3. きっと面倒な人
* * *
「
雑談、というような調子で、涼香はしみじみとした声を漏らした。嫌みでもなんでもない当たり前の調子はともすれば残酷だろう。
「涼香と話すの楽しいもん」
涼香もよく飽きないね、までは言わず、亜樹は事実を告げた。目に楽しく思考にも楽しい。亜樹自身涼香との会話に飽きるなんて考えられず、くすくすと笑う。竹箒の枝を軸にもたれ掛かっているにも関わらずそれ自体が絵になるような人物なのに、飽きるもなにもないだろう。特に照信は涼香に一目惚れとのたまっていたくらいだ。
「なんだかんだ話も合うからいいんだケド。まったく、ひとっかけらも、これっぽちも未だにときめかないのによく飽きないわー……」
「執念だねぇ」
ともすれば怯えられてもおかしくない執念に涼香はよく付き合う。そうしみじみとこぼした亜樹に、執念だよねぇと涼香は他人事のように繰り返した。
「頭悪くないのに勿体ないというか」
「恋は盲目って言うらしいよ」
「友達にはいいんだけどね」
悩んでいると言うよりも単なる雑談なので、亜樹はあくまで軽い調子で頷くにとどめていた。これに真剣さが入れば照信との付き合いも終わらせてしまおうと思うのだが、涼香が言う言葉はそれ以上の意味を持たないままだ。頷くしかできない、とも言えた。
はじまりは中学三年生の冬。所属していたクラブの先生が引っ越すというのを聞いて挨拶に言った涼香に一目惚れした照信がその場でアタック。クラブは小学生を対象にした男女混合サッカーで、まあ子供がはしゃいだ。明らかにデリカシーがない、と思い返す度亜樹は不愉快に思うしそれは涼香も同じなのだが、照信の妹にきらきらとした目で見られた結果「初対面でそれはどうよ」という回答に落ち着き、じゃあ一緒に遊んで、となったのが現状の理由である。
一回別の場所であってさよならにでもすればいいだろう、とりあえず二人きりはさすがにやめとこうなどという相談で亜樹が付き添い、なんでか知らないが照信側も友達を呼んで五人での交流。どう考えても一回、多くて数回だろう付き合いがここまで長くなったのは、まさかの高校が同じになったからだ、と亜樹は判断している。うわぁ、とドン引いた声をだした涼香は、学校で下手に絡まないという約束の元時々照信に付き合う形で落ち着いた。下手に絡まないとは言っても、まあ、照信が目立たないかというとそんなことはないのだが、それでも面倒は思ったよりも無い。といっても、そろそろ一年経つのかと思うとなんとも言えない心地にもなるが。
もうそんなことしなくても、という亜樹の言葉は、まあ楽しいし、と言われてしまえばどうしようもない。律儀に恋愛では無理だと伝える涼香に、友達でもいつかは、という下心だけでなくただ実際に楽しい時間を過ごせる嬉しさをたっぷり伝える照信は、なんだかんだで涼香にとっては悪くないのだ。
顔だけだとか言わない。生意気とも言わない。ただ一緒にいるのが楽しくて、変なやっかみをする相手もいない。現状涼香の重荷にならないのだから、部外者である亜樹はただただ執念だなあ、と繰り返すだけだ。
「付き合わせてばっかで悪いね」
コンクリートの隙間にひっかかった落ち葉を器用にひっかけ掃きだすと、涼香が話を切り替えるような調子で切り替わっていない言葉を落とす。階段の砂を落とし、亜樹はにこにこと笑った。
「涼香ひとりだけより安心だから、僕は放っておかれなくて良かったよ。いざとなったら止められるし」
相変わらずと言えるだろう亜樹の言葉に、涼香は苦笑した。安心や申し訳なさと言うよりも含まれた呆れに気づかないふりをして、亜樹はただ笑う。
「いざとなるような時はアンタだって危ないっつーの」
「止めるくらい平気だよ」
「だーめ。そもそもいざもなにもなさそうな奴だから構ってるけど、もしも万が一、の時ほんとやめてよ。アンタのそういうとこ嫌い」
はっきりと言い捨てる涼香の表情は、整った顔をおもいっきり歪ませたものだ。嫌いのイがはっきりと口角を動かして、白い歯がかっちり見える。嫌い、という言葉に傷つくよりもどこか喜びを胸にした亜樹は、答えずに目を細めた。落ち葉をまとめ仕舞いにしだす亜樹に、涼香が息を吐き捨てる。
「なんかあれば朽木と
「日野さんの友達でしょ」
「友達が間違えそうになったら止めるでしょ。朽木がほっとくと思う?」
涼香の言葉に、亜樹は微苦笑を浮かべた。亜樹は光介も西之もどんな人物か把握していないが、それは信用に足るかという警戒の意味でだ。単純な印象を正直に言ってしまえば、たかがボタンに絡んだ髪程度に鋏をためらうような光介が涼香を守らないとは考えづらい。信用に足ると考えることは油断を生むという意味でしたくないが、それでも、である。
もし万が一照信が感情的になって涼香を傷つけようとしたら、たとえ傷つけるのを止めてもそんな事態になったことそのものを気にするのではないか。そういう部分は、正直なところ亜樹ですら感じてしまう人柄だ。
「……先週、朽木とどうだった?」
「ああ、遅れてごめんねぇ」
「謝罪は聞いたしいらないって言ったでしょ。そうじゃなくて、なんか話した?」
一緒に掃除していた村田と望月から竹箒を受け取りまとめて倉庫にしまう亜樹に、涼香が声を潜めて尋ねる。声を潜める必要がわからずしかし言及する必要もない故笑って手を差し出した亜樹に、涼香の持っていた竹箒が渡される。
「土田さんからも聞かれたけど、朽木さん真剣だったし話すこともなかったよ。そもそもあの人、男子以外だとほとんど話さないじゃん」
「まあそうだけど」
苦笑と少しの呆れがまざった涼香に、亜樹は向き直った。掃除用具を片づけきってしまえば長居することもない。涼香も反転して、倉庫から出る。
「二人で長くいたしさ」
「僕は元々話さないならそれでいいタイプだし、朽木さんも沈黙に焦って会話するよりひたすら黙するタイプっぽいじゃん。それで話が弾んだら不思議すぎるよ」
にこにこと笑って言う亜樹に、涼香が頭を掻いた。さらさらとした髪は多少乱暴に扱ってもするりと元の場所に戻る。目を細め、亜樹は涼香を眺めた。
「次も頼んで大丈夫なんだよね?」
「涼香ひとりより安心だもん」
「アンタに無理させるのも嫌なの」
「やさしー」
くすくすと亜樹は笑う。中庭の掃除は天気さえ問題なければ気楽なもので、移動時間すら雑談に変わるから好いてすらいた。靴を履き替える程度の問題は、さほど気にならない。
「あ」
短い涼香の声に亜樹が視線を動かす。ちら、とみれば体育館から校舎に向かう影にひとつ大きな姿がまぎれていた。
「噂をすれば影ってやつね」
丁度光介も掃除から移動なのだろう。体育館の掃除を終えて雑談しながら早足で移動する中、ひとつ遅れている。遅い、というよりは特に話して移動する気がないのだろう。手足が長いのにゆっくりと移動するのは光介の癖なのかわからないが、なんとなく亜樹にとっては後ろを付いていく人、の印象があった。
「……話してくれば」
「あー」
涼香の言葉に、無感動な相づちにも満たない音で亜樹は返した。涼香と雑談する時間は亜樹にとって好ましいが、涼香の言いたいことはわからなくもない。
「お礼も謝罪もしたけど、改めてしたほうがいいよねぇ」
「どっちでもいいけど、朽木への礼にはなるでしょ」
話しかけても迷惑だろうと亜樹は思うのだが、きっぱりと涼香は言い切った。学校外で会うときは必ず五人であり、周りを気にさせてもということで話題にはしづらい。謝罪で飲み物を無理矢理押しつけたがそれすら拒否したそうな物を無理矢理なので、借りを作っているような現状もう一言改めて、は、面倒だが確かに思うのだ。
笑みを浮かべながらため息を吐き出した亜樹に、涼香が笑う。
「向こうから行くね」
「いってらー」
手を振る涼香に手を振り返すと、亜樹は大股で渡り廊下に向かった。靴を脱いであがってしまえば、昇降口まで歩くだけだ。歩調を変えない光介がさしかかるより少し早く、渡り廊下に上がる。
「朽木さん」
少し驚いたように目を開く光介に、亜樹は微笑んだ。ぱち、ぱち、と緩慢な瞬きが状況の不理解を伝えてくる。
「今よろしいですか?」
こく、と、頷く光介に並ぶ。掃除の移動で出来てた波より少し遅れていたため、丁度人影は他にあまりなかった。珍しい状況で機会が得られたのは幸いだろう、と亜樹は笑む。涼香のおかげだ。
「……
珍しく光介から尋ねられ、半拍間が空いた。けれどもそれだけで、すぐに亜樹は涼香の方を示す。
「あちらから戻ってます。朽木さんとお話ししたくて、すみません」
ぎゅ、と光介が口角を引き結んだ。身構える必要はないのだと言うように亜樹は笑みを浮かべたものの、さしたる効果は無い。寧ろ眉間の皺は増えたようで、亜樹は微苦笑をこぼした。立ち止まった光介に、そのまま頭を下げる。
「先日はすみませんでした」
亜樹が光介を知らないように、光介だって亜樹を知り得ない。そもそも身構える必要はないにしても、光介にとってはあまり掘り返されたくない話題でもあるだろう。借りをそのままにしたくないのは、亜樹の勝手でしかない。
光介の視線が亜樹から少し逸れ、伏せられる。いや、という短い返事はいつもとかわらず静かだ。
「これからは気をつけます。もう無いようにするので」
「……切るのか」
静かな低音。先ほど引き結ばれた唇が静かに開いて、そこからとすりと落ちる音は落ち着いている。にも関わらず少しだけ揺れた瞳に、亜樹は緩く笑った。
「切りませんよ」
つい零れ出た笑いはなんとも言い難い色をしている。嘲笑するわけではなく、どうしようもないひとだ、という感情が息を緩く逃したような色。
先日のボタンを考えれば当てつけのように切るつもりはないし、そもそも亜樹は、ずっと切るタイミングを失ったまま今日がある。そんなことで、切るきっかけにはなり得ない。
「この長さだと結び方を変えてもたかが知れていますし、切る方が早いでしょうけど。単純に、私が気をつけるってだけです」
「そうか」
少し安堵したような言葉に、亜樹は口を開いた。長い髪が好きなんですか。つるりと漏れそうになった雑談は、しかし笑顔で飲み込まれる。
沈黙をどうとったのか、光介は短い髪をがりがりと掻いた。
「髪の長さ、じゃない」
短い言葉は、それこそ“端的”という言葉がよく似合った。おそらく端すぎて光介の意図が理解できず、亜樹は言葉を待つ。がり、と、もう一度光介は髪を掻き、半端な位置でその手を止める。
「素人が切ると、髪が痛む、と言う」
ぱちくり、と、亜樹は瞬いた。ひどく神妙な言葉は光介の優しさなのだろうが、優しいと評するよりも間の抜けた心地が亜樹の内側をぽっかりと空ける。空白一個分。は、と、呼気と一緒に笑った亜樹は眉尻を下げていた。
「ボタンに絡んだ時点で今更ですよ」
ひどく素直な感想がつるりと出、受けた光介は「む」と短く零した。呟く、というには呻くような、しかし呻くと言ってしまうにはあまりに素直な音は小さな相づち以上にならず、亜樹はくすくすと笑う。
長いから痛んだら困る、と思ったのだろうか。けれどもたとえ痛んだところで、その程度。そもそもそれほどきれいに管理しているものなら絡まなかっただろう。貧乏くじを進んで引いてドツボにはまりそうな人だ、と評した亜樹は、しかしそれを言葉にはしなかった。
「お気遣い有り難うございます。自分の物じゃないと、気になってしまいますよね」
あくまで表面上拾い上げるのは光介の親切のみ。それ以上の親しさはなく、けれども零れる笑いは平時より素直な音で亜樹は礼を言った。光介の視線が、するり、とまた逸れる。
「、」
はく、と開いた光介の口は、予鈴の音で遮られた。ああ、と亜樹が声を出す。
「引き留めてすみませんでした。それじゃあ」
「靴」
短い音に、亜樹は反転しようとした体を止めた。靴は亜樹の手にある。光介は元々上履きであるし、必要がない。意図が読めず光介を見上げると、しかめた顔とぶつかる。
「足、汚れる」
「少しですよ」
むぅ、と光介の唇が不服を作る。ついそのまま笑いの形がこぼれた亜樹は、吐き出したその音を開いている片手で塞いだ。
たかがそれだけの為に、先ほどから止まっていたのだ。髪といいわざわざ気にしすぎというか、それでいてわかりづらすぎるというか。
面倒な人だ、と、何度目かの認識を素直すぎる笑いと一緒に飲み込む。手を下げれば、平時の微笑だ。
「まあ、気をつけて歩きますので。失礼します」
それ以上の言葉を受け止めるつもりはなく、走るにはなりきらない程度の早足で亜樹は下駄箱に向かった。授業に遅れるつもりはないし、特に親しいわけでもない光介と学校で並んで歩くつもりもないので理由としては丁度いい。
見た目の割に神経質と言うべきか、光介の細かさはやはり亜樹にとっては馴染まない感性で、しかしそれ以上の意味はなかった。