1-1-14)声盗
* * *
「おう、お疲れさん」
腕の中の子供がびくりと肩を揺らす。声をかけた山田の表情は特別どうというものを見せず、不機嫌でもなければ上機嫌という訳でもない。
平時と変わらない声に、しかし横須賀はようやっと安堵した。
「お疲れさまです」
開いた戸から光が射し込めば、なんてことのない狭い部屋だ。畳六畳分のスペースに置いてある物はさほどない。
戸から入って正面上部にある神棚と、その手前にある部屋の中の小さな社。少しほこりっぽい畳は、黒で汚れてしまっていた。
「すみません、あの壷、渡してしまいました」
「いい。テメェに持たせて正解だったな」
作り手がいないのは面倒だが、といいながら山田は自身の腰に左手の甲を当てた。それに合わせて胸を張り子供を見下ろすのをみて、横須賀はそっと子供のつむじを見る。
まだ顔は上がらない。
「声を奪ってどうするつもりだったんだ」
山田の言葉は静かだ。子供が身を引こうとするものの、ちょうど後ろに横須賀がいるのでかなわない。座った横須賀の足の間で立ち上がろうとした子供の手を横須賀はそっと握った。
あまり触れるのは子供に申し訳ない心地だが、自由にするには少しだけ不安がある。
抱き抱えていた手を離さずとも崩れることを、横須賀は知っていた。それでも、横須賀に出来る唯一でもあるのだ。勝手だと思いながら、その熱を手の内に閉じこめる。
「テメェには聞くことがある。テメェが何者か、動機はなんなのか。答えるつもりが無くとも、自由になれると思うなよ」
言葉選びは絶対的だが、山田の声は最初から変わらない。感情で追いつめるような音ではなく、許すものでもない。手の中の小さな熱がうごめく。
けれども、返事はない。
「奪う、って、壷、じゃないんですか?」
問うていいのかしばらく逡巡した横須賀は、結局言葉にすることに決めた。今はひとまず落ち着いたと考えていいだろう。問題があれば山田が止めるだろうし、言葉にすることがまずければもっと前に言っているだろう。子供の熱が消えないこと、変わらないことをなんとなく意識しながら、横須賀は山田を伺い見る。
「声壷は声を呑む、と言っただろ。一日一音消化して取り込んで、それで普通は問題がないんだ。その声が漏れ出てしまうのが壷に異常が出来たとき。声が無くならない限り欲しがる理由もない」
「えっと……」
消化、取り込む。そうしたものは壷に閉じこめられるということなのだろうか。きょときょとと瞬く横須賀に、山田は社の入り口、その縁をなぞって見せた。
「ここを開けただけで異常があるなら、こんなのんびりした管理出来る訳もない。壷に異常があった時くらいだ。泥神に呑まれた山のモンが外に出ないように、ということで出来た場所。人身御供を昔はした――といっても命ではなく奪うのは声らしいが、そういうことをしていたのを現代では別の音で代用している」
「別の音……?」
「川のせせらぎ、鳥の声、風の音。そういうのを少しずつ詰め込んだもの、と言われているな。お前が渡した壷もその一つだ。と言ってもベースとなる人の声も必要で、それを溶かして溶かして、泥神の土壌に混ぜ込んだ物を作るのが土蔵さんの仕事だった。代々、先代がこねた土だかなんだかを死んだ後混ぜて壷を作る。死んだ人間の声が再生されるなんて噂があったりするが、どれも全部混ぜすぎたものだからそのままという訳にもいかない。反響して元の声がわからなくなるのと似ているな」
あの空間は異常だったが、山田がギミックは単純と言っていたのは嘘ではないのだろう。準備に手間はかかるが、命を奪うものではなく人をとかして成り立つような仕組みでもない、ということだ。
どちらかというと地域に根付いた、小さな習慣に近いのかもしれない。
「そもそもあの空間自体、山のモンを閉じこめるものだ。泥神によって無理矢理作られたもの、と考えていい。土砂災害による被害を軽いものだとは決して言えないが、それでも元々が自然の起こすことなんだ。今は木を植えて対策もしてあるんだし、こうして無理に閉じこめる必要もないだろう。土蔵さんが生きていたときは状況的に修復も儀式も行ったが、土蔵さんの考えでは土蔵さんの代で終えて、あとは放っておいて管理できなくなったら壷を土に返そうって話にもなっていた」
山田はそこで言葉を切った。サングラスの為視線の動きはわからないが、その所作で子供を見据えただろうことが伝わる。子供は拳を握り、黙したままだ。
