1-1-11)逃走者
* * *
と。とと。と、と、と。とと、ととと。ととととと。
だってそうだろう。汗が落ちる。ぜえぜえと息が捨てられる。なにもかも全てを振り切るよう、駆ける。懸ける。賭ける。かけるしかできない。
ひゅ、ひゅ、と息がどんどん細くなる。何度も何度も繰り返した。何度も何度もこぼれ落ちていく。だからもう、崩れるまでの時間は短くなっていた。ざり。手のひらが痛い。離したい。自分の手には余りすぎる。手のひらの汗がいつかこれを落としてしまうのではという恐ろしさを生み、ざわざわとそこだけ異物のようだ。離したいのに捨てられない。手放してはいけない。
自身のすべてを振り切ってでもかけ続けるそれはこの手にはあまりに大きく、歪だ。ざらりとした陶器の表面は、しかしその材質とは反対に計算式を思わせるような法則性を感じさせる模様。自然の法則を無視したような、見ているだけで胸がざわつくようなそれは醜悪な心持ちを抱かせる。
唇が息を吐く以外に何度か震え歪む。何度も繰り返され、しかしそれは声にならない。今自分はどんな顔をしているのか。きっとどうしようもなく情けないものだろう。それだけはわかる。それだけしかわからない。
恐怖に歪んだすべてが、表情すらまともに作らせてくれない。今にも糸が切れてしまうんじゃないだろうか。いっそ大声で泣き出したい。泣けるわけがない。そんな余裕なんかない。
たすけて。細い声にすらならない悲鳴は、この終わりなき木張りの廊下で足音に消える。自分の悲鳴を自分で踏みにじるような心地。たとえ踏みにじらなくても誰もいないこの場所で叫ぶことはただ無意味で、ともすると危うさでしかない。
それなのに出ない悲鳴が喉を塞ぎ、苦しい。泣いてしまいたい。泣けない。
ひゅ、ひゅ、ひゅ。涙がこぼれないのが不思議な、足がもつれないのが不思議な状況。けれどもこれもさほど持たないことを知っている。それでも走るしかない。悪夢は繰り返す。できるだけ違う形を求めても、結果は同じで――
「っ」
黒。足音が乱れる。自分でどう動かしているのかもわからなくて、音で知る。知ったところで意味はない。反転、逆へ。体がぐるりと動くのに追いつかないおなかの中がぎゅうとする。でもそれしかない。
駆け込む。次の、次の曲がり角で、そこなら、右に曲がれば――視界にはいるのは、もうひとつの、黒。
反射で左に傾きかけた体を強く捕まれる。手首、手、肌。
「戻ってどうすんだボケ!」
叫びと共に目に入ったのは白いシャツと赤いネクタイ。ズボンとジャケット、サングラスが黒いけれど、黒じゃない。人。なんで。
手が、壷を奪う。やめて。やめてくれ。それは。
「っ」
はくはくと口を開けたところで、音にならない。だめ。だめだ。だって、だってそうだろう、そのせいで、
「向こうに行ってろ、デカブツが来る」
ニヤリと笑う口元からなにか読みとるなんて無理だ。ず、ず。あの黒が、怖い。デカブツ。なにかはわからないが、多分人だろう。黒じゃないはずだ。考えても意味はない。けれど、その壷は。
「……!」
壺を開けようとする指に背筋が凍る。だめだ、それは駄目だ。伝える手段なんてない。だから手を伸ばす。だめだ。ねえ、それはそんなこと、
「汚ねぇ手で触んじゃねぇよガキ」
サングラスの人が引きつるような嘲笑を見せた。廊下の向こうから、黒の音がする。どうしよう、どうすれば。足音が、聞こえる。この人まで、そんな――あれ、でも。
そもそもなんでここに人が居るんだ?
