台詞の空行

第三話 めぐり

3-1)花田市若草

 雨の匂いが残っているとはいえ、朝もやも和らいだ午前六時五十七分。意識するのはぬかるみ程度で、茂る木々は広い道において邪魔にはなるほどではない。

 タイヤの跡は、軽トラックのものだろう。タイヤの形状から推測したわけではなく、終点に軽トラックがあった。ただそれだけの当たり前の推論だ。二台分ほど離れた位置に横須賀たちが停めた軽自動車も、途中まではその跡の上にかぶる形で足跡を残している。

 トラックの跡を踏むようにして歩いていた山田が、畑の途切れる手前でくるりと振り返った。黒い革靴が泥に汚れている。横須賀の薄汚れた白い運動靴と違い普段は綺麗な革靴も、この土の前ではどうしようもない。そういうものだろう。

 山田が振り返った理由を、横須賀は知らない。顔を上げても、当たり前のように視線はかち合わなかった。真っすぐ前を向く山田の視線は、後ろを向いているのにた。下を向かない山田の見ているものはわからないが、視線がかち合わないことだけはわかる。その顔の向いた場所を追うように遅れて振り返った横須賀は、しかしなにもわからず結局問うように山田の顔に視線を戻した。とはいえ、山田のサングラスは暗く、相変わらず顔の向き以上の情報を示さない。

 山田は横須賀の視線になにか答えることもなく、ざくざくと歩き出す。振り返ったのではない、方向転換だ。そう悟った横須賀は、自分を追い越す背に慌てて足を動かす。

「えっと、こっち、ですか?」

「依頼人のとこまで歩く」

「あ、はい」

 返ったのは端的な指示だ。振り返る前に進んでいたのは車で来た道だから、そちらに行かないのは道理だろう。もしあのまま進んでいれば、車で来た道をわざわざ徒歩で戻ることになる。

 ということは、なんらかの確認をしたのだろうか。つい横須賀は自分たちが乗ってきた車を振り返ったが、確認しているうちに山田が進んでしまうのはわかっていたので戻りまではしない。荷物を下ろした様子はないし、見るだけでは特に変わりがないように思えた。

 そもそも、山田の荷物はトランクに置いてあるキャリーケースくらいだ。その中身も、「予備の服を入れたままにしておくだけ」と、軽自動車が届いたときに入れてそのままのもので、今回の為の物ではない。さほど気にしても意味ないだろう。止まってしまった分歩幅を広めにとって、横須賀は山田の後を追った。身長差もあり、歩幅はすぐ緩まる。

 空、畑、電柱、まばらな家。よくある風景だが、一つだけ物珍しい物がある。――いや、一つだけ、というと少しばかり正確ではない。正しくは、一種類。青い提灯が家の周りに飾られている。祭りだろうか。基本的に横須賀は行事に疎いので今日が祭りの日かどうかは調べなければわからないが、提灯というものに祭りの印象を持つ程度の知識はあった。とはいえ見慣れぬ青提灯は、いささか不思議な新鮮さを横須賀に与える。

「なにかあったか」

 前方から声をかけられ、横須賀はびくりと肩を跳ねさせた。一度だけ振り返った山田は答えを得る前に姿勢を元に戻す。振り返り横須賀を見て声をかけた、というよりも、声をかけるためだけに振り返ったような所作に、横須賀は首後ろに手を当て眉を下げた。

「青い提灯、はじめて見て。おうちに飾るんですね」

 横須賀にとって遠いものだが、提灯というものは屋台などと一緒に飾る印象が強く新鮮な心地も含めて言葉にする。家の門構えの前にポールのような物を左右に立て、まるでしめ縄のようにつなぎ三連下げる様は提灯の色も含めてはじめて見るものだった。

