台詞の空行

過去

少年の悔恨(あの事件が起きる前と、起きた頃)

 あの日のことを決して忘れることはないだろう。

 青すぎる空、鯨幕、彼女の横顔。焼き付いて離れることのない後悔は、消えることなくこの胸にある。


 もし時が戻るのなら、過去の自分を殴り止めたいと思うほどの悔恨。けれども叶うことなどなく、ただ、空ばかりが続いている。

 今日も青空はそのままで、夏空だけが消えない。

 * * *

「逸見?」

 珍しい姿を見て確かめるように声が零れた。視線の先で逸見が顔を上げる。濃い夕暮れに染まった表情は、きょとりと無防備だった。

「……さん」

 呼び捨ててしまった名字に今更付け加えるように敬称を続ける。ぽつ、と浮いただけのようなそれに逸見はぱち、ぱちと二度瞬くと、そのドングリのように丸い瞳を空に溶ける夕陽の形に細めた。

「はい、なにかご用でしょうか」

 逸見の声はよく通る。高すぎるわけでも、それでいて(女子なんだし当然なのだけれど)低すぎるわけでもない声はその人の良い性情を表すかのようでもあった。

 背筋を伸ばし向き直る逸見に、見かけたから、だけで名前を呼んだ自分がどうにも落ち着かなくなる。

「この時間まで残ってるの、珍しいなって思って。日直?」

 逸見は他クラスで、今まで一緒のクラスになったになった覚えのない女子だ。それでも今は隣のクラスで体育も一緒だし、なにより逸見は少しだけよく目に入る。見目が特別良いわけでも騒がしいわけでもかといってリーダーシップが強いわけでもないが、そのよく伸びた背筋と誰にでも敬語で穏やかに笑う姿は、中学生という年齢にしてはたおやかで記憶に残りやすかった。

 数少ない機会と印象から考えても、誰もいない教室に残って遊ぶような人ではないと言いきれる程度には逸見の性格は周りになじんで伝わっている、と思う。

「日直ではありません。さきほどまで先生とお話していたのですが、帰るときに本を忘れてしまっていたことに気付きまして」

 お恥ずかしいです、といいながら逸見が両手で目の前に持ち上げたのは確かに本だ。逸見の小さな手で持つとやけに大仰に見えるハードカバーには星空の写真で、『秋と冬の星座と観測』と言うタイトルが書かれている。

「明日じゃだめだったの?」

 わざわざ持って帰らなくても、と思わなくもない。教室の入り口で尋ねる俺に、逸見は本を仕舞う手を止めて頷いた。

 ひとつひとつの行動を、ながらでしない。こう言うところも逸見は少し大人っぽく見えて、不思議な気持ちになる。

「兄に返す約束をしていたので。言えばわかってくれますが、先生に取りに行きたいことを伝えたところ教室の鍵をお借りできましたので、お言葉に甘えました」

 言葉の後、また本を仕舞う作業を開始する。ぱち、と鞄を締め切ってから逸見は両手で鞄の取っ手を持った。伸びた背筋もその所作も随分と丁寧で、なんとなく別の世界に見える。丁寧に編み込まれた長い三つ編みすら逸見が逸見であることを表しているようだった。

 確か父親が社長だ、なんて話も聞いた。いわゆるお嬢様というやつだろうか、とも思うが、なんとなくそういうものとは違うようにも思える。金持ちだとか世間に疎いとか漫画やドラマで見るようなものでなくて、そうすることが当たり前に、丁寧にひとつずつ繋いでいく姿が特別で、そのくせ日常になじむもの。

 真面目な子、と言われているのは知っている。けれども堅物と揶揄されない。流されやすいわけでもなく芯がしっかりしているようにも見える。自分の基準と相手の基準の違いを理解するようなまっすぐさ。そういうところがあって女子から頼られるのだろうか、と、この間の体育の授業を思い浮かべながら考える。

「日暮さんは、なにかご用事でしたか?」

「部活が今日は早く終わったんだけどプリント忘れて。取りに来たら逸見さんがいるの見えたから」

「逸見、でいいですよ」

 ふふ、と笑う逸見に言葉を探す。普段は女子にさんづけで呼ぶ、というか、呼び捨てするのは男子くらいで女子はなんだかそうしづらい。なにより逸見は女子の中ですらさんづけで呼ばれる方が多く見えた。多分さっき見つけた時の、つい確認した名前で気を使ってくれたのだろうが――そのことを言うのもなんとなく落ち着かない。

