台詞の空行

5-3)持ち得ないもの

「太郎は先に事務所に帰ってるよ」

 横須賀が尋ねるより先に、リンが穏やかに告げた。事務所。飯塚が言うにはすることがあるということだったが、事務所での調べ物だろうか。過去の資料はあまりみないとのことだったし新しい書類は見ていなかったので想像しがたいが、今回の事件に関して山田から示された資料はさほどなかった。もしかするとなにかあったのかもしれない、と横須賀は結局思考を諦める。

 資料の所在だけ管理しても、横須賀に山田の見ているモノは想像できない。時々取り出している雑誌が同じようなものだったり、古いものであるといった程度はわかるし頻度も多少は管理しているが、所詮それだけだ。今回だって、山田が調べた秋山についての情報を横須賀はまったく知らなかった。

「どうした?」

「え」

 リンの問いに横須賀は顔を上げた。少し案じるような表情が、苦笑に変わる。

「疲れている、よな。今日は帰ってゆっくり休むといいよ」

「あ、すみません。俺」

「謝ること無いさ」

 申し訳なさそうに頭を下げる横須賀の背を、リンが穏やかにぽんぽんと叩く。ますます恐縮そうに身を縮こまらせる横須賀を見て、リンは頭を掻いた。

「気にするなって言っても難しいとは思うけど、色々今回のことは不運だったし、横は悪くないよ」

 びくり、と横須賀が肩を揺らす。リンはちらりと一瞥したものの、表情を変えはしなかった。

「太郎が決めていた。横は仕事をこなしているだけだし、やめたければいつでもやめていい立場だ。責任は太郎だ」

「いえ」

 俯いたまま、短く横須賀は答えた。リンが横須賀を見やる。青い顔。しかし表情は後悔と言うより、ただ静かに色がないものだった。

 水平気味になった眉と三白眼が足下を見下ろす。のっぺりとした表情は無機質と言えるだろう。リンは眉をしかめた。

「横は責任をとれるほどなにかしたって言えるのか?」

 リンの言葉を合図に、ひゅ、と横須賀の吸気が響いた。眉がハの字にゆがみ、口元が戦慄く。

「……横がなにかしたら、太郎に出来なかったことを変えられるって?」

 険しい表情のまま、低い声でリンが言葉を重ねた。戦慄いていた横須賀の唇が引き結ばれ、歪んだ一文字をつくる。

 答えはない。そのことを確認して、リンは髪を耳にかけるように撫でた。

「そういうことだよ。ごめんな」

 ぽん、と背中をもう一度リンが叩く。横須賀の身体は強ばったままで、さきほどと違いリンの手に反応する様子はなかった。鞄の紐を握る手は白い。

「まあ気持ちはどうしようもないよな。横が大変だったのも太郎から聞いている。今日なら俺が話聞くし、明日改めて病院で心の整理を」

「大丈夫、です」

 リンの言葉を、珍しく横須賀が遮った。目を丸くしたリンは一度目を伏せると、小さく笑った。

「明日は休め、って太郎が言ってたよ。夜遅くなったし、急ぎの依頼があるわけでもないしね。太郎も休むから、大丈夫」

「俺は平気です」

 横須賀がリンを見下ろして、短く答える。横須賀の黒目は切れ長の瞳に対して小さい故にその視線ははっきりとしていて、それでいて色が見えづらい。無機質だが顔色の悪さに馴染む表情に、リンは息を吐いた。

「横が動けなくなるとは思っていないよ。念の為整理できる場所を専門機関に作った方がいいかなってだけだ。畏まらなくても大仰なところじゃないし」

「大丈夫です、平気です。俺は仕事、できます。なにも問題ないです」

 横須賀が喘ぐように言葉を重ねる。リンは頭を掻いた。もう一度、今度は大げさにため息が響く。

「確かに、太郎が言っていたよりはよほど平気そうに見えるよ。そんな不安がらなくても太郎にとって横は便利だから、横が大丈夫なら大丈夫」

 リンの言葉に、横須賀が安堵したように息を吐いた。それから「あ」と小さく声を漏らす。

「山田さん、俺、迷惑かけて」

「仕事だから迷惑も何もないさ」

「いや、ええと、じゃなくて。あの、俺の腕、ひどくなって、山田さん少しいつもとちがったみたいで」

 大丈夫かなと思って。続けた横須賀の言葉に、リンが眉をひそめて横須賀を見据えた。

 いや、見据えたと言うのは少し違うだろう。どちらかというと、それは睨みつけるようなものにも見えて、横須賀は鞄の紐を握り直す。

 ぎゅ、と口の端が少し下に引き結ばれ、リンの視線は下に落ちた。それから小さく吐き出された息の後、顔が上がる。

「そりゃそうさ。話聞いたけど、火傷が剥がれ落ちて綺麗になったってことは人の皮が突然剥け落ちたようなもんだろ? 普通びびるし、太郎だって流石に危険だと思うだろ。横はそういうとこちょっと抜けてるよな」

