台詞の空行

6-5)素直

「最近の調子はどうだい?」

 廊下を出たところで、朗らかに平塚が尋ねた。言葉を内側で繰り返し、横須賀は頷くのと似た速度で下を向く。

 調子、と聞かれて返す言葉が思いつかないのが原因だ。怪我はしていない。病気もない。そこまで考えてようやく横須賀は顔を上げた。

「普通、です」

「普通か。それはなによりだ」

 体調については問題ない。だが元気と言う言葉には馴染みが無く答えると、平塚は目を細めて笑った。言葉と表情が一対一になるような快活さに、横須賀は頭を下げる。

 平塚の歩幅は大きい。女性にしては高い上背に見合った足を真っ直ぐと伸ばし歩く背を追う。山田のような足早さはないがそのリーチから結果的には同じような速度だろう。堂々と背筋を伸ばしながら、平塚は時折横須賀を振り返る。

「おそらく日暮刑事は席にいると思うんだ。外で待ってくれればすぐに来るはずだから安心してくれ給え」

「はい」

 横須賀が頷くのを見て、うん、と平塚は頷き返すそうしてからやわらかく息を吐いた。

「……君は素直だな」

「はい?」

「いやなに、本当山田太郎の部下とは思えずつい。すまない」

 口元に手を置いて笑う平塚に、横須賀は少しだけ首を傾げた。嘘を吐くのは苦手だ。だからある意味では正直かもしれないが、素直、という言葉には頷きにくい。

 素直なんて言われたら、まるで良い子のようだ。そういう言葉は元気と同じく少し遠い。それに正直という意味でなら、山田だってそんなに嘘を多く吐かない人だと知っている。言わないことは多いが、刑事たちに対してあまり嘘を吐こうとしていないように思う。

 だから平塚の言葉は不思議だった。

「どうかしたか?」

「山田さんも、すなお、かなって」

「まさか」

 はは、と平塚が笑った。失笑にますます横須賀は首を傾げる。なら自身も違うと思うが、否定するのも難しく思えた。

 ふと、平塚が足を止める。

「……本当に君は山田太郎に騙されていないかい? なにかあれば相談してくれていいんだぞ」

「騙されてない、です」

 真っ直ぐと見上げてくる平塚に横須賀は同じく真っ直ぐと返した。騙されていたとしても横須賀は気づけないだろうが、しかし山田が横須賀を騙すメリットはないとも考えている。

 山田に雇われて得をしているのは、仕事がなかった横須賀だ。最近の事件では確かに予想外のことに随分と動揺したが、それでも望めば事務所にいてもいいという山田に使ってもらいたがったのは自分自身であるということを、横須賀は忘れない。

「使ってもらっている、ので」

「……そうか、失礼した。親しいものを悪く言われるのは好ましくないだろう。こちらの言葉が悪かったな」

「いえ」

 謝罪を受けることが馴染まず、反射で否定する。そんな横須賀に平塚は申し訳なさそうに苦笑した。

「君にはどうにも言い過ぎてしまうな、すまない。私の山田太郎への不信と君の選択は別だ。忘れてくれ」

「いえ」

 先ほどと同じように答えて、しかし横須賀はその返答がどこかずれていると気付いて鞄の紐を握りしめた。忘れてくれ、に対して否定するのはどこかおかしい。平塚の不信と自分の実感が別なのだから頷くべきだっただろうが、しかし選択、と言われるとなんだか奇妙に思えて言い直すことが出来ない。

 山田が選んでくれたのだ。山田に切り捨てられてしまえば、山田が命じれば横須賀はその場所にいられないことを知っている。山田が一人を選ぶのだから当然だ。若草でも数野でも病院ですら、おそらく横須賀は選べていない。

 使ってもらうことを望んで、それを叶えてもらっているだけで。それが選択と言えるのだろうか。望みを叶えられることに感謝するだけの横須賀にとって、平塚の言葉は違和感があった。

