台詞の空行

1-2-3)206室

 山田が扉を開けようとすると、泥野がするりとそちらに動いた。開いた扉に傘をかけるようにして雨から守るのを見、山田はやや顔をしかめた。

「邪魔だ、いらねぇ」

 短い言葉は横柄だが、泥野は困ったように笑いながらすっと引いた。見ていて遅れてはいけないと、横須賀も慌てて動く。傘は山田が持ったので、鞄と折りたたみ傘を横須賀は手にした。山田の片手がトランクを差したので平時は後ろに積んでいるだけの鞄も取りに動くと、山田が傘を泥野に当てないようにしながらもややおおげさに開いたところだった。距離をとらせるような危うい向きと所作は、意味があるものだろう。

 山田は山田太郎である為に、パーソナルスペースを守るところがある。山田の態度はあくまで山田太郎を形作るものだが、山田の体は逸見五月のものだ。横柄さと尊大さで目眩ましをしても、触れられればその華奢な体は誤魔化せないものだからだろう。

 といっても、性別や本質をそれだけですぐに悟る人間は多くないだろうが――山田は山田であるために選ぶし、だからこそああいう態度を平時から馴染ませているのだと思う。

 ただ、逸見五月の事件が終わって以降そこまで神経質さがなかったのは確かだ。トランクにあった鞄を肩に掛けると、横須賀は少しだけ肺の当たりがざわつくのを傘の柄を握って誤魔化した。偶然だと思え、と山田は言ったが、山田の警戒がぴりぴりと伝わるように感じる。

「こちらをどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 玄関に案内されてまず渡されたのはバスタオルだ。やわらかい薄桃色のそれを横須賀は控えめに髪に当て、それからコートに軽く当てる。じっとりとした感覚にコートを脱ごうとわたわたしていると、泥野が微笑んで一度タオルを受け取った。荷物も受けようとしたが、そちらは山田に遮られる。

「重い、です」

 山田の手に鞄の紐を差し出して、横須賀は短く伝えた。頷いた山田はぐ、と腕に力を入れる。重さに傾きかけてもすぐになんてことないように持つのは山田らしく、横須賀は軽く会釈をしてコートを脱いだ。少しシャツも濡れているが、こちらはタオルで拭けばいいだろうくらいの感覚だ。

「ありがとうございます」

「コートを貸してください。洗いますよ」

 タオルを渡されて礼を言う横須賀に、泥野が微笑んだ。泥野は先にコートを脱いでおり、まとめて受けようと手を差し出している。山田へ問うように横須賀が視線を向けると、山田は鞄を持たない手を顎に当てて見せた。

「そこまでさせる道理もねぇ。部屋で適当に乾かしたいが、場所はあるか?」

「室内とバスルームにかける場所はありますが、これくらいこちらでなさいますよ」

「泊まるってだけでデカい借りだ。ぶっちゃけアンタ達についてなにも知らないのにこれ以上借りを積み立てたくもない。察しは悪くネェだろ泥野サン」

 最後の言葉は揶揄するような音があった。ニヤリと口角を持ち上げた表情は軽薄なのにやや微苦笑にも見える不可思議さだ。どこか宥めるような色も持つ笑みに、泥野は小さく肩を竦め、下げる。

「お構いなくとお伝えしますがご心情は人それぞれですしね。わかりました。お部屋に追加のタオルを準備しますので、そのときに余分のハンガーもお運びします。クローゼットにある分と足して十分かと思いますが、足りなければお声かけください。お着替えは――」

「流石にサイズがねぇだろ」

 泥野の言葉を山田が肩を竦めて答えた。ぱちり、と瞬いた横須賀は、申し訳なさそうに元々の猫背を更に丸める。

「えっと、大丈夫、です。一着予備があります、し。すみません」

「こちらこそお力になれず申し訳ない。ですが一着ではやはり足りませんよね、どうしましょうか」

 困ったように泥野が首を傾げる。ふる、と滴を落とす落とした横須賀は、不思議そうにつられて首を傾げた。

「ああ、それより先にお部屋ですね。風邪を引いてしまう」

 横須賀から濡れたバスタオルを受け取り、新しくもう一枚泥野が渡した。片付けにいくよりも横須賀を優先したのか、濡れた方のバスタオルと泥野自身のコートを棚に置き、山田に向き直った。

「お運びします」

 空いた両手を差し出した泥野に、山田は手で拒絶を示す。横須賀はそれを見ながら、濡れたコートを新しいバスタオルでくるんだ。

 山田と横須賀の様子、どちらに対してかはたまた両方か、泥野が苦笑する。

「お気遣い大丈夫ですよ」

 続いた泥野の言葉は、それでも横須賀に向いた物だった。山田のそれはわかってのことだろうが、横須賀はそうではないと判断したのだろう。実際横須賀は自身にもう一度バスタオルを使う発想が無かったのでその判断は正しいが、どうして言われるかわからないままなので結局さほど意味を持たなかった。

