の言葉で合点がいったように横須賀が頷き、田中はマフラーの裾を伸ばして板垣と重ねるようにしながら眺めて笑った。どちらも納得したような様子に、黒が好きだからいいんだよ、と言った板垣は明らかに安堵した様子である。
横須賀も田中も、あまりそういった面に意識がないのかもしれない。おそらく片思いだろうというわかりやすさに気づく様子はないし、そもそも横須賀はこれまでを考えると納得もいった。
以前横須賀が言っていたことをつい思い出してしまう。日暮が逸見の事件を特別と言っただとか寄り添いたいだとか言ったという言葉選びは、言ったのが横須賀でなければ別の意図に捉えられかねないような言葉選びでもあった。まあ、そもそも日暮の言葉選び自体時々誤解を受けそうな物だったりするし、それを素直に信じる横須賀だから山田は誤解などしようもなかったが。
だが、今の様子を見るとそもそも横須賀は恋慕の情ですら友愛とも親愛とも義務とも決意ともなにもかも全部同じようなものとして扱っているところがありそうである。
それでも板垣が横須賀に非難の目を向けることがない様子を見ていると、思った以上に良い友人関係なのかもしれない。だからどう、というわけでもないが、仕切り直すように山田はもう一度、今度は短く息を吐いた。
「自己紹介いいですかね?」