6-4)感情
* * *
「……なるほど、そうか」
深く頷いて、平塚は自身がペンを走らせた紙を見下ろした。伏せた睫の影で明るい瞳が揺れるのを横須賀は眺める。
一度だけ瞼が痙攣し閉じかけた瞳が、平塚が顔を上げる速度に合わせてゆっくりと持ち上がった。
「有り難う。君の話はとても貴重だった。君の善意に感謝する」
まっすぐとした謝辞に横須賀は小さく頭を下げた。素直に言葉を受け止めるには、実のところすべてを話していないので後ろめたさがある。故に声には出さない返答だった。
山田は平塚と話すことについて、あっさりと許可をした。出された条件は多くない。嘘を吐かないこと、会話を記録すること、叶子がおじちゃんと呼んだ男の話した内容については触れないこと。基本的に聞かれたことに答える形だったので、これらはあまり難しいことではなかった。
会話を記録することに関しては、ボイスレコーダーを最初に提示した。平塚は当然の権利だろうと答え、ただもしかすると会話内容によっては控えてもらうかもしれない、とも言った。結局ずっと記録をしたままだったので何の問題もなく、念の為とった走り書きのメモを整える時に役立つだろう、と思う。
ただ、そうして色々なことをそのまま行えた故になんだか自分があまりに渡していないようで、平塚のまっすぐさに報いることが出来ていないのではと言う落ち着きのなさが横須賀の胸をざわつかせた。
話をする為に通された個室はシンプルで、対峙するのは平塚しかいない。平塚はそんな中で赤月秋の話を聞き、先日の病院の件と秋のまわりに存在するだろうオカルトじみた存在――あの瞼をめくったときにあったもののことについてなどだ――を確認し、新山親子の行き先を聞き、怪我人の有無と他の存在を尋ねた。横須賀が話せないと言えば素直に引き、横須賀が伝えれば大仰に感謝する。丁寧な対応と自身の語らない部分が比例するように膨れ上がる。
「なにかあったかな?」
沈黙をどう思ったのか、穏やかに労る声で平塚が聞いた。その声に身を強ばらせた横須賀は首を横に振ろうとし――しかし止まる。
言わなければ、と思う。けれども声を出すことが恐ろしい。
「私も仕事の中で言えないことはある、と言ったね」
平塚の声は穏やかなままだ。少し案じるように下がった眉と柔らかい瞳が、横須賀を見つめる。
「とりあえず君に聞きたいことは終わったから、そのボイスレコーダーを止めても良いと思うよ」
「……いえ」
言いづらい理由を記録媒体に見たのだろうと思われる平塚の言葉に、横須賀は短い否定で返した。山田に聞かれて困ることではない。記録に残して困ることでは――すでに横須賀は自分でメモを残している。喉につかえる言葉は、一度外に出たものだ。
だから全部、そういう理由とは関係ない。息苦しさに唾を飲み込み、横須賀は右手に持ったペンを左手で摘むようにして指先に力を入れた。
「なんでもない、です」
頭の中に浮かぶのは、新山の襟首。赤い色。自身の罪悪。それらを告白して何になるというのだろうか。罪悪とわかってはいるが、横須賀は自身が罰せられないとわかっている。わかっているのに告白することは、ひどく無意味だ。
そういう自分を知って軽蔑してほしいのかといったら、おそらくそうではない。平塚の真っ直ぐさから、自身のような役立たずの人間ですら許すだろうと思う。犯罪を許すという意味ではない。刑事たちは自身の正義に正直で、そんなことはありえない。けれどもこの罪悪でありながら罪になりきらなかったあの行為を、平塚が悪と断じるようには思えなかった。
平塚とさほど会話したわけではないが、彼女は真っ直ぐと人を見る。そして彼女の解釈でもって受け止めるように思えた。そういう人にこの罪悪を告白することは、ひどくずるいことだとも思う。
まるで許してほしいみたいだ。その許しを乞うべき相手は別であるにも関わらず。
「……無理をさせたかな」
「いえ。お気を遣わせてしまい、申し訳ありません」
「君が謝る必要はないさ」
横須賀が頭を下げると、優しい微苦笑が返る。朗々とした物言いの中に紛れる穏やかさは平時と対照的に静かであるが、それらはいびつというより当たり前の自然さがあった。平塚という人間はそういうものなのだと、わからなくても納得してしまうような自然さ。
だからこそ、伝えてはいけない。自身の罪悪を知られるのが怖いのではなく、罰せられるのが怖いのでもない。ただただ、その告白からなにかを期待している自身の醜悪さに気付いてしまって、伝えていないこと以上に申し訳ない。
居ることを許してもらう以上の身勝手さに、横須賀はため息にならないように気をつけながらゆっくりと細い息を吐いた。
「他には、もう大丈夫でしょうか」
「そうだな、こんなところだろう。私たちが所持している情報と合わせても当事者の言葉は十二分な価値を持つ。もう一度言うが、本当に貴重で感謝しているのだ。有り難う、誇り給え」
誇り給え、という言葉に横須賀は眉を下げて笑うにとどめた。相手の行為に対して無理ですとは流石に言いはしないものの、首肯するには躊躇う言葉だ。横須賀からは随分と遠い単語で、それはどちらかと言うと平塚に見合うものと言えるだろう。
