1-2-16)ひとりの過不足
「許すもなにもネェさ。こちとらしがない宿泊者だ。金を払っているわけでもなんでもネェのに人が良すぎるんじゃねぇか?」
「招いたのはこちらですので」
「ああ、そして閉鎖させたのもそちらだ」
泥野の言葉選びに追従するようにして、山田が言い放った。笑顔のまま言葉を続けない泥野を見上げながら、山田は組んでいた腕から右手をするりと立てる。そのまま拳から人差し指だけ立てられ、細い指先が『1』を示す。
「だがそうすると、ひとり足りない」
泥野は答えない。言葉は余計な追求を生むが、それが理由ではない。時間をかけて探偵が導き出すものに興味があるから? それも違う。
ただこの場所が煙と無縁なことを、泥野はもったいなく思った。山田に染みたはずの香だけがいたずらに誘い、しかし遠い。
「なんでわざわざ通行者を引き取ってまでこんなことをやっているのか知らねぇが、俺は意味を考える趣味はない。意味があるんじゃなくただの手順ならどうしようもネェしな。ただどちらにせよアンタはあの時、デカブツが見たと言う人物を気のせいだと断じた。
アンタの言葉を信じるなら、アンタはデカブツが見た人間がいればわかるだろう場所から来たからそれを気のせいと言うのは不思議でもないかもしれねぇが……視界の悪い雨の中、いないと断じるのは少し軽率すぎるだろう。そうするとひとつ奇妙なことが起きる。
わざわざ屋敷に軟禁するような形にしたくせに、アンタはその可能性に対して気を配らなかったっつー矛盾だ」
立てていた指をぐっと握り直し拳を作った山田は、それを開き直すと両手を下ろした。ポケットに親指だけを入れるようにして立つ姿は、会話をするには好まれない態度だろう。にやにやと嫌みたらしく笑う山田に、しかし泥野は穏やかに笑みを返す。
「それは、矢来様のおっしゃっていた説が正しければそうかもしれません。しかし雨はどうしようもないですし、土砂崩れを警戒した封鎖なんて余計こちらでは出来ませんよ」
「確かに、普通考えれば難しいだろう。俺達がその看板を見たのはそもそも富泥野の方だ」
山田はあっさりと肯定した。しかしそれは言葉を終えるためのものではなく追求するための繋ぎだ。目を細める泥野の表情をいぶかしがる様子も苛立つ様子も見せず、山田は言葉を並べる。
「ただ協力者がいることは可能性としてあり得ない訳じゃない。富泥野は百戸森と関係が深いからな。『泥神伝説』を知っているだろう」
はっ、と喉からこぼれてしまった笑いをそのまま微笑として吐き出し、泥野は頷いた。口角が持ち上がるのを止められない。それでいて、期待しすぎてもならないと自身を律する。
所詮部外者が知るには足りないのだ。当事者ですら足りていない。中山は察したが、だからこそ彼は言葉にしきれないだろうという核心がある。
偉大なる恩恵は、愚かな人間にとって恐怖となるのだ。
「地元の民話ですから、よく知っていますよ。伝え聞いて居ますし、今の子供たちも学校の自由学習で習うそうです。探偵さんは地元の方でしたか? よくご存じで」
「地元じゃねぇよ。アンタたちで言うなら部外者でしかない。だからといって、予想が付かないわけでもネェがな」
煙の香りに意味を成すには日が足りない。せめて一日は休めば良かっただろうに、探偵のせわしなさは泥野にとってもったいないことだった。編集者は中山の逃げでしか無く、雑誌の関係で少しの目障りだとしてもその程度でしかなかったが――探偵が急く原因になったことは不愉快にも思える。それでいて、編集者の言がなければ探偵が動かなかっただろうという推測も立つので、憎むには結局足りない。
足りないことが連なる中、泥野は少しだけ右足を下げた。逃げるつもりではなく、ただただ、探偵のその頭蓋の中に欲情を抱いている故だ。予定が大きく変わるが、この人物なら今度こそうまくいくかもしれない。知識だけでは足りず、知恵も足りず、逆に欠落を求めても足りず。繰り返したそれが、あの方が食べるに相応しいものが、ようやく。
「予想、ですか」
逸る心地を押さえて、泥野が復唱した。あくまで態度は微苦笑に戻して、穏やかに。山田は悠然としたまま。形の決まった問答は、どちらの望む先になるのか。
どちらでも構わない。泥野が求めるのはそのさらに先だ。
「百戸森の分魂は富泥野の為に行われたものだ。そこに上下関係があるかは置いといて、友好関係があったと考えることはできるだろう。富泥野泥神伝説と百戸森泥神伝説は別のものを語っているが、それは泥神を別のモノにしたのではなく、主軸が違うからだ。だから泥神の本尊である百戸森から協力を依頼されれば従うだろう予想だ。
なにもかもずっと従うでなくていい。意味なんて継承者が忘れるくらいの惰性の習慣。たとえば氏子、たとえば坊さん。そういう連中が十年に一度でも決め事をこなせば富泥野の件は事足りる」
「ではお連れ様が見かけたという人影が、そういう協力者とおっしゃるんですか? あいにくこのあたりは屋敷以外ありませんが」
「なら、普通に考えれば屋敷の人間。だろう?」
困ったような泥野の言葉に、当然の推論だと言う調子で山田が同意を求めた。眉を下げた泥野は、そうですねぇ、と惰性のような言葉を持らして左足を少し下げる。
「しかし、屋敷には人が居ません。お恥ずかしながら使用人は見ての通りでして」
「見かけない人間がいるじゃないか」
は、と山田が笑った。しかし、その推論は探偵を少しつまらないものにしてしまう。残念な心地を微苦笑に乗せて泥野はかぶりを振った。
「旦那様はお部屋にいらっしゃいます。証拠と言われましたら困りますが、しかし旦那様ではありませんよ」
「知っているさ。あの男は知らないことが多すぎる」
ぴくり、と泥野の眉がやや持ち上がった。眉間の皺とともに動いたそれはすぐ微苦笑に紛れたが、山田はくつりと笑う。
「かといって子供なら体格でわかる。デカブツはそう言わなかった。ほら、ひとり足りないだろう? ひとり多い、と言うべきか?」
ほんの少し、喉の下、肺の上の繋がる細い場所が竦んだような心地に泥野は胸をゆっくりと上下させた。少しの息苦しさと、にも関わらず手のひらが粟立つような興奮。
探偵の口振りはまるで屋代を確認したようであり、それは泥野の望みではなかった。しかし探偵が物語るそのひとりが、ひとりとして認識されることが手のひらに歓喜を、そしてそのまま皮膚の内と外をぐずりと騒ぎ立てるようにして首後ろにまで興奮が昇る。そのままそれは口角に笑みを作らせる。
「お連れ様の気のせいでなければ、そうですね。どなただと思いますか?」
「どなただと思う?」
泥野の言葉に山田は言葉を重ねた。疑問に対して疑問を重ねるそれは、サングラスの奥が見えないことをもったいないことだと泥野に思わせた。
その瞳がどのように答えを見据えているのか、好奇心が騒ぐ。頭蓋の奥も、その眼球も。ひどくひどく、おいしそうだ。服飾が多くを隠す中つるりとさらされた額のように、それらはつるりと、喉を通りそうなのだ。
「……山田様は、どなたかご存じのようですね」
口角にまで至った興奮を笑いで外に出す。ふふ、と漏れたその音は存外優しい音がしていた。ひとつ危うく、しかしひとつ近い。自身の内側にある興奮が誘われる。
崇拝するモノを秘匿するのは特別だからだ。しかし同時に、形を変えても語り継ぐのは崇拝するものの素晴らしさを伝えたいからだ。そういう内包された興奮を、探偵はその細い指でざわりと撫でるようだった。
すべての音が遠い。探偵を誘うように、泥野は笑った。
「わたくしには存知あげないことが多く、言葉で答えることは難しいです。しかしもしかしたらと思うことがあります」
こつ、と、泥野がブーツのかかとを鳴らす。折角だ、折角なのだ。捧げる準備には足りないが、偉大なる恩恵を見せてはどうだろうか。年甲斐もなく逸る心地で、泥野は手を差し出した。
「もしかしたら、探偵である山田様ならなにかわかるかもしれません。
一緒に参りませんか?」
もう一度、改めて誘う。黒いサングラスは泥野を写し、持ち主の瞳を透かさない。その瞳が細められたのか見開かれたのか変わらないかもわからず――ふ、とこぼれた酸素の音と浮かんだ笑みは、嘲笑だけを示す。