「っと、すまない。グレさん――日暮刑事のところに行く前に資料室を覗かせてくれ。小山刑事がいるかだけ確認してくる」

「あ、はい。大丈夫です」

「有り難う。では君はここで待ってくれ給え」

 それだけ言うと平塚は左隣の扉に手をかけた。ぐ、と左手で押し開き、しかしそこで止まった。

「平塚刑事?」

「……すぐ戻る。ここに寄ってよかったというべきか」

 続いたのはため息だった。山田の作ったような大仰さとは違い、そのまま吐き出された感情に横須賀は不思議そうにその後ろ姿を見送る。部屋の中を見てはいけないだろうかと視線の場所を定められず、結局自分の鞄に視線を落とした。

「グレさんなんでここにいるんですか」

 一息で吐き出された声は呆れを含んでいた。少し平時よりも早口なそれに、ん、と短い声が返る。平塚が扉から奥に移動した。

 扉は不用心にも開け放たれたままだ。資料室ならセキュリティがあっても不思議ではないのだが、どちらかというと小部屋のような入り口に横須賀は近づいた。中は見ない。ただ呼ばれても平気なように壁を背中にして耳を澄ませた。

「グレさーん」

 中から響いたのは低めの声で、だが飾ったような声とは違う。呆れと不機嫌を心配でくるんだような調子の声に返るのは、先ほどとまったく同じ調子の「ああ」という声だ。

「グレさん、流石に怒りますよ」

「ああ、すまない」

「グレさん」

 もう一度念を押すような声。ややあって、ぎ、と床をこするような音が響いた。

「どうしたヅカ」

「どうしたじゃないです。なんで席にいないでここにいるんですか」

「離席は伝えてあるし机にもメモを残した」

「……そうじゃなくて」

 ため息は聞こえなかったが、距離によっては聞こえたのではないかと感じられるようなむくれた声が中から響く。ややあって響いたのは椅子が揺れるような音だった。

「あとはこの資料だけだ」

「それモトさんの仕事じゃないんですか」

「モトには必要があって別件を頼んでいる。別にいいだろう」

「グレさん……」

 平塚の呆れと心配と含んだ声とは対照的に、すべて同じトーンで無感動に日暮が返す。怒りと言うには優しい声が日暮を呼ぶが、それに対しての返事は無い。

「とりあえず今これ以上は言いません。ただよければお時間を頂戴したい。横須賀君から病院見学を願われたので可能かどうかの相談を」

「横須賀君」

 日暮が名前を繰り返した。それから立ち上がる音が続く。

「そういえば今日だったな。少し彼の顔を見よう。そこにいるのか」

「居ますけどグレさん今日だったってちょっとまってください日付感覚微妙に鈍くなってるんですかってあ、ちょっと」

 革靴の音が響く。近づく音に横須賀が扉を見ると、やああって日暮が顔を出した。相変わらず真っ黒い感情の見えない瞳が、横須賀を見下ろす。

「こんにちは、横須賀君」

 そうして先ほどからまったく変わらない平坦な声が、横須賀に掛けられた。

「あ、こんにち、は」

「今日は協力有り難う。君の言葉を平塚が聞けたようで、とても嬉しい」

 嬉しいというには無感動な声で日暮が言う。表情も声と同じく変化がなかったが、しかし差し出された手と礼に横須賀は慌てて頭を下げた。

「俺、ぜんぜん、その」

「平塚が君の願いを申し出たんだ、それで十二分とわかる。有り難う」

 重ねられた礼にどうにも落ち着かなそうにしながら、横須賀はそっと手を差し出した。節張った手が、ぎちりと横須賀の手を握る。大きさだけでいうなら横須賀の手は随分大きいので当然日暮の方が小さいのだが、硬い指先と手のひらは横須賀と違いずいぶんと力強い。

 横須賀の手は大きいがそれだけで、日暮と同じように筋張ってはいるもののペンを握る以外はやわらかいものだ。添えるだけのようなその手を五秒ほど強く握った日暮は、最後にもう一度力を強めた後手を大きく開いて離した。