台詞の空行

5. 言い訳

 * * *

 亜樹への評価で時折ある丁寧やマメという言葉は、亜樹の本質をついたものではないと亜樹は考えている。人の顔と名前を覚えるのは得意だから、話しかける時は名前を添える。どうでもいいからこそ波風を立てないように、自分が動いて解決することはさっさとやってしまう。それはただの習性なだけで、どちらかと言うと横着や大ざっぱが亜樹には似合っている。そういう自認は、涼香の肯定でもわかりやすい。

 だからこそ目の前の段ボールは当然の結果だ。下手に往復するよりもまとめて動く方が楽だし、他人に頼むのは面倒くさい。元来一人で動く方が楽だし、という内心は、亜樹にしては珍しく言い訳じみているだろう。

 姿もないし、問題ない。そこまで考えて亜樹は、微苦笑のため息をこぼした。


 観念した、とでも言えるだろうか。

「朽木さん」

 重ねた段ボールでも、亜樹の上背では視界は開けている。見えてしまった人影は、亜樹を見つけると早足になった。そして今回は、名前を呼ばれても足を止めなかった。

 その場で待つのが、朽木ではなく亜樹であることは仕方ない。繰り返していた言い訳は、結局亜樹から近づくことも躊躇わせた。

「持つ」

「有り難うございます、お願いします」

 横目で亜樹を見下ろす視線がなにを示しているのか、相変わらず亜樹は想像するつもりなどない。笑顔で返せばすぐに前方に向くその目は、口と同じく語ることは少ない。けれども、口と同じく言葉少ないなにかを示す。

「物は軽いんですけど、かさばりますよね世界史は」

 心内でなした言葉よりもはっきりとした言い訳だ。元々亜樹は力がある方だし、そういった作業は一人でするのを好んでいる。けれども他人がそうしていたら力を貸すだろう。当番が片方休みなら、余計声をかける。

 光介もそういう人物なのだ。おそらく亜樹よりもよほど繊細に、気にする人。ならばその要求を断ることは亜樹の勝手になってしまう。涼香が同じクラスだったら手伝ってもらって早かっただろうが、一年の時とは違う割り振りを嘆くのも無駄だ。

「有り難うございます」

 段ボールを片手で抱え持ち準備室の扉を開けた光介は、入るのを促すように立ち止まったままだ。形だけの会釈をして、一歩踏み込む。

 三階の中でも移動教室側である準備室は、人の出入りが少ない故に埃っぽい。少し独特な空気と言えるが、かといってたかがしまうだけなのに一々換気する人間も稀だろう。

「その段ボールはこちらです」

 一度自分の持っていた段ボールを床に置くと、亜樹は光介に手を差し出した。無言で渡された箱の中を確認する。丁度一組が授業で使ったのをそのまま運ばれた物なので取り出した元の場所、というのがわかるわけではないが、基本的にテープが貼ってあるので間違えることはない。それに、亜樹自身はテープを見ずともわかる。

 亜樹の足下にある箱は元々先ほどの授業に特化したもので、ちょっとしたエンターテイメントじみた部分があるからほとんどは箱のままでいい。だから分類が必要なのは光介の方で、受け取った箱から小物を取り出そうとし――動かない光介に亜樹は微笑した。

「もう大丈夫です。有り難うございます」

 手持ち無沙汰なのにいても居心地が悪いだろう。そういう内心で礼を言えば、光介が足下の段ボールをみた。それから亜樹を見て、もごりと口元を動かす。

「物が多いときくらい、手伝う」

「はい、またお願いします」

 手伝ってもらえ、と言われなかったことに内心安堵して、亜樹は頷いた。別に光介に対して義理立てする必要はないのだが、どうにも亜樹の中で光介はある一片の正しさがある。

 無難に適当にのらりくらり。そうやっているはずなのに、それがまるでそうじゃないんだ、というような態度は、波風を立てないには足りないと言われているようなのだ。

 会話が終わった、と思うのに光介が立ち去らない。手だけは動かしている亜樹は、不思議そうに光介を見上げた。

 光介の眉間に皺が寄る。

「……気づかなくて、悪かった」

 静かで神妙な声に、亜樹はぱちり、と瞬いた。それからつい、というように笑みをこぼす。バカにしたわけではない。けれども余りに間の抜けた心地がそのまま音にならなかったのは、ぎりぎりの幸いだろう。

 確かに、当番が休みであることを同じクラスなら知っている。それでも亜樹が頼まれるかどうかなんてわからないし、光介と亜樹は気づかなくても当たり前な程度の親しさだ。親しい、というかどうかもわからない。友人の友人。亜樹は光介を理解しないし、光介はややこしいくらいに人がいいだけのもの。関係、というにもあっさりとしたものをそれでも神妙に謝罪する光介は、やはり光介、という人なのだろう。

「いーえ。見つけてくれたじゃないですか」

 だから、亜樹はくすくすと笑って答える形を選んだ。光介が気にする義理はない、と言ってしまうのは光介の眉間に皺を増やすだけだということくらいはわかる。それでも言葉にしない内心は、小さな呆れだ。そんな面倒を背負い込まなくてもいいのに。

 言わない言葉は笑みにしかならなかった。同情とは違う。亜樹はきっと、光介と同じ気持ちになどなれない。

 だってそうだ。本質が違う。亜樹は人の手助けをする。するが、それは結局見かけたからだ。気づかなければそのままだし、気づかなかった後に気づいた時には光介と同じように謝罪はするものの、もっと軽い音だ。光介のような神妙さは一切無い。

 むっつりと口を引き結んだ光介の視線が逸れる。その視線がドアに向かい――亜樹の足下で、段ボールが鳴った。

「すみません」

 つい鳴らした段ボールは、もう仕舞うだけの物だ。手元の小物ももう片づけ終わる。亜樹の謝罪に浅く頷き返した光介も、さほど気にはしていないだろう。気にするようなものではなく、当然のことだ。

 閉じた窓枠で、ぽっかりと青が切り取られている。

「……これ、仕舞ってもらってもいいですか。あの地図の隣なんですけど」

 ぱち、と、今度は光介が瞬いた。ああ、と亜樹は嘆息を微笑に変える。先に戻ってもらった方が下手に気を使わなくていいのに、窓の先、青が鮮やかだ。言葉にしなくていいものを、言葉にした自覚がじわりと滲みる。

 つい言ってしまったことを取り消す方が違和感だろう。それでも思考がぐるりと巡り、口を開く前に光介が亜樹の側に戻る。やはりというべきなのだろうか。光介は、なにも言わない。光介の思考を亜樹が理解しないように、おそらく光介も亜樹の思考など知ることなく、ただ、言葉を拾い上げる。

 腰を屈めようとした光介が、奇妙な位置で固まった。向けられた視線に、ああ、と亜樹が代わりにしゃがんで段ボールを持つ。制服のスカートに気遣ったのだろう。しゃがむ程度で見えるとは思えないが、下手な誤解をされたくないのも当然だ。この点に関しては、光介に誤解しようもないのだが。

 きちんと立ち上がり直すと、段ボールはあっさりと光介の手に渡った。

「ここか」

「はい」

 窓際、一番上の棚。やすやすと光介が戻す頃には、亜樹の片づけは終わってしまう。亜樹がやればいい、とは一切言わない光介がなにを考えているかはわからないが、亜樹は小さく息を吐いた。

「有り難うございます、助かりました」

 亜樹の再度の礼に、光介が頷く。戻る教室は同じだ。短い休み時間なので、別の場所に移動ということもない。

 話す必要もなければ別れる必要もないのだけれど。光介が左手で首後ろを触るのを見て、亜樹は笑んだ。

「少し急ぎますか」

 こく、と、浅く光介が頷き返す。雑談で場を和ませるには時間が足りない。

 話す必要はないのだ。もう一度内心で繰り返す。足りない物が時間だけであることは、揺れる後ろ髪にとってさほど意味のないことだった。