 へら、ととりあえずというように笑い返した横須賀はコートが入ったバスタオルを脇に抱え、泥野に代わって山田へ手を出した。山田は一度横須賀を見上げたが、なにも言わず当たり前のように鞄は横須賀に戻る。

「お車でお話ししましたが、ご案内しながら改めましてもう一度説明しますね」

 二人の様子を見ていた泥野が、穏やかに声を出した。広い玄関から簡単に指し示されたのは食堂、日中泥野が控えている部屋。部屋への移動がメインだからか、それらは道案内と言うよりもどこにあるという口頭だけであっさりと終える。

「二階は談話室として廊下にスペースがあるくらいで、基本的にお客様個人のお部屋になっています。大きなお風呂は一階になりますのでご利用される場合はそちらで。先ほどバスルームについて言いましたが、お部屋には小さいですがバスタブとシャワーがあります。一階はまだ湯を張っていないので、申し訳ありませんがお部屋で一度シャワーを浴びてください」

 階段へ促されて先を歩きながら、泥野の声を聞く。フロアの一部は吹き抜けになっている。艶やかな手すりの先は丸くすべらかで、棒の部分には段差を作るように装飾が施されていた。豪奢ではなくシンプルな飾りは、手を置くことを想定した穏やかさだ。

 階段を登り切った山田が階段正面から少しずれて立ち止まる。横須賀も追いつき並ぶと、ソファと机、小さな本棚が置いてあるスペースが目に入った。

「そちらが談話室ですね。どれもご自由にご利用ください。夜はあちらの部屋にわたくしがおりますので、簡単な飲み物でしたらご準備します。昼は一階の食堂や応接室をご利用いただければ、一階にわたくしはおりますので」

 最後に階段を登りきった泥野が並び、それから「こちらです」とまた先導した。階段から四つ扉をすぎた五つ目の部屋の前で泥野が止まる。

 しゃり、と鍵束がスーツのジャケット下から取り出される。ベルトにかけていただろう鍵束についた鍵は十二。大きさが似通った七つと、その七つに似ている物のホルダーのついたものが二つ、やや大きい物が二つ、小さい物が一つ。

 ホルダーのついた一つが外され、鍵束はジャケットの下に戻る。

「お客様にお泊まりいただく部屋です。他の部屋と間違えないように扉に番号がありますので、入る際はご確認を。206です」

 スムーズに扉が開けられる。ふ、と香ったのはこうだろうか。香り付きの消臭剤というよりは、煙を感じる匂いだ。思い浮かぶのは線香だが、同一とまでは言い難い。

「香りモンでも使ってんのか」

「普段利用しない部屋なので、お客様がいらっしゃる前に少し。苦手な香りでしたら申し訳ありません」

 山田の言葉に泥野が「お恥ずかしい」と微苦笑しながら答える。ふん、と山田は面倒くさそうに鼻を鳴らした。

「部屋を借りるのはこっちだが、寝るに寝られネェ。原因があるならのぞいてくれ。なんのこうだ? アロマじゃねぇようだが」

「いくつか混ぜたもので、手製です。虫除けも兼ねているのでどれも多少けむっぽさがありますが、ご容赦いただけたらと」

 困ったように泥野が言葉を重ねる。山田は眉間の皺を大仰に深めると、これまた大げさにため息をついた。

「こっちが屋根を借りる側だ。悪かった。部屋を借りる」

「はい。入ってすぐ、左手側が手洗い、その先がバスルームです。手洗い正面となる右手側にクローゼット、奥にあるのはベッドとなっています。狭くて申し訳ありませんが、お好きに使ってください。先ほどお話しました干すためのハンガーと追加のタオルを持ってきますね」

 するすると説明を終えると、泥野はあっさり部屋から立ち去った。扉をついと右手で撫でた山田がそのまま中に入り、横須賀もそれに続く。こうの香りはそれほど強くなく、扉の外で感じた微かなものとさほど差異はない。

 扉を横須賀が閉めると、山田が顎でバスルームを示した。

「とりあえずシャワー借りちまえ。応対は俺がする」

「すみません」

「体調悪く感じたらはやめに言えよ。把握しておかないと面倒が」

 そこで山田は言葉を切った。バスルームの扉に手を掛けようとする横須賀を通り超すように、先程入った部屋の入り口にその顔が向けられる。

「どうかしまし」

 し、と細い指が立つ。山田の所作で反射のように耳を澄ませば、女の声が外から漏れ聞こえた。