2-7)病
「……テメェは俺の目だからな。頭は俺がやってやる。出来ないことをやれなんて言わねーし、やられても邪魔だ。下手な考え休むに似たり、と言うがな、ぶっちゃけ休むどころか悪だ悪。邪魔すんじゃネェぞ」
は、と口角をあげて山田がいつもの調子に戻る。ひそめられた眉と大きく口を引き伸ばすようにつり上がる頬。
下手な考え、と言われてしまえば横須賀はそれを否定できない。目を伏せた横須賀は、それでもどうにも落ち着かない心地だった。
赤月、叶子。そしてもうふたつ、横須賀には考えずにはいられないことがある。
「考えるな、つってんだろ」
殴ってやらねーとなんネェのか。そう続けられた言葉に、横須賀は顔を上げた。黒い小さな瞳がきょときょとと動く。虹彩が小さいものの横須賀の瞳は切れ長気味で、目自体が小さいわけではない。だから十二分な広さのある白目の中を小さな黒が動くわけで、横須賀の動揺は山田と違いわかりやすかった。
再び下がった頭を見て、山田が大仰に息を吐く。
「赤月は無駄だった、そのガキは情報が足りない。調べるにしても今考えて意味はネェし、考えるのは俺の仕事だ。……気づいたことがあるなら言え。気が向いたら考えといてやる」
言葉に横須賀が山田を見た。ひじを突いた山田はその小さな手のひらの上に顎を乗せてそっぽを向いている。面倒極まりない、という態度ではあったが、ほんの少しだけ横須賀の瞳が蛍光灯の光できらめいた。
「あの、オミドリサマ」
「あ?」
特徴的な細い眉がぴくりと跳ね、山田が横須賀を見やる。横須賀は太いハの字眉を気弱に下げながらも、それでも言葉を止めなかった。
「シュウ君と、オミドリサマを利用されていた方、は、どうなるんでしょうか」
ベッドの上の少年と、病院で優しげに声をかけた女性。二人の姿がちらつく。
「どうなるもこうなるも……赤月のガキに関しては強制退院か転院か。赤月ひとりで育ててたらしいし家族が他にいたとは聞いてない。うまく親戚かどこかが引き取らない限りもうどうしようもないだろう」
「でも、病気、は」
「……どうせ不治の病って奴なんだろ。赤月も馬鹿な奴だな。テメェが死んだらどうなるかくらいわかってただろうに」
ハ、と山田が薄く笑う。おかあさん、という子供の細い声が反響する。
「せめて、どうにか」
「青い薬とやらを探すのか? 人が死んで、赤月も死ぬ原因となったものと同じだろう薬を? お前も中々の外道だなァおい」
山田の責めるような調子に、ひゅ、と横須賀の喉が鳴る。汗が滲み、なにかを言おうとしてそれでも言い切れない。
放っておけば死んでしまう子供が居るのに、どうにかなるかもしれない可能性が存在するのに、それを追いかけることはひどく恐ろしく、子供にとっても苦しみにしか見えない。
「本来に戻るだけだ、死なせてやるのが道理だろ」
山田が静かに告げる。それはひとつの道理だ。山田の言うように、横須賀のそれはあまりに外道で、非道で、自分勝手な考えだろう。
それでも横須賀は声を出せないままだった。山田のように、死なせてやるのが道理と言い切るには、あの少年の顔が鮮明に浮かびすぎた。
「……全部戻るだけだ。赤月のガキだけじゃない。お前の会ったオミドリサマ女も、本来の正しい形に戻るだけだ。考える必要はない」
お母さんと言う子供の声。それから、頭の声が無くなったと笑う女性の顔。ぐるりと内側で、ふたつが歪む。
「あの女もこれからは専門機関に行くしかない。ガキだけじゃない。そもそもそいつはガキと違って既に道理から外れた治療をされていたらしいがな。まあよかったことだ。医師免許を持ってない胡散臭い人間から、ようやっと専門機関のまっとうな人間のところに行ける。なんにも問題ないだろう」
「でも、あの、人」
「でももなにもネェよ。赤月の異常な状態からいって、そもそもその薬がまともな部分を探す方が手間なことぐらい馬鹿でもわかるだろ。その患者はたまたま成功していたのかもしれねーけど、さっきから言ってんだろ死人だって出て――」
山田の言葉がそこでとぎれた。顎を乗せていた手が、そのまま小さな口をすっぽりと覆う。眉間に皺がより、どこかを見据えるようにその顔は遠くを見ている。
なにかを考えている、とわかってもなにが引っかかったのかまでは横須賀にはわからない。考えるなと言う山田の言葉はある一面では正しいのだ。横須賀には山田のような思考力はないし、こうやって見ていてもなにもわからない。
それでも、出会った人の事が頭に残ってしまっている。
「……失敗例、があった。成功例で、新山病院での活動が許された」
ぽつり、と山田が呟く。手のひらの下で落とされる言葉は、それでも横須賀の耳に届かないわけではない。
「新山病院での成功者はいたのか? いやさすがにわかんネェか。ただ偶然声をかけてきたのがアレで……モルモットは何人。新山病院に来てから時間はあるし噂にはなってる。心の病気。じゃあ多少はいた? 成功例……期間が違うか。そもそも、アレは」
