2-9)日暮と平塚
ぐぬぬ、とわかりやすく唸る平塚と、あくまで笑みを浮かべたまま崩すことのない山田を見比べる。しかし見比べたところで止めるべきかどうかもわからないまま、横須賀は黙ったままの日暮に視線を移し――その無機質な双眸と目が合った。
視線が逃げそうになるのをなんとか日暮にとどめる。目が合ったと言っても睨まれているとかそういうものでは無いようだった。縁の太い眼鏡の奥の瞳は、じっと横須賀を写しているが、写しているだけ、にも見える。
山田が言っていた凡庸なロボット、という言葉が浮かぶ。カメラが物体を写すように、日暮は抑揚のない声と同じような視線で横須賀を見ている。横須賀は見られること自体にそもそも馴染みがないが、なんだか不可思議な心地で日暮を見返した。
改めて日暮をきちんと見る。平塚の眉は凛々しいというのが相応しいような形をしていたが、日暮は本当に普通、というのが見合っていた。横須賀のように下がった気の弱い形でもなく、かといって主張が強いわけでもない。その下、眼鏡の奥の瞳は真っ黒だ。睫は少し短く、瞳に影をあまり落とすこともない。カメラのレンズのように光を取り込んで黒に変えてしまうような瞳は、山田が言うように感情を読みとりづらいものがある。少し下瞼のあたりにたるみがあるが、年齢からしてそこまで違和感のあるものではないだろう。むしろ会話や視線が動く度、下瞼がなにも動かず瞬きくらいしか見て取れない方が違和感なようにも思える。
首は体躯に見合ってがっしりしている。喉仏や首の骨のラインが少し浮き出て見え、きっちりと閉められた襟元には濃紺のネクタイ。スーツ自体は少しくたびれているようだが、体に馴染んでいると言って問題ない程度だろう。
そうやって眺めていると、ふと、日暮の視線が横須賀から外れた。どうしたのかと視線を追いかれば、日暮が山田の方に向き直ったのがわかる。
「彼は相棒か」
のっぺりした問いかけに、山田が日暮を見、横須賀を見る。相棒、という言葉に落ち着かない心地で横須賀は鞄の紐を握った。
「ああ、まあそんなところです。使い勝手は悪くない奴ですよ」
山田の言葉に倣うようにして横須賀が頭を下げる。名前を、と思い口を開こうとした横須賀は、しかし横須賀の方を再度向いた日暮に言葉のタイミングを失う。
改めて頭の先から足の先まで横須賀を眺めた日暮は、山田をもう一度見下ろして浅く頷いた。
「どうしたんですグレさん」
「いや」
平塚の言葉に、短い否定が返る。横須賀と山田のような身長差はないものの、横須賀の猫背と違い通った背筋が日暮の背丈と山田の背丈の違いを強調するようだった。
三十センチ近く身長が違うのにそれでも飲まれないのは山田の強さだろう。二人の様子を見守っていると、日暮は特に感情を含ませることなくパカリと口を開いた。
「随分愛らしくなったな山田」
「相対物で大きさが違って見えるから出世しないんですよ刑事さん」
日暮の抑揚のない言葉に、ぶ、と平塚が思わずと言った様子で噴き出す。山田の声は日暮に合わせるように平坦だったが、しかし呆れた調子も含んでいた。
あいらしい、という言葉を復唱し、横須賀は山田を見下ろす。愛らしくなったというのなら以前と違うところがあるということだろう。横須賀は以前を知らない。山田を観察するように見下ろす横須賀を見て、山田の眉間に皺が寄った。
「……まさか真に受けてはいないだろうが、そこの男は真顔でふざけたことぬかしやがるから無駄なこと考えるんじゃネェぞ」
「俺は必要のない嘘は付かないぞ」
「冗談は嘘に入りませんってか。付き合ってらんネェな」
は、と大げさに山田が息を吐く。ため息というにはいささか乱暴なそれに、日暮は表情を変えない。平塚だけが口元を覆って肩を震わせている。
「いや、確かにグレさんの言うとおり、幾分か小さく見えはしますね……にしても相棒。山田に相棒ですか」