「名前、わかるんだ」

「隣のクラスですから。日暮さんも私の名前、知っているでしょう?」

 それは逸見がよく見えるから、とは流石に言わなかった。俺自身もそもそも悪目立ちする方だろう。騒がしいわけでも見目がいいわけでもないが、俺はひとつ他から浮いている自覚がある。

「こんなこと言ったらいけないとは思いますが、忘れ物も素敵ですね」

「え?」

「日暮さんとお話しするご縁がありました」

 今度はこちらが瞬く番なのだろう。といっても俺の顔は常に変わらず、逸見と違い見返すだけなのだからああいう可愛らしさを表現はできない。いや、俺に可愛いもなにもないけれど。

「あまり機会のない方とお話しできるのは嬉しいですね」

 笑う瞳は夕暮れ色で、それなのに昼の日溜まりにも見えた。なんだろう、とざわつく胸の内を、喜びと仮定する。誰にでもきっと告げられる優しい言葉は心地よさ、のはずだ。

「俺も嬉しい」

 仮定した喜びを、逸見と同じように言葉にする。柔らかい逸見の声と違い平坦な自分の声は相変わらずなにも変わらない。自覚はあるが、随分と説得力のない声だろう。

「本当に嬉しい」

 せめてと言うように言葉を重ねれば、くすくすと声が漏れた。笑う逸見を見下ろすと、すみません、と控えめな謝罪が続く。

「一度でわかります、嬉しいって思ってもらえて嬉しいです。有り難うございます」

 笑い声ではあったが、馬鹿にした様子やあきれた様子はなかった。そもそもそれらが逸見に似合わないのもあったが――あっさりとした肯定に、言葉が出なくなる。

「どうかされましたか?」

「……信じる、んだ」

「? はい」

 きょとりと首を傾げて、逸見は当たり前のように頷く。先ほど感じたざわつきとはまた別の、それでいて似た場所がなんだか落ち着かない。

 じっと見上げる逸見の瞳はまっすぐで、当然ながら俺の姿が映っている。

「いや」

 まっすぐな目が少し落ち着かない。逸見は背が低い。俺もそんなに高い方ではないけれどそれなりな男子なので、一五〇もないだろう逸見はなんだか女の子、って当たり前の実感が強くなってしまう。

 言葉を待つ逸見の姿は、そっけなさなどなくて。それでいて問いつめることもなくて。ぐるりと落ち着かないのに、優しい。

「俺の表情は、変わらないから」

 だから、だろうか。漏れた言葉はどちらかというと独白じみていた。そんなこと言ってなにになるのだろう、と思いながらも、溢れた水はゆるやかに流れていく。

「隠している訳じゃないんだ。昔から変えられなくて」

 急に言い出した俺にも、はい、と頷いて逸見はじっと言葉を待っている。微笑みが消えた表情は真剣で、やっぱり俺が映っていて。逸見の中の俺は表情まで細かくわからないけど、多分相変わらずの能面なんだろう。

 この体とは十四年の付き合いだ。わかってる。望む望まないは、関係ない。ぐる、と、ずっと内側にあった聞いてもどうしようもないものすら、逸見はじっと見上げている。

「どう俺が考えても、感じても、顔はなにも動かない。だから言うようにしている、んだけど」

 よくわからないが、そういう体質らしい。脳の問題だかなんだかはわからないが、感情と表情筋が連結しないのだ。幼少期は両親も苦労したようだが今は自己申告できるから問題なくて、生活に困らないのだから障害と名付けられるものでもない。赤子じゃないからそれで命がなくなるわけでもなくて、ただ表情が変わらない事実だけがある。

 そしてそれがどういう形になるか、は、思い知っている。

「言っても、一度じゃ信じてもらえないことが多いから」

 周りが悪いやつなわけじゃない。そうは見えないとからかったり、本当か、なんて茶化したりするだけで、言葉を重ねれば信じてくれる。でも無条件に頷くのは家族しかなくて。

 ぱちり、と瞬く逸見は、少しだけ顎を引いてうつむいた後、また俺を見上げた。

「日暮さんは嘘を吐いてません、よね」

「……ああ」

「なら、信じます。言葉は伝えるためで、日暮さんは伝えてくださるんですから」

 当たり前の顔で当たり前の言葉を口にするだけ、に見えた。言葉を返せないまま黙していると、逸見はまっすぐとした瞳を優しさで和らげる。ほんの少し手元に落ちた視線は、ひだまりだ。

