4-13)扉の手前
「元からひとりで行くのは覚悟していたんだ、テメェに聞いただろ。つーかテメェの仕事で時間は減った。……俺がお前を使ったその選択を、否定するのか」
山田の言葉に、横須賀は息を飲み込んだ。否定することなんて出来るわけがない。けれどもすべてを飲み込みきるには、今日はなんだか違った。どこかがひっかかる。喉に突っかかる。いつもと違い着用されるジャケットに、あの日の異物が重なる。
真っ直ぐ伸びる山田の背筋も連なる声も同じなのに、言葉が多くて嚥下しきれない。
「部屋にいないならここにいろ。必要があれば呼ぶ」
「必要になるかもしれないなら」
「邪魔になるリスクと比べて言ってんだ」
山田は断じる。横須賀はそれでも、山田から視線を動かさない。
山田はいつも決まりきった調子が多くて、今も見たところでその心情を写さない。それでも横須賀は見る。ざらりとした違和感の正体を見つけられないのに、縋ることも出来ないのに。
「問答の時間が惜しい。テメェは俺に従えばいいんだ。馬鹿が考えたって邪魔だ」
「……従い、ます」
横須賀が呟いた。その言葉に、山田が唇の端を歪め、笑う。
「ならそこにいろ」
「従います、から、教えてください」
喘ぐように、それでもはっきり横須賀は吐き出した。対する山田の眉間に皺が寄り、横須賀の小さな黒目がそれをはっきりと映す。
「山田さんの考えは、俺と違ってすごい、です。だから、なにが邪魔で、必要になるときはなにか、教えて、ください。俺はわからない、から」
鞄の紐を握る手は白い。縋るには足りず、しかし渇望するような声はとうとつと落ちる。
一番最初、部屋に居ろと言い切らなかった山田の思考を横須賀は理解しない。そのあとの命令よりも、なぜかあのまるまってしまった聞こえなかった音が、ひっかかった。それでも横須賀は、なにをすればいいのかわからない。だから。
「お願いです。使って、ください」
だから横須賀は、ただいつもの言葉を口にした。
そう、いつもの言葉だ。先から山田も横須賀も、どれもこれも特別なことはしていない。ただ山田の言葉が多くて、横須賀は動けなかった。それだけだ。
ややあって、山田が息を吐く。
「孫が死んでいるのは事実で、なら部屋にいるのは何だ、っていう話だ。孫という形をしているのか、どうか」
静かな声は、その吐き出すリズムにゆるゆると従うようだった。横須賀は鞄の紐を握りながら、相変わらず見えない山田の瞳をそのままに眺める。
吐き出す言葉と動く唇は静かで、しかし時々眉間の皺がひくりと動く。少し神経質を思わせるその意味を、横須賀は想像できない。
山田が唇を一度噛み、それから横須賀を見上げた。
「おそらくあんまり見ていいもんじゃネェ。何度も言うが、おかしくなっちまうような人間を抱える気はねぇんだ。邪魔になる」
「わかって、いれば」
静かな宣告に、横須賀がつっかえながら声を絞り出す。しかし山田は、短くため息をついてそれを遮った。
「わかっていてどうにか耐えられりゃとっくに言ってる。平気かどうかはコインを投げないとわかんねーもんなんだ」
ため息と同じような調子の声は、少し山田らしくない。胸のあたりで握っていた手を、紐の流れに従いながら少し腹の辺りまで下げる。落ち着かない心地で指を擦るが、手のひらはざわついていた。
「必要、は」
「さっき言ったように色薬がらみなら孫だろうが無かろうがあそこにいるモンがそうなる可能性が高い。秋山がなる可能性もあるが、洞親子の話からは多分そいつがキーだ。秋山とそいつをあわせてそうなる、はあるかもだがな。秋山のみは重ねにくい民話だ。アレがヤバイ一番の原因だろう。なにもんであれ、ここに置いとく道理はない。秋山が出掛けたのがただの呼び出しならまだいいが、もしかすると今日やるため、かもしれねぇんだ」
確認だけで終えるにはリスクが高すぎんだよ、という山田の呟きに横須賀は頷く。死んだ孫と考えると混乱してしまうが、もし本当に人なら、と考えてしまう。考えれば考えてしまった分だけ、それが恐ろしいものだという実感が横須賀の肺を狭める。
「ここから連れ出すに説得するが、なにかあったらテメェの図体で運んでもらう必要がある。それが必要になるときだ。わかったら部屋に居ろ」
面倒くさそうに山田が手で追い払う。下がりきった手が、鞄の上で布地を撫でた。
山田の言葉ははっきりとしている。横須賀の問いに対しての回答には十分だろう。けれども横須賀は、まだ動かない。
「他に、は」
山田の眉間に皺が寄る。それは大げさにしかめられたもので、横須賀に示すものだ。
だから、横須賀は言葉を続けた。
「俺が変になっちゃわなければ、部屋に行くとき、なにか。できること」
「……わかってようがおかしくなるときはおかしくなる。俺が“そう”なったときに、ぶん殴って止める奴がいるのは、便利だ」
ようやっと山田が吐き出した言葉を横須賀は指先でなぞった。殴って止める。そんな状況、正直想像なんて出来なかった。
それでも山田の言葉は、これまでの中で一番横須賀の内側に飲み込める物だった。
「行きます」
山田が足を一度打ち鳴らす。おそらく、二秒にも満たなかった。響いた音に返るものはなにも無い。
「部屋を覗くのは俺だ。そもそも開けるかどうか、だがな。テメェは見るな」
いつもとあべこべの言葉が、何故かしっくりきた。とんとんと足を鳴らしながら、山田が奥の扉に近づく。
誰がいるかわからないのに存在を伝えるような所作は少し不思議で、けれどもその先にいるのがもし孫なのだとしたら何故か納得できるものでもあった。
山田の手が、ドアノブに触れる。回すと言うには握るに足りず、そのまま大きくない手がノブを一度撫でた。そこからす、と指先が扉に触れる。最初に触れたのが中指で、そのまま人差し指、薬指。親指が触れて手のひらが触れきる前に返る。そうして軽く握った拳が少し押すように傾くと、こんこんこん、と三度音を鳴らした。
扉の内側から音はしない。見ただけでは扉の厚みはわからないが、ごく普通に見えた。鍵穴が見えるが、山田が回していないので鍵がかかっているかはわからない。床は少し黒ずんでいた。他は綺麗なのに、ここだけ水で湿ったような跡がある。
「
山田があの、優しい穏やかな声を落とした。扉に染みるように、打ち付けたままの拳にその顔が近づいている。扉は中開きだ。なんとなく落ち着かない心地になるが、それでも横須賀はその優しい声を遮らない。それは、横須賀にとって触れてはいけないものだ。
山田がどう言おうと、こんなに優しい語りかける声を横須賀は知らないのだから。
「君がもし直臣くんなら、扉を開けて欲しい」
返事は無い。いつ扉が開くかわからないので、横須賀は扉を注視するのを止めた。
山田の表情はじっと見ても横目でも相変わらずわからず、それでも声だけはシュウくんに掛けていた時と同じ声だ。その表情とあべこべで、浮いていて、でも耳に優しく馴染む声。
「おばあさんは出掛けている。もし君が拒否をするならこちらは何も出来ないだろう。ただ、泊まっていくだけだ。……もしかすると君はいくつかこちらの話を聞いたかも知れない。聞いていないかも知れない。どちらにせよ、言えることはさほど多くない」
山田が扉に置いたままだった拳をゆっくりと下ろす。木目をなぞるように音が滑った。そうしてまた、ドアノブの上で止まる。
「ここにいるのは直臣くん、客である男二人。内一人は背が高いものの暴力とは無縁な男で、もう一人は暴力どころか背も小さい。もしかすると君より小さいかも知れないね。いくつかのことを、小さい方は知っている。大きい方はほとんど知らない。小さい方――まあ、それは私なんだけれど。私はわかってきているし、もし君が直臣くんであるのなら、ある程度予想できている。君が直臣くんで無ければ少し事情が変わってくるが」
そこで山田は言葉を切った。扉の向こうに届くかわからない、伝えるための大げさな溜息。
「幼い君に選択させるのも酷かも知れないが、しかし君はもう十五だろう。君の頭が思考に耐えうると期待させて貰う。だから、私は今君に話しかけている。――なあ、直臣くん」
とん、と指先がノブを叩いた。カチャン。金属の音が響く。
「おばあさんは今外に行った。突然ね。私たちは君が見てきた利用客と違うが、同じ結果にならないともわからない。私たちは宿泊だけで終えるつもりだけれども、君の力になりたくないわけでは無いんだ」
だから。そう続いた言葉は、それまでの穏やかさよりほんの少し暗かった。
「私は知っている。君は、どうする」
カチ、チャリ。
扉の向こうから響いた音に、山田が口角を持ち上げたのが横目に見えた。