くつくつと平塚が笑い、それから改めて横須賀を見る。笑いで少し紅潮した頬は、その整った顔立ちに愛嬌を見せるようだった。平塚の発言を受け、山田が言った相対、という言葉を横須賀はもう一度なぞる。そこまで考えてようやく、ああ、自身と並んだからか、とまで理解し、横須賀はゆるりと困った顔で微笑んだ。
「横須賀一、と申します。山田さんの事務所で事務員をさせていただいてます、よろしくお願いします」
今更ではあったが視線を受けて横須賀が名乗ると、平塚は少し目を見張るように見開いた。日暮は先ほどの観察で満足したのか、平塚のように横須賀を見ることはない。ただ全体を眺めるようにそこにあるだけだ。
挨拶以外にすることはない。さてどうするのかと横須賀が山田に視線を移すと――唐突に、平塚が大股に近づいてきた。自分よりも小さいものの伸びた背筋とまっすぐ踏み出された足に思わず道を開けそうになりながらも、自身を見据えていることからぎりぎり横須賀はそれを踏みとどまる。
「ヨコスカハジメ君、か」
「は、はい」
細くて長い指先が、横須賀の両腕を掴む。おそらく加減はされているだろうががっしりと捕まれた腕は少し強ばった。自身よりだいぶ握力が強いのだろう、と横須賀は見当をつけながら、爛々とした瞳がまっすぐと自身を見上げるのを、猫背で見下ろす。
「事務員と言うが、顔色が悪い。こき使われているのなら正直に言い給え。君はまだ年若いだろう。職など溢れている」
「い、え、勤務時間は普通、です」
経験の少なさから付きそうになる多分という言葉を、ぎりぎり横須賀は飲み込んだ。
最近しばし顔色を心配されることが急に増えたが横須賀のクマは元々だし、残念ながら職が溢れていないので横須賀にとって今の仕事は貴重なものでもあった。当初は探偵事務所ということに怯みはしたものの、事務所内で行う書類の整理は横須賀にとって好きな作業であったし、調べ物を任されること、使われることは横須賀にとって好ましいことでもある。そもそも対外的には事務員と答えるが、当初山田が言っていた資料係という言葉が今の仕事には一番見合っている。そして資料係としての仕事を横須賀は有り難いさいわいとして受け止めていた。
それでもこうやって他人に心配をかけてしまうのは、自身のこの外見と本質的な頼りなさからだろう。自身の考えに横須賀は猫背を更に丸めた。見下ろす先の平塚は、はあ、と静かにため息を付いて横須賀に顔を寄せる。
「怯えずとも大丈夫だ。私は市民の味方であり続ける。……ただ君が図らずとも悪行に関わる事にならないかと不安なのだ。警察は常に善良な市民の味方だ。何かあれば必ず私たちにだな」
「市民の味方の割に、小市民である私については散々言いやがりますよね刑事さん」
声を潜める平塚の後ろで、山田が素っ気なく言葉を投げる。ぎくり、と肩を強ばらせた平塚の手に力が入り、横須賀の腕が痛む。もう一度吐き出された息はさきほどの静かなため息とは違い、深呼吸のようにゆっくりと長いものだった。
伏せられた睫と、流れる髪が息にそって平塚の顔に影を落とす。腕に熱が伝わりそうなほど強く握りしめられていたが、しかし平塚の手は布越しでも冷たいのがわかった。手が離れると、じりじりとした痛みがようやく熱を訴える。
「免許証も保険証もなにも身分を証明するのが名刺のみ。どこからどう考えても偽名の人間が小市民もなにもあるか!」
髪を掻き揚げビシリと山田を指さす平塚は、刑事と言うより役者に見えるほどだ。芝居がかった口調が台本かなにかを思わせるのもある。綺麗に伸びた指先などは日常生活なのに全身に糸を張っているようで、凄いなあと横須賀は観客のように眺めてしまう。
先ほど捕まれた腕をそろりと撫でれば掴まれていた感触はまだそこにあり、山田を見据える平塚と腕の痺れは同一のようでどこか奇妙なちぐはぐさがあった。