「日暮さんはすごいですね」

 するりと落ちた言葉に、やっぱり俺は言葉を返せない。どういう意味かもよくわからないまま見返していると、逸見は俺を見ないでしみじみと頷いた。

「自分の感情を素直に言葉にする事って、難しいと思います。伝えられる人だから日暮さんの気持ちが私にもわかって。表情って、伝える事を助けてくれるもので、それがなくてもがんばる日暮さんは凄いです」

 とすとすと落ちる言葉は俺の耳に届くものの、はっきりと俺に向けるものとは違う。それは逸見がまっすぐ人の目を見て話す人だからわかることで、俺の目を見ないまま落とされる言葉は自分の内心と向き合うだけに見えた。そのくせあまりに柔らかすぎて、どうすればいいかわからない。

「言葉にして伝えられるから、日暮さんはそういう困難とも向き合えているんですね」

 表情が変えられないことが努力不足だとか、感情がないだとか言われるんじゃなくて、凄い、なんて。そんな。

 腹の内側が、ぐずり、と廻る。

「……あ、すみません。色々言ってしまって。おつらい気持ちや苦しさは日暮さんのもので、私が勝手になにか言ってはいけないのに……申し訳ないです」

 無言をどうとったのか、少しだけあわてたように逸見が声を上げた。俺はどういえばいいかわからないまま、とりあえず首を横に振った。

 嫌な訳じゃない。家族以外から当たり前に感情を受け止められて、重ねられた言葉は同情じゃなくて。まるでそれが尊いもののようにしみじみと呟く声は優しくて。

「嬉しい。そんなふうに、考えたこと無かったから。嬉しくて、少し安心した」

 このままでいいのだと。そういうような言葉になんとか思考を声に出せば、逸見が一等嬉しそうに笑う。

 細められた瞳は、熱を持った飴細工のやわらかさに似ていた。

「優しく受け止めてくださって有り難うございます。日暮さんのお言葉を聞けて、嬉しいです」

 ぎゅ、と苦しくなったのは腹で、いわゆる話に聞く胸の痛みとかそういうものではなかった。けれどもその時確かに浮かんだ言葉は、凄く身勝手なもので、好き、の二文字は確かに歪まずそこにあって。

 ただそれだけの短い会話だったのに、俺は確かに恋をしたのだ。

 * * *

 二年の冬に起きた奇跡みたいな優しいやりとりは、体育の授業だとか廊下ですれ違うときの会釈だけにとどまった。三年の春に、同じクラスになれたことに内心でガッツポーズをしたのはひどく滑稽だが正直な気持ちで、逸見はきっとそんなこと知りもしないだろう。

 女子と話す機会は多くなくて、その数少ない機会に呼ぶ名前はあくまでさん付けで。周りと違う呼び捨てができるほどの度胸はなくて、でも逸見だけがいるときは、そっと逸見が許した呼び捨てを試した。逸見はどういう呼び方なんて気にした様子もなく挨拶を返してくれて、なんだか隠れた親しさのようでどぎまぎして。――まあ、本当に一方通行だって理解もしていたけれど。女々しいような内心はまったく表情に出ないからバレることはなくて、でも嘘は吐きたくないなあなんて思いながら、笑う逸見を見ていた。

 不思議だと思う。家族は当たり前に受け止めていたのに、たかが他人が一人おなじようにしただけで救いのように感じたのは。友人たちにだって不満はなかったのに、ひどく逸見が優しくて。

 でも、その救いに縋るような心地だけでもなかった。好き、と浮かんだ気持ちをまるで重ねて重ねて色濃くするように、逸見を見ていると、なにかが積もっていった。笑う表情とか、声とか、言葉とか。人が大好きでまるでそれがすべて宝物みたいに言葉を選ぶところだとか、伸びた背筋だとか、綺麗すぎる一礼だとか。当番の片方が休んだときに黒板を消すために椅子を運んで台にするのは落ち着かなすぎて手をだそうとしたら他の女子が助けていてなんというか声をかけるタイミングを失ったのも、聞くことが多い逸見が兄のことを楽しそうに語るのも、ただただ愛しくて、それで、それで。