 意外にも、その表情は穏やかな微苦笑だった。大事なくてよかったよ、と腕を軽く叩かれ、横須賀は首を竦める。

「そうです、か?」

「そうです、よ。横は自分のことも他人と同じくらいには見れるようになるといいかもな」

 ゆるり、と考えるように横須賀の視線が斜め下にずれる。リンが少し大きな声で笑った。

 こつん、かつん。先ほどよりも靴の音がほんの少し大きく響く。

「まあとにかく、そう言うわけだから太郎は大丈夫だ。病院行かなくても明日はゆっくり休むようにな。今日はこのまま俺が送ってくよ」

 笑うリンの表情は、綺麗な形を作っている。先ほどまでをなかったことにするような明るさに、横須賀は眉を下げた。

「有り難う、ございます」

「どういたしまして。色男に送られるのも、中々乙だろ?」

 パチン。長い睫が片方閉じられるだけなのに、悪戯じみた表情は美しい顔立ちだけでなく愛嬌や人なつっこさを伝えてくる。ウインクに対しても神妙に頷く横須賀に、リンは目を細めた。

 するり、とリンの視線が前を向く。歩みが早くなり、その縛った髪がしっぽのように揺れるのを見る。うっかりそのまま眺めそうになった横須賀は、同じように足を早めた。そして並び追いつく手前、置いていかれない距離を保ちながら歩幅を選ぶ。

「聞かないんだな」

 軽い調子の短い言葉に、横須賀は瞬いた。リンの歩調は変わらない。

 横須賀は耳の後ろから首にかけて右手を置くと、視線を自身の手首に落としながら二度ほど指で押すように弾いた。

「まあ聞かれてもどうにもしようがないけど。言いたいこととか」

 手首からリンの背中に視線が移る。ポケットに入れられた左手は少し筋張っているようで、靴の音がよく響く。ややあって、横須賀は口を開いた。

「いつもより、小さい、ですね」

「は?」

 リンが振り向く。何を言っているんだといいたげな表情は平時よりも飾り気のないもので、横須賀はゆるく微笑んだ。

「リンさんの時より、背が」

 不思議だなあって少し思いました。背を丸めながら言う横須賀の様子は、申し訳なさそうな、それでいて穏やかなものだった。目を丸くしていたリンが、は、と短く息を零し笑う。

「なんだよそれ」

 眉間に少し皺を寄せながらの笑みは、苦笑というには優しい呆れが含められていた。とん、ともう一度、横須賀は首後ろを人差し指と中指で弾く。

「すみません」

「いやいいけど。いいのかそれ」

「思っちゃって」

 覇気のない顔で横須賀が笑う。リンが続けて吐き出した息はさきほどより長く、だがため息とは違った。

「この格好じゃヒール履かないからな。その分は小さく見えると思うよ」

「ヒール」

 言葉を繰り返して、横須賀はああ、と声を漏らした。店のカウンターだけでない高低差の理由がわかり、納得したように頷く。

「少し踵高いけど男物は厚底でないかぎりたかが知れているよな。女物で好きになるような高さが武器みたいなのはあまり見かけない気がする。男物で好きになるデザインはこういうの」

 後ろ向きで歩くような形で振り返り、リンが長い足を上げて見せた。

 濃い焦げ茶のブーツは綺麗に磨かれていて、リンらしい。靴紐はしっかりとしている固めなもののようで、通し穴には鉄色の金具。踵は少しあるが二センチ程度だろう。

「格好いいです、ね」

「うん、気に入ってる。いろんな格好出来ると幅が広がっていいよな」

「リンさんは格好いいと綺麗と可愛らしいでたくさんだから、すごいですね」

 感心したように頷く横須賀の言葉にリンが瞬く。リンの表情を不思議そうに眺めた横須賀は、あ、と慌てたように声を上げた。

「すみません、ツカサ、さん、ですね」

「あ、ああうん。いや名前は格好に合うようにってだけだし、そんな気にしなくて良いけど」

 髪を掻きあげるようにしたリンが前を向き直す。裏口の鉄扉はすぐ近くだ。リンのポケットから、鍵が取り出される。

「横はいいやつだな」

 鍵を回しながらリンが呟くのを聞いて、横須賀は自身の首筋を押しなぞった。扉が開く。

「車はこっちだから」

 リンが指し示したのを見て、横須賀は頷いた。ぐり、と筋を押しすぎて、少しだけ頭の芯がぴりりと痛む。

 いいやつ、という言葉は横須賀にとって馴染まないものだ。否定はしなかったが、リンが思ったような意味で横須賀は言葉を選んでいない。リンが困るからだとかそういう気遣いは遠くて、もっと単純な、根本の話だ。

 そう、単純だ。尋ねたところでリンが答えないだろう事くらい、飯塚との会話を聞けば予想できる。そしてなにか理由があったとしても、横須賀が手助けを出来るわけではないことくらい、わかる。

 横須賀は自身の愚鈍さも、力の無さも理解している。どろりと溶けた肉、色の付いた液体。異常なそれらだけでなく、横須賀はもっと根本、単純なところで知っている。

 横須賀の声は届かない。横須賀の手はなにも持ち得ない。聞いて返事がくることなどないのに、言葉を続けたところで無意味だ。相手に迷惑をかけるだけで、結果も得られない。

 だから横須賀はそこで止める。気遣いではなく、得られない結果を求めるつもりがないだけだ。山田のように言葉巧みに引き出す事なんて出来るわけがないのだから、それはいいやつ、なんかじゃない。ただの分かり切った結末による、無為だ。

「横?」

「あ、はい。お手数おかけします、お願いします」

 リンの声に、横須賀は顔を上げてすぐ頭を下げる。せわしなさに笑うリンに、頭を上げた横須賀は、へらりと笑った。

 この場所がどこかだとか、なんなのかとか、そういうことは結局横須賀の外側にしかない。

 駐車場はがらんどうで、外はぽっかりと暗かった。

(リメイク公開: