台詞の空行

十年後

22. 貴方の未来に、

 * * *

 なにも、変わっていない。卒業して進路を別としても、こうして社会人になっても。変わっていない、と思えてしまえるくらいに、心地よい時間だけが重なっている。

 涼香たちという理由がなくなっても、一年に一度会う程度の交友は続いた。涼香と会う方が多いし、連絡だってそうだ。

 実際に会う時とあとは誕生日のメッセージだけで普段はいっさい連絡を取り合わない関係。それでもふと、そういう機会を重ねてきた。光介からの言葉だったり、亜樹からだったり、どちらとも相手に問題がないか問いを重ねた上で、ただ、コーヒーを挟んだ穏やかな時間を楽しんでいるだけのもの。

 当時の気持ちが今も光介にあるのか、亜樹は知らない。亜樹は、相も変わらず面倒で優しい光介との時間を好んでいる。ただそれだけで、なにも変わらない。

「仕事、辞めるつもりなんだ」

 運ばれたコーヒーに口を付ける前に、光介がぽつりと落とした。目を見開いた亜樹は、言葉と光介を理解しようとするようにぱちりぱちりと二度瞬く。

「なにかありました?」

 空いた間に疑問を差し込んで、亜樹は続きを促した。頷いてしまっても良かっただろうが、聞かれたくないというような神妙さではない。

 どちらかというと、決意の表明。正しいかどうかわからなかったが、聞かれたくなければそういう言葉を返すだろうと亜樹は判断した。案の定、光介は静かに頷いた。

「色々あって、伯父さんが引っ越すんだ。そっちで友人と店をやるらしくて、こっちは畳むんだけど――せっかくだから俺にどうだ、って」

「ああ」

 光介の言葉に、亜樹は目を細めた。三十半ば頃までに資金を貯めて喫茶店を開きたい、といっていたのは知っている。お互い、今年で二十八。予定より早いが、準備を続けていた光介を思えばさほど心配にならない。

「お受けするんですね」

「……あの店が、好きだし。店を引き継ぐんじゃなくてお前が好きに作れと言われたから、多少変えるのはあるけど。常連さんとかはやっぱ伯父さんの店って思うだろうし、俺もあの店を全部変えたくなくて。それで、伯父さんが向こうに行く前に修行期間含めて、早めに」

 ぽつぽつと落とす言葉に亜樹は頷いた。大学時代に、光介が伯父の店でアルバイトをしていたのも見ている。コーヒーも、入れてもらった。おいしかったと思う。よくわからないなりに、好きだと思ったことは覚えている。

 あの当時はまだ違いを違い、としかわからなかった。本当に少しずつ増えた違うのだという認識はそれだけだったので、相も変わらずおいしいしか言えなかったはずである。

 けれど、今飲めばまた違うだろうか。おいしい、という言葉はやはり変わらないと思うが、その中にいくつか、見つけられる言葉は増えたと思う。家では緑茶ばかりを飲むのに、ふとしたときの選択は、積み重なってここにある。


 光介と会う度、二人で行ったことのない喫茶店を選んでいる。光介は別の場所も、というが、亜樹自身が選びたいと思っていた。光介と会わずとも、コーヒーはいつも光介の姿を運ぶ。一人でふらりと店に入ることも増えたと言ったとき、光介は嬉しそうだった。

 だからおそらく、今度はもっと言葉を重ねられる。そう考えると、楽しみにも思えた。どの喫茶店を見ても、どことなくあの店が残っているのだ。一番最初の喫茶店ではなく、光介が好んだ、あの喫茶店が。

 その場所に伯父夫婦がいないことは、光介にとって寂しいことかも知れないが。瞼を閉じて過去を追えば、未来の光介がそこに立つ姿が浮かんで、それはなんとなしに馴染んでいて――

「緑静?」

 少しいぶかしむような光介の言葉に、亜樹は答えなかった。顔半分、口元を覆った右手を、そのままずるずると瞼まで運ぶ。光介は黙っているが、おそらく不可思議に思っているだろう。

 机についてしまっていた肘を離すように、亜樹は椅子に背を預けた。息を静かに吐き出す。足りなくなった酸素を取り込むのと併せて、右手を下ろす。

 目を開ければ、予想通りと言うべきか光介は不思議そうに亜樹を見ていた。

「喫茶店、」

 かけるべき言葉は、成功を祈ります。きっとうまくいきます。ようやくですね。楽しみにしています。その時は呼んでください。そういう言葉たちだろう。下ろした右手を左手と組み合わせて、亜樹は静かに呼吸を一つ、繰り返した。

 言葉にしない、という選択肢は、亜樹にはない。

「……僕も、手伝えますかね」

 不思議そうに、光介が瞬く。言葉が足りない。口下手なつもりはないんだけどな、と、亜樹は自身の端的さに眉を下げた。零れたのは苦笑だ。そうしてつい漏れた音を引っ込めて、改めて光介を見る。

「あの店で朽木さんがマスターとして働く姿、目に浮かんだんです。似合ってる、と思いました。あの店の空気が好きで……そこに、僕も立っている姿が、勝手に浮かんでしまって。本当勝手で、突然なんですが――僕も一緒に、ありたい、と思ってしまって」