「久し振りだな」
声はひどく穏やかだった。この状況には似つかわしくないほど、柔らかい音。目の前の人が出したと思いがたく、しかし蓋を撫でる手はまるで壷に語りかけるようで。
「俺の声、好きだろう?」
なだめるような優しい色と、嘲るような声が一緒になって壷の上に落ちる。不可思議な二つが混ざりあった。
「貸してやるよ、利子つけてな」
言葉に応えるように、壺が二回目の開口をした。
* * *
「えっと、やることは二つ。一つ目は壷を返すこと。二つ目は帰ること」
障子に囲まれた部屋で、横須賀はひとつずつ言葉を並べた。細長い納戸のような部屋に障子が四面にあるのは奇妙だが、それを言及はしない。
「ここは泥神様が作ったお家の中、なので、失礼のないようにして、道具はあるので、大丈夫」
体育座りをしたまま子供が瞬く。その手にあるのは木で出来た型で、先ほど子供の腹からでてきた物だ。――正確には包帯で腹に巻き付けていたので腹から、というよりは、服の中から、と言うべきかも知れないが、どっちにしろ子供が持っていたので結果は同じである。
壷の型、というから立体なのかと横須賀は思っていたが、正方形の板が二枚蝶番でつらなっている。それが二つあるので組み合わせれば立体になるのかもしれないが、壷の形に合わせるにはこれでは四角形になってしまうのでどう使うのかはわからない。けれどもこんな動きづらそうな形でも大事に抱えていたものなのだから、きっと意味があるのだろう。そこは、横須賀の考える場所ではない。
「壷は今あるから、返すのはええと……」
思考の順を追うように言う横須賀に、山田が手を上げた。その様子に横須賀は珍しく不満を示すように眉間へ皺を寄せると、少しだけ顔を伏せ短くため息をついた。ささやかな感情をなだめるような呼気のあと、横須賀は子供の顔を覗き込む。
「そこのおじさんがしてくれるから、君は俺と帰る準備をして、全部終わったら君のことを教えて欲しい」
「文字は?」
「文字は、集めた。拾ってあるから大丈夫。頑張ったね」
最後の言葉を口にするには少し戸惑いが見えたが、それでも子供を労ろうとしている音だった。しかし、受けた子供は唇を噛む。
黙する子供の表情は険しい。まだ小学生くらいではないだろうか。十一か十二。高学年くらいはあるだろうが、伸びた手足とまだ未成熟な体、幼い顔立ちはこれからの成長を思わせる。
こういう時、横須賀はかける言葉をあまり持たない。どちらかというと向いているのは山田だ。更に言えば山田としての使える言葉が例の事件以降増えているはずなので、以前よりもかける言葉を持っているだろうと予測も出来る。けれども今、山田は黙していて――横須賀は吐きそうになるため息を飲み込んだ。
山田に不満はある。だが、子供の前で追求することではない。メモ帳をめくる。
「君のことはあとで聞くけど、今知っておきたいことがあって。ええと、君の歳を教えてくれるかな」
「十二歳」
「小学生?」
「中学生」
ぽつぽつと子供が答える。ぎゅ、と膝を抱える姿に横須賀は眉を下げたまま笑みを浮かべた。
「有り難う。じゃあ、今は『学生くん』って呼ぶね。俺はおにーちゃん、サングラスの人はおじさん、って呼んで欲しい」
「……おにーちゃん、と、おじさん」
「うん、有り難う」
確かめるような復唱に横須賀は子供の顔を伺い見ながら頷く。子供の視線が揺れ、膝の上に落ちた。
やはり横須賀にはどうすれば子供にとって丁度良いかわからない。だからやっぱり、と浮かんだ思考をなんとか宥めて、メモ帳に記した『12才 中学生』の文字を確認すると次の文字をなぞった。
「おじさんはこの場所について知っているから安心して欲しい。もしおじさんが君のことを呼ぶならええと、ガキ、って言うからごめんね。あと、デカブツ、って言ったら俺のことだから」
「……でも」
子供は頷いたが、先ほど膝に落とした視線を山田に向けると申し訳なさそうに横須賀を覗き見た。うん、と横須賀は頷いて、微苦笑を浮かべた。
「今おじさんは声が出ないから、壷を返した後のことだよ。わかっていたから大丈夫」