 確かに俺は救われて、好きで、思って、彼女が笑ってくれればいいと、そう思っていたのに――俺はあの日、逃げ出したんだ。


 逸見の兄がおかしくなってしまったという噂があった。逸見は随分焦燥していた。それから夏休みに入って、逸見の両親が死んだ。

 母親に頼んで作法を聞いて、学生服で香典を持って走った。何が出来るかわからない。それでもあの背筋を伸ばしてばかりの逸見に声をかけたかった。一人じゃない。俺がいたところでなにができるかわからないけれど、それでも。それでも。

 それでも、の先は無かった。逸見の隣にいたのは、背の高いきれいな顔をした高校生。中学生の自分には随分大人に見えて、泣きはらした目のその人は逸見によりそって、逸見はその添えられた手をふりほどかなくて――俺は馬鹿だった。


 馬鹿なんだ。なれるかわからなくても逸見の力になりたいと思ったのに、声をかけられなかった。香典だけ出して逃げた。それはひどく些細な嫉妬心だったんだと思う。好きな人が傷ついていたのに、俺はそんな格好悪い身勝手な気持ちで逃げた。見たくなかった。綺麗な顔の男の人は逸見に似合っていた。だって逸見は俺と違って背筋が伸びて、優しくて、綺麗で、一生懸命で。見合うようになりたいと願っただけの俺よりも、その男の人はあまりに大人だった。高校生ってだけで大人にみえるけれど、そうでなく本当にそのひとも綺麗で――どうしようもなかった。

 逸見をみたのはそれが最後で、夏休みが終わっても、彼女は学校に来なかった。

 俺はただただ、馬鹿だった。

 * * *

 冬が来ても夏空はずっとそこにある。鯨幕は離れない。今日も誰かが死んでいて、逸見は帰ってこない。

 行方不明になった彼女が生きていると思い続けるには異常な事件が続きすぎていた。兄が病院に入ることとなり、両親も死んでしまった逸見。その両親すらまともに姿が残っていないなんて噂があった。彼女は彼女が愛した兄の病院から、兄とともに消えてしまって、だから俺はずっと後悔している。

 俺のみっともない嫉妬だとか虚栄心とか足り無さを嘆く気持ちだとか卑屈さと身勝手さが、逸見にかける言葉を失わせたことを。

 俺が声をかけて変わったなんて言えないのはわかっている。友人ですらない、一方通行の思いだ。それでもなにか声をかけて、たとえばあの地震があった日一緒に見舞いにいけたら。絶対ありえないなんてなくて、その可能性を絶対ありえないにしたのは俺自身で、俺は、彼女が、彼女に救われたのに、彼女をずっと、ずっと。

 苦しい言葉は外に出ない。感情は相変わらず俺の顔を変えない。今更進路を変えるのはむずかしくて、進学校にはいけないまま剣道と勉強に必死になった。救えなかった事実で立ち止まるには逸見はまぶしくて、並べなかった後悔を追いかける。彼女が愛した世界が成り立つように、彼女の隣に並べるように――彼女はいないけれど。俺は俺の罪悪を放ってはおけなくて。せめて警察官になって、ああいう事件で傷ついた人に手を伸ばせたら、少しでも逸見は許してくれるだろうか。いや、彼女はそもそも許さない事なんてなくて、それは俺で。

 助けたかった。隣に立ちたかった。手を伸ばしたかった。

 届かない思いが文字になる。それは言葉じゃなくて、知識という形で、俺の気持ちではない。興味の無かったプリントにかじり付いて、感情とは無関係な答案は俺の顔みたいで。

 逸見はここにいない。合格通知は終わりでも始まりでもなく、過程だ。ぐずついた感情は言葉にできない。言葉にできる、と逸見は言ってくれたけど。でも。だって。なあ。

 はっきりとわかっている気持ちは、音にしようがないのだ。言葉で伝えられる、という事実は、伝えるべき相手がいない今宙ぶらりんになっている。

 家族は俺の願いを聞いて応援してくれているけれど、それじゃあ足りない。言葉の、向く先が。届ける先が。表情に出ないこの感情を、伝えるにはあまりに曖昧すぎる。

(逸見)

 内側で呼ぶ名前だけで苦しいのに、鏡を見ればなにも変わらないロボットみたいな能面がある。ロボットの方がわかりやすいかもしれない。表情を変えようとしても、変えかたがわからない。

(この言葉は、だれに言えばいいんだ。なあ)

 逸見はいない。ただそれだけが、わかっている。


 俺は過去を救えない。