 ゆっくりと、光介の瞳が見開かれた。その表情を作る感情が、思考がどういうものかはわからない。当時の感情を今も持っているのかどうか亜樹には知る術がないのだ。だってあれから十年だ。十年、重ねたのは恋慕ではない。

 過ごした日々はあくまで友情と言えるだろうもので、だから、これは不要なものなのかもしれない。

 けれどもあの日伝えた光介の言葉と、重ねた時間と、落としてしまった誠意の欠片にでも亜樹が向き合うためには、告げなくて良いかも知れない、ではなく、告げなければならないものだ。そうでありたいという亜樹の身勝手な気持ちを叶えるためには、告げる、という選択しかないもの。

「朽木さんが、今もあの時と同じ気持ちなら。そばにいたい。……もし他の人が傍にいれば、多分僕はそこに立たず、友達として応援できます。嫉妬、は、よくわからないんです。僕がそこにいれば、と思いましたが、朽木さんが一人でも、別の人と一緒でも、僕は朽木さんの選択を肯定します。喜べる。だから、世間一般からは少しずれてしまう、かもしれない。でも」

 光介の目尻が、じわじわと赤くなる。しかめた眉は険しく、握られた拳はきっと固いだろうことは分かった。

「誰かの未来に自分がいれば、なんて身勝手な光景に眩しさを感じることは、僕にとっての恋です。――貴方が好きです、朽木光介さん」

 頭を下げる。いち、に、さん。数えながら呼吸を静かに吐き出して、亜樹は頭を上げた。目尻だけでなく赤くなった顔を押さえた光介の手は、震えている。


 答えはなんでもいい。そう思えてしまうのは、やはり一般論とずれているだろうか。光介が誰かと結婚しても、一人で居ても、光介の未来が明るいことを亜樹は素直に喜べてしまう。答えを求めなかった光介の気持ちは結局真にわからないままだったけれども、おそらくそれとは違う部分で、亜樹は答えを、なんでもいい、と思えてしまっている。それは投げやりにも見えるかも知れない。

 けれども、人によって違っていることを教えてくれたのは光介だ。ならば亜樹にとっての答えは、これでいい。ようやく形を持った感情、それだけでいい。投げやりではない。なんでもいいけれども、どうでもいい、わけではない。この気持ちが、亜樹の答えだ。今更すぎる、ようやくみつけたもの。ようやく、浮かんだもの。

 だから、ただ光介の言葉を待つ。光介の手は、ゆっくりと下りた。それから亜樹を見る瞳は相変わらず静かで、眉間に寄った皺は深くて。

 熱を吐き出すように、二度の呼吸。


 はく、と動いた唇は、しかし音にならなかった。もう一度、光介の手が持ち上がる。今度は指の甲で口元を押さえるようにした光介は、少し俯いてしまった。

 硬い表情に、亜樹はなにかできるものを持たない。心地よさを貰ってばかりだった。自身がしていることは過去に向けた今更あの誠意に応えようとするものでしかないかも知れない。今の光介にとって、重荷にならなければ、とも思う。

 それでも、光介に伝えた。その先は、光介のものだ。

 照信が大学で恋人を作って涼香とは友人として過ごしているように、想いが別の形で馴染むことも知っている。だからそれでもいい。光介や照信が当時想ったように、亜樹も想いながら、友愛を重ねるだけだ。謝罪も、光介の答えをこちらで促すのも、違う。求められたら行うけれども、それでも選ぶのは、光介で。

「……有り難う」

 低い声は、絞り出すような音だった。今更な言葉に礼を言うのが光介らしくて、亜樹は笑んだ。

 好きだ、と思う。

 気持ちを、捨てない。気持ちを、否定しない。誠実に向き合う。自分には難しく思えることを、丁寧に成す光介が好きだ。

 おそらくそれは友愛で、そうしてその言葉の近くに居られたらと想う気持ちは、亜樹にとっての恋慕だ。じんわりと広がるものが、今更な実感が少しくすぐったい。

 本当に今更。理解しない亜樹に求めず、それでも続く関係を選んだ当時の光介の言葉が滲みる。それでいて、今亜樹が見ているのは目の前の光介だ。

 不可思議な気持ちは、ほんの少し亜樹の手から浮いている。ふわふわとしたそれは、ただそれだけで面白くて。

 光介の手が再び下りて、背筋が伸びる。それを合図に亜樹も背筋を伸ばした。いかめしい表情と固い態度は光介の誠意だ。

 好きだ。その時にふさわしい言葉も気持ちも得られなかったけれども、今、その感情を光介に向けられることが嬉しい。そうして同じものでなかったとしても、見てきた時間が、重ねられた時間が、そういう友人関係もありえること教えてくれている。

 恵まれた。恵んで貰った。だから、亜樹は言葉を待てる。光介の瞳は、相変わらずで。

 ああ、でも。少し揺れて、黒は濡れて。硬い表情と、ぎゅっとさがった口角と。

「昔俺の気持ちは、言ったけど。俺は、……俺も。緑静亜樹のことが――」

 目尻だけでなく赤くなった色は、少し震える声の熱を伝えるようだった。じんわりと、なにかが肺を湿る。

 目の前で零れた塩気につられるように、亜樹は穏やかに笑った。


 貴方が、好きです。