鞄を膝の上に置いて、話すときに確認していたノートを仕舞う。レコーダーを止めようと横須賀は手を伸ばし、しかしかち合った平塚の瞳に少しだけ動きを止めた。
「君は仕事が怖くないか?」
静かな問いに、ぱちり、と横須賀が瞬く。平塚が笑んだ。
「私は怖い」
静かな断定。ぱちぱち、と言葉を咀嚼するように横須賀は瞬きを繰り返す。
「ああでも、少し語弊があるか。刑事としての仕事は誇りを持っているし頼られることが私は好きだ。市民の味方悪を断つ、その力も有していると思う。だから正確に言えば仕事が怖いとはまた別で」
少しだけ早口に平塚が言う。レコーダーに伸ばした手を横須賀は膝の上の鞄に戻した。聞く体制になった横須賀に、平塚が小さく首肯し眉を下げる。
「……お化けとかそういう訳がわからないものが、得意でないんだ。実はホラーが大の苦手でな」
囁くように続けられた言葉に、横須賀は首肯になりきらない半端な首肯を返した。相づちと頷きの中間のような所作をとがめることなく、平塚は息を吐く。
「恐怖はあれど仕事に支障は出さないようにしているつもりだし、今の職場から動きたいとも思っていない。市民に心配をかけることはないだろうし、私は正義のために戦う。誤解しないでほしいが弱音ではない。ただ事実として得手不得手があるだけだ」
平塚の言葉を裏付けるように、その瞳は強い意志を真っ直ぐ見せる。しかし、だからこそ何故その言葉を口にされたのかわからず、横須賀は蛍光灯の光をめいいっぱい取り込む瞳を伺い見た。
「急な言葉で驚かせたな」
平塚が穏やかに笑う。返事に窮した横須賀を見、平塚は両手を組んだ。
「君を不安にさせたいわけではないんだ。ただ色々君から聞くだけではずるいだろう?」
「ずる、い?」
肩を竦めた平塚の言葉を横須賀は戸惑いのまま繰り返した。うん、と平塚が頷く。
「君から情報を搾取することを当たり前とする気はない、という意味もあってだな。私の情報など必要ないかもしれないが、好きに使い給え」
「え」
「君がこのままボイスレコーダーを渡しても、この部分を切り取っても自由ということだ。なに、この程度の弱みなど私はうまく使う」
言葉に、横須賀はボイスレコーダーを見下ろした。山田にこのまま渡す以外考えていなかったし隠すつもりもないが、弱みを教わる理由はない。
善意での協力だと平塚は言ったし、この話について山田は隠す必要がないとしたのだ。制限されたことを聞き出されたわけでもないので、大仰な感謝に加えての言葉はもらうには多すぎるもののように思える。
「なん、で」
「今言ったとおりだよ。君から搾取しないというポーズのためだ。さほど意味のない情報だから、少しだけずるいかな?」
是とも否とも言えない。意味のあるなしを判断するのは横須賀ではなく、山田だ。ただ戸惑いをそのまま見せる横須賀に、平塚はふむと芝居がかった所作で顎を撫でた。
「どう言えばいいかな。……正直、私は山田太郎を好んでいない。アレは何を考えているかわからないし、信用ならない人間だ。グレさん――日暮刑事はあの男を悪く言わないが、どうにもあの身勝手さは好意的に見がたい。故にその部下である君のことも、実を言えば信用しきれない」
ならばなぜ弱みを言うのだろうか。続く言葉を待ちながら口を閉ざす横須賀に、平塚は眉を下げた。
「けれども君自身については、悪い人間ではないとも思う。君が山田の命で道を違えようとも、君の本質は悪く見えない。これは刑事の勘と言うより私個人の感想だから仕事ではそれなりの対応をさせてもらうがな、君は優しい性情がそのまま表面に出ているようだ」
それは違う。否定しようと動いた唇は結局閉じられた。自身の罪悪、身勝手さ。そういったことを論じる場面ではないことは横須賀にもわかる。鞄のチャック部分を握りしめ、横須賀は目を伏せた。
「私が君に誠意を見せれば、君はもしかすると私を頼るかもしれない。そういうずるさでもある。君が気にする必要はない」
笑って平塚は肩を竦めてみせる。横須賀がもう一度顔を上げると、あの歯を見せる笑顔が返ってきた。
「まあ、弱さではあるがそれが私のアキレスという訳でもない。感情は糧にも枷にも成り得よう。私は私の恐怖すら、仕事の糧にすると決めている。……結局私の勝手な満足で、君を困らせてしまったかな」
「いえ、そんなこと」
「はは、有り難う」
慌てた否定に平塚が笑う。そうしてから、よし、と椅子を引いて立ち上がった。
「今日は有り難う。話は仕舞いだ。君が案じた秋君については任せてくれ給え」
「有り難うございます」
礼を言い、鞄のチャックを閉める。平塚がついと扉に視線を向けた。
「君の願いである病院見学だが、その件も含めて日暮刑事に話に行こうか。もし難しかったらすまないが」
「いえ、元々俺が、勝手を言っているので」
椅子から立ち上がった横須賀が、申し訳なさそうに背を丸める。書類を持った平塚が扉に向かう途中で、そんな横須賀の背を軽く叩く。
「好きに言い給え。それに応えられるかはこちらが選ぶ。言うだけはタダだよ」
いたずらっぽく笑う平塚に、横須賀は申し訳なさそうに頭を下げた。