門提灯かどちょうちんとは違うな。ここの特徴だろう」

「かどちょうちん」

「先祖が帰ってくるための目印に使われるやつだ。盆の時期に見るだろ」

 あったようななかったような。うろ覚えの記憶になんとも返事ができない横須賀は、しかし首を傾げた。

「門提灯じゃない、って、えっと、」

「デザインが違うってのが単純な理由だ。そもそも、たとえ新盆だとしても時期が過ぎてんだろ」

 当たり前のように言われて、横須賀はとりあえずというように口角を持ちあげた。新盆の正確な日付を覚えていないので、笑みを浮かべるしかない。山田が言うのならそうだろう、くらいの理解だ。七月と八月にあった気がする、それも中頃に。程度のあいまいな記憶は、とりあえず今日、二十日は過ぎた後であるのは確かだ、という認識に変化する。

「今のトコは気にする必要はネェよ。だいたい同じデザインだろうが、もし変わったもんがあれば教えろ、くらいか。とはいえ見に行くほどでもネェし、見えなくてもいい。気づいたら程度で注視は要らねぇ」

「わかりました」

 とりあえず見える範囲では、提灯に違いはわからない。そもそも家が密集しているような住宅街ではないので比べづらいのもあるが、それでも遠目では模様などは見分けられないし、もしわかれば構造から違っていた場合だろう。頷いた横須賀に、山田はふんと鼻を鳴らした。

「お前は見るのが仕事だ。とはいえ、全部常に見ろと言うつもりもない。疑問があったら都度聞け、不要なもんはこっちで選ぶ。考えるのは俺の仕事だ」

「はい」

「とはいえ、人がいるところでは控えろ。俺が聞いたらいいが、テメェの判断は止めておけ」

「わかりました」

 横須賀は素直に再度頷くと、あたりを見渡した。ところどころ水たまりが残ってはいるが、それは元々くぼんでいた部分に貯まってしまった故に残った程度だろう。全体的には泥が残っているくらいで、水浸しというわけではない。畑にはトウモロコシの葉が茂っている。

 見渡しても獣害から守るためのネットや案山子は見当たらず、シンプルな畑だ。来る途中の畑ではたしかネットが掛けられいたし、キラキラと反射する円盤もあった。畑により違いが様々あるのだろう。横須賀自身は畑仕事をしたことはないのでわからないが、光景自体はよく見た記憶にあるものだ。愛知に来てからはこういった場所に来たことがないのでしばらくぶりにはなるが、ぼんやりと、あったな、と思える程度のものはある。

 とはいえ、この土地自体は初めての場所だ。花田市若草。初めてきたどころか名前も初めて知ったような、いやどこかで聞いたことがあるような程度のうろ覚え。とはいえ、今住んでいる市内でも知らない場所がばかりなので横須賀の知識の薄さはだいぶ問題かもしれないが――山田が調べろと言わないのだから、横須賀は特に気にしなかった。

 そうしてやや歩いた先で、ふと横須賀は「あ」と呟いた。

「提灯がないところがありますね」

 道が泥から砂利に変わって暫くした頃だろうか。薄もやも少しずつ晴れた午前七時十二分。明確な違いを見せた家を横須賀は見やった。進行方向のその家は、他の家と違い青提灯が飾られていない。

「……なるほどな」

 一度立ち止まった山田の言葉の理由はわからない。しかし山田にとってはなんらかの納得があるのだろうと考え、横須賀はもう一度その家を見た。

 玄関の近く、雨の跡が残る乗用車の隣のスペースには花壇があり、水道もある。水道の傍にはホース。花壇にはスコップが差し込まれている。スコップはシンプルな赤い金属のものが二つと、それよりも少し小振りな黄色取っ手のものが一つ。まだ雨露の残る黄色とオレンジの小降りの花が花壇を彩っている。

 奥には小さな自転車が一台。汚れた様子は見えず、その更に奥には小さな物置小屋。全体を見渡した横須賀は、玄関の表札を見て瞬いた。

 代田よだ。来る前に聞いた、依頼人の名字と同じだ。