台詞の空行

1-1-13)やまのもの

 三つ目のすることは、帰ること。山田の姿が見えなくても先に行けというのは随分な勝手だが、山田は儀式の中心、横須賀たちはその周り。外れてしまう可能性があるのは横須賀たちだと山田が言っていたから仕方ない。

 ある程度無理を言って山田の側を選べてもこういう時は従うしかなく少し寂しさを感じるが、横須賀はそれでも、と思うのだ。山田が切り捨てなくていい、という選択を選べるようになった。だからこそ、この指示を守りたいと。再度成す決意のように、もう一度子供の手を握り直す。少しだけ横須賀を見た子供は、すぐに視線を逸らした。この子どもがなぜ、という疑問はこの先、出た後だ。

 ズリ。ぬめつく音が鼓膜を覆うようだった。子供がびくりと体を揺らす。逃げそうになる子供の背を体で押しとどめ、その肩をぎちりと掴む。先ほど逸らされた視線が怯えながら横須賀に向けられる。

 廊下の向こう側、おそらく黒。もう少し進むと曲がり角だ。音は遠いのに、曲がり角で右を見たら黒が目の前にあるのではないかという胡乱な妄が浮かび、横須賀は息を細く吐いた。子供を前にしたまま、その体の前に腕を回す形で一歩一歩進む。戻りたがる様子を見せた子供は、しかし青白い顔で前に進んだ。

 いっそ後ろに隠したいが、子供がそのまま反転したらどうしようもない。山田曰くあれは寂しがりだ。今は壷を追うはずで、しかし音が響けばそちらを求める。ゆっくりと進むこと、時間も歩幅も違いなく。本当に儀式じみていて、今更だ。

 いつあの黒が反転するのか。こちらに迫るのか。音は一定の速度で進みを変えないのに、そんな妄想ばかりが浮かんでしまう。

 横須賀は横須賀が思うよりも臆病なのかも知れない。黒いそれがなんなのかわからないまま、突然迫ったら、曲がり角を曲がったときにそれがこちらに口を開けていたら。子供と体をすぐに入れ替えられるように回した腕はそのままだが、浮かんでは消えるどころかどんどんと積もるネガティブな想像に息苦しくなる。

 三つ目の決め事は、することである帰ることを守るために大事なものだ。考えすぎないこと。それでも浮かぶ妄に内心ため息を付きたくなりながらも、横須賀はその先を見る。

 山田が言ったのだから、それは横須賀にとって一つの事実だ。今も実際、おかしなことは起きていない。考えたところで横須賀が結論を変えられる物ではなく、出来るのは信じることただひとつ。

 横須賀は宗教的な信仰を持たない。にもかかわらず信ずることが結果に繋がるのだから、少しだけ奇妙な心地でもあった。

 ず、ず、ず。見過ぎてはいけない。探りすぎてもいけない。曲がり角。妄と違いそこはぽっかりと虚のようで、

「ちえ」

 子供の声に、背筋が粟立った。


 ず、ずず、べしゃり。まるでその場で振り返るような音が廊下の向こうで響く。『 』? それがなにをなしているのかはわからなかった。

 速度を無理矢理ゆっくりにして分解したような低音。ぐわんぐわんと低い音が反響し、なにかを成している。繰り返し響くのはおそらく同じ音だ。ぐり、ぐり、と繰り返して、その母音が『い』と『え』であるとわかる。しかし、わかったところで意味はない。とっさに横須賀は子供の耳を塞いだ。そうしろと言われた訳ではない。ただ、これはだめだと思ったからだ。

『チ エ』

 ちえ、ちえ、ちえ。繰り返される音は反響しながらぐるぐるとまわる。まわって、回って、廻って。しゃがれた声、反響した高音、滞る低音、大人の声、子供の声。混ざり混ざったこの音を、横須賀はどこかで聞いたことがあった。

『チ エ、チエチ、』

(ぉにぃちゃ)

 重なった音に心臓がどくりと違和を訴えた。違う。アレは違う。浮かんだフードの子供。目の前で崩れた、肉塊。違う。ここにいるのは

「、おれ……!」

 黒が震えると、子供がかぶりを振って体を弾くように手を伸ばした。横須賀が考える前に、横須賀の体は反射で動く。子供の体がもう一歩前に行くよりも速く、横須賀の腕は子供を捕まえた。悲痛な顔の子供の口を右手で塞ぐ。

「……よくみて」

 子供の耳元に顔を寄せ、横須賀は低く、小さく声を子供にだけ落とした。

「君が逃げていたものだ」

 敢えて使ったのは断定。顔を寄せているから、子供の顔は見えない。黒に裂け目が、にちゃり、と出来る。

『オレ』

「君は違う」

 震えそうになる心地は、声でなく手に伝わった。それでも横須賀はしっかりと子供を抱き留め、不安と罪悪を飲み込む。

 もしアレが子供の求めるものだとしたら、山田は可能性を考え伝達しただろう。そうしなかった、ということは違うということだ。それでももしかしてがよぎるのは止めきれず、けれども横須賀はぐ、と黒を見据えた。

 あれは、違う。直臣なおおみのことがあるからこそ、そうであれば山田は横須賀にもっと言葉を重ねたはずだ。ほとんど間違えようがない確信に近い感情で、横須賀は断じる。山田は元々、あの事件を追いかけていた。だから子途ことと似たものがあってもおかしくなく、そして子途ならば事前にその話は出ただろうと判断できた。だから違う。あれは、違う。それにもし同じであったとして――まだ、横須賀にはああなってしまった後に出来ることがわからない。

 横須賀がわかっているのは、ああなる前に止めなければならないということだけだ。

『オレエチエ、オーチエ』

 ぬた、と黒がこちらに傾く。ひゅ、と息を呑んだ横須賀は、子供の体が動かないのを確認して、左手を鞄にのばした。

 さり、と、紙の包みが指に引っかかる。

『オーレチ』

 黒が伸びる。横須賀は思考のもやを振り払うようにかぶりを降ると、鞄から拳を抜いた。

 それが開くのと合わせるように、下から上へ腕が振られる。

 とぷん。

 体に入ったものを咀嚼するようにもごもごとその部位から蠢き揺れた黒は、少し上部ににちゃり、とまた裂け目を見せた。ず、べた、ず。そうして進んでいく黒は、横須賀たちの進行方向と同じだ。

 心臓がまるでアバラの間に挟まったように、胸の内側、それでいて肉の上あたりがどくどくと痛む。子供の問うような視線に対し横須賀は指を一本唇の前で立てた。しずかに、を告げるジェスチャーに子供が頷き、そうっと横須賀は歩みを再開する。

 いつ黒が振り返るか、なにかまた別のものごとが起きるのか。不安と焦燥を破ったのは、聞きなじんだ声だった。

 黒が目の前で、体を伸ばす。ぼう、と伸びたのは小山のようで、ふる、と震える様はどこか楽しげにすら見えた。

 ――おぅい。

 遠くから響いたのは、優しい、優しい声だ。落ち着いた声はひどく穏やかで、女性特有の柔らかさを内包している。

 ――おぅい。

 まるでこの場所がなにか生き物の腹の上のように、揺れる。床の板がうすっぺらくなり、ゲル状のなにかが下を蠢くようだった。四肢に力を入れ子供を抱きしめる。不思議なことに力を入れる床は固い。こんなに揺れて感じるのに、だ。床が固いのは当たり前のはずなのに、その当たり前が奇妙だ。

 ――おぅい。

『ピュゥイ』

 近くで響いたのは、鳥の音。おそらく、鳥だと横須賀は考えた。音は前方、黒から発せられている。

 ――ヒュゥイ。

 先ほどの女性の声が、今度は鳥の音に変わった。音の場所も変わる。先ほどの声は遠かったのに、鳥の音はずいぶんと近く感じられた。

 まるで、黒の中で響くような音。それでいて黒の鳴らす高い音よりも澄んだそれに、黒自体がまた揺れる。

『ピュゥイ、ヒョゥイ』

 ――ヒュゥイ、ヒュロロロ……

『ピュゥイ、ピュロオイ』

 黒が声の度に伸び、音を出しては縮め、ぽすん、ぽすんと上機嫌に揺れながら先へ行く。確かに床は固いのに、そのたびにぐらんぐらんと歪む。歪む、歪む。揺れすぎて狭まった呼吸に、ふわ、と、風が差し込んだ。

 冷たい冬の匂い。


 とっさに、横須賀は左手で風を追った。掴むようにのばした手首が、ぱくり、と壁に食われる。あり得ない光景に一瞬血の気が引き――しかし、横須賀はそのまま子供をぐいと引いた。

 視界の端で黒は、相変わらず楽しそうに揺れていた。