ぶつぶつと呟いていた山田が、小さく息を吐く。顎を乗せていた手のひらを降ろして、山田は横須賀を見上げた。
「――あの異常な状況から鑑みても、薬はヤバイもんだ。だからそいつがどんなに欲したところで、渡すものがねーしあっても渡せネェ。あったら寧ろ叩き潰す」
山田の言葉に横須賀は瞳を揺らす。あの細い折れそうな体が頭に浮かび、首肯ですら記憶の中のそれを折ってしまいそうで躊躇った。
「だが、現状を確認する価値はある」
確認。その言葉を心内で復唱し、横須賀は山田をみる。眉間の皺はもう無くなっている。山田の表情を読むことは出来ず、自分の間抜けな気の弱い顔ばかり見えてしまう。
「病院に乗り込んだら確認することが増えたな。病院外でガキにもそいつにも会えれば幸いだが――そう都合良くもいかネェだろ。けどまあ、あんなんがあって放置されてんだ、アウェーすぎるしこのまま乗り込むつもりは流石にない」
横須賀が身を固くしたまま言葉を待つ。ついと山田の顔が逸らされた。追うようにそちらをみるが、別に時計や何かがあるわけでもない。
「警察か」
ぽつりと落ちた言葉に横須賀の手が強ばる。捕まらないためにも逃げろと言った山田が警察と言うのは、随分いびつに見えた。けれども山田は相変わらず読めない表情のまま、再度横須賀を見上げる。
なにもかも取り零したまま青い顔をする青年の姿に、横須賀は内側から責め立てるように粟立つものを持った。
「……警察も俺にとってはアウェーだ、乗り込む気はねぇよ。お前みたいな奴なら問題ないかもだがな、俺は清廉潔白だがやつらの目が濁ってやがるから面倒くせぇ」
くつり、と左頬をつり上げて喉を慣らし、山田が笑う。そうして立ち上がった山田が横須賀を見下ろした。
小さな山田が横須賀を見下ろす様は平時よりもあべこべに思えたが、しかし常に背筋の伸びた山田が背を丸める横須賀を見下ろすことは自然にも思える。山田が自身の机に向かうのを横須賀は目で追った。
「出掛けるぞデカブツ」
「どこ、に」
言葉に戸惑うように尋ねる。机の上を片づける手の動きも、その声の調子と同じように緩慢だ。机の引き出しから鍵束を取り出した音が、横須賀の動作をかき消すように鳴る。
「外に行く。今回の事件、話に聞いてりゃ病院とその周りくらいは調べてるだろアイツ等も」
「でも、新山病院で隠した、んじゃ」
広げたノートとルーズリーフをまとめ、新聞は机の隅に畳み直す。新聞・来客用机とだけ走り書いた付箋をノートの端に貼ると、横須賀は鞄の中に仕舞った。鍵を持った山田はするりと横須賀の隣を通り過ぎる。
「リンが情報を流してる筈だ。身元不明のタレコミでも動くってのは警察の美点だな。あとは話を聞き出すだけで良い。調べだしたばかりだから碌に情報は無いだろうが、病院について変な噂があれば聞けるだろ。使えるモンは何でも使うのが一番だ」
慌てて山田の後を追い、室内を再度目で確認してから事務所を出る。じゃらりと鍵を鳴らす山田を見下ろして、横須賀は鞄の紐を握りしめた。
「警察の方、と、親しいんです、か」
「は、まさか」
山田が吐き捨てるように笑う。ぱちくり、と横須賀が瞬く間に、鍵が閉まる。
「テメェみたいな奴なら気に入られんだろうがな、俺はどっちかっつーと逆だ逆」
鍵の束がポケットに仕舞われて、いつものように山田は振り返らずに歩き出す。山田の背中はいつも綺麗だ。資料などの保管物は乱雑としているのに、ワイシャツはきっちりアイロンで伸ばされていてそのまっすぐな背筋に見合っている。
「逆、ですか」
「ま、テメェは気にせず付いてくりゃいい。媚び売る必要はねーが、もし気にいりゃ好きに話すのも有りだ。親しかろうが親しくなかろうが話を聞き出す方法はあるから俺には関係ないがな、刑事に限っては俺が止めない限り好きにすりゃいい。利用価値は色々だ」
好きに、という言葉を横須賀は反芻する。誰かを相手にするとき、いつも山田は黙れ、と言うことが多い。横須賀に考えるなと言うあたり、交渉を求めていないからだろう。好きに話すように言われたのは、昨日のリンとの会話くらいだ。
「信頼されているんですね」
リンに対する山田の態度は、少なくとも好意的なものだったと横須賀は考えている。それ故警察に対しても同じような感想を抱き横須賀が微笑めば――山田の足が止まった。
かかとを踏まないように横須賀も立ち止まると、振り返った山田の眉間にしわが寄っているのを見る。
「……テメェの感受性はとち狂ってるのか?」
「え?」
「本気でほざいてるのか。いやテメェが嫌み言えるとは思えねーが……まぁいい。テメェは俺の目として見るもんさえ見てりゃ良いんだ。他は好きにしろ」
「え、あ、はい」
前に向き直り歩き出した山田に、横須賀が慌てて返事をして続く。もう振り返りはしないもののやや大仰に目の前で吐かれたため息に、横須賀は少し不思議そうに首を傾げた。