「声壷は山のモンをなだめる為の儀式のように声を呑ませるが、そもそも山のモンを閉じこめたからなだめる必要があるだけだ。でかい規模の土砂災害だって、原因は人間にあった。本質は自然の域を出ないんだよ。
横須賀さんが投げ入れたのは土蔵さんが準備していた代用品で、おそらくそいつは消化できないまま音を出して遊んでたんだろう」
ピュゥイ、と音をだして揺れていた姿は確かに『遊んでいた』という言葉が似合って思える。よくわからないまま頷いて、横須賀は子供の拳を見つめた。相変わらず固い拳は開かない。
「泥神の土で作った壷に山のモンを閉じこめて、声を入れてなだめて――そういう儀式は、結局本来はそれ以上にならない。木の型は、声に言葉を覚えさせるための道具。声をなじませる為に使うもの。全部積み立ててきたもので、声をよみがえらせるものではない」
山田の断言に、子供の顔が持ち上がる。横須賀の位置では確認できないが、山田からはよく見えるだろう。ふる、と手の中の拳が揺れた。息の漏れた音で、なにかが声になりそこなったのがわかる。
「アンタがどう望もうが、俺たちはアンタをこのまま元の場所に戻さない。ただ、話をしろ。黙っていても必要な連中が勝手に調べるだろうがな、このままでテメェがいいのか、ってことだ。俺がアンタより詳しいだろうことくら、わかるだろう」
手を振り払うような力ではないが、逡巡に子供の手が揺れた。飛び出す様子がないのを確認して、横須賀はそっと子供から手を離す。
思考と会話に、体の動きは少しの手助けになるだろう。なにかを言おうとする子供の妨げを続けるのは、横須賀の本意ではない。
「知りたくないか」
静かに山田が告げた音は、子供の前に並んでいる。手を差し出したようで、手を引くものではない。あくまで選択を相手に求めるもの。たとえ選択しなくともそのままにしてしまいそうなそっけなさと、それでいて切り捨てない確かさ。
「お、れ」
ひきつった声はすぼまった喉で幾分高い音を成した。それから子供の頭が少し下がり、また持ち上がる。少し前傾になりながら山田を見る子供の拳は、固い。
「やらなきゃ、いけないこと、が」
そこで言葉がとぎれる。前傾姿勢はたやすく元の距離に戻った。続く言葉がないことを確認して、山田は浅く顎を引く。
「そうか」
納得ではない。しかし、糾弾でもない。山田は短く告げた後、子供の顔をのぞき込んだ。
「それなら、話をしよう」
最初にあった絶対的な言葉選びではなく、随分とやわらかい語調だった。声質も相まって、まるで幼子に教師が語りかけるようでもある。
はなし、と、子供が復唱する。高圧的な態度を引いた山田は、子供の復唱にも丁寧に頷いた。
「君が答えなくても君の行く先は変わらない。君を帰してあげることは、今の段階では出来ないからね。君はなにもかもわからないまま、自分の成したことの正しさすらわからないまま、行かなければならない。私たちは君を思いやるつもりなどないし、社会の優しさとは時に理不尽だ」
ゆっくりだが、しかし直接的とは言い難い言葉選びだった。柔らかいようで本質を伝えきらず、それでいて実際を伝えるもの。子供がその言葉の意味を消化する手前、それでいて飲み込みきれずに溢れさせてしまうよりも少し後に、山田は言葉を差し込む。
「ただ、私はいくらか君より知っている」
流れる言葉の後に、ピリオドのように差し込まれた言葉は短い。子供が少しだけ体を前に動かした。
ああ、と横須賀は今更思い至った。外に出る前、鳥の声でアレが遊ぶ前に聞こえた呼びかける声は、山田の声に似ていた。外見に見合った凄む音をよく出す山田だが、
壷に対峙したときはおそらく山田太郎としての声だったはずなので壷の仕組みはよくわからないし、今は山田の元に戻っているので問題はない。ただ小さな納得をしながら、横須賀は二人の会話を見つめていた。
「使われたではなく利用されたのなら、君は知らぬまま終わることを望まないだろう。使われるだけでいいなら別だけれどね」
ふる、と子供が首を左右に一度動かした。うつむきながらの否定の所作は控えめだが、それでも確かに意志を伝える。
「――なら、話をしよう。君の望みを叶えはしないけれども、君は、君自身を守るために知る権利を持つ」
あくまで穏やかな山田の言葉に、子供はおずおずと頷いた。