基準はなにか、ということについて。

(2019年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

 私は怒りの沸点が低い。特に創作に関しては瞬間湯沸かし器のようで、時折ぴーぴー音を立てて怒っている。
 今日もとにかく腹が立ってしまって、そういう理由に多いのは「技術とマウンティング」だ。見た瞬間糞野郎だと思ってしまうし、発言者を軽蔑してしまうのは非情に自分のことを棚に上げた行為だと自覚しても、中々これを直すのは難しい。

 まあ、ここは見ての通りオブラートをぽいっとしている場所なのでご容赦願いたい。読むものは自分で選ぶ。見てしまったのだから仕方ない。そういうわけで、ちょっとした自分の主義主張だ。
 言ってしまえば目くそ鼻くそ。美しさのない言葉選びだが、感情的になっている私はその原因とさほど変わらない。そういうものをざりざりと殴り書く。

 技術のマウンティングをする人間の多くはやけに尊大だ。技術の共有は糧だろうが、なぜかその技法を使わないことを稚拙という。その考え方こそが稚拙だろうと思うのだが、しかしこの場合私は私の価値で稚拙と定義し下げているので、同じ穴のむじなでもある。
 まあ、だからこそ言い切ってしまう。技術のマウンティングはただその発言者の自尊心を満たすもので、けなされる側の益になるかどうかはまったく関係ない。
 そもそも物語は多用だ。愛した物語、よみたい物語、書きたい物語があるならまずそれと向き合う必要がある。その自分の軸と発言者がかみ合っているのなら、なるほど確かに貴方の益にはなるかもしれない。だがしかし、そうでないならまずは一歩距離を置くと良い。その発言に傷ついたのならその理由を拾い上げ、貴方が向き合う価値があるかどうか今一度考えて欲しい。
 考えるための手助けになるかどうかはわからないが、向き合ういくつかの要素を書き出す。
 ただし書き手は別に編集者でも学者でもなく、ただただ技術のマウンティングがにくいド素人であり、この発言になんの意味もないのを先に示しておくので、マウンティング者の発言だけでなくこの記事においても貴方は鵜呑みにしない方がいい。咀嚼して益になるときだけ、益にして欲しいことを先に記しておく。
 まあ、前述したとおりこの記事自体マウンティング者とさほど相違がないのだ。そういうものだ。

1)その発言者は貴方にとってどんな人間か

 たとえば、その発言者が貴方にとって非常に重要な人間だったのなら一考の余地があるかもしれない。貴方が寄稿したい相手だったり、貴方が投稿する賞の審査員だったりする場合だ。傾向の分析、市場調査。そいったものはいくらか必要だろう。
 ただそれでもそのうちのひとりであることは忘れてはいけない。元々同傾向が出版されているのならそこからひとつ抜きんでて選ばれるのは難しいこともある。あくまで一考であり、安易な地図ではないことは確かだ。
 そもそもひとつの決めごとで成り立つのだったら編集者は専門家にならないだろうし、作品に苦労する人も減るだろう。無碍には出来ず、しかし悪戯に偏る理由にはなりえないのを理解した上で、その人物の発言を貴方の糧にすると良い。
 特別意味のない人間からの不愉快な言葉なら、ほうっておくのがいいだろう。傾向が偏ればいいわけではないことは、昔からだ。気になるなら文豪の言葉をなぞってみると良い。けなしたり自分はだめだといったり、まあ、兎に角昔からそんなものだ。

2)その発言は貴方の作品に必要か

 たとえば、物語はどのようなものがあるだろうか。最初から事件起きるほうがおもしろいと言う場合もあれば、最初は憂鬱と、そこから幸福になるもの。幸福から悲劇に落ちるもの。色々な好みがあるだろう。
 たとえば、言葉の不可思議を楽しむものがあるとする。それを「わけがわからない」と言う人は確かにいるだろう。意味の分かるものでなければならない。読者にわかりやすく、言葉は華美でなく。――不思議の国のアリスという物語にそれを当てはめるのはナンセンスだと思わないだろうか。
 たとえば、自分について語りはじめ、これまでどうしていたのか説明する、そんな物語があるとする。「事件は連続しなければならない、最初から事件が起きるべきだ、説明から始まるのは冗長だ」という人は確かにいるだろう。――しかし我が輩は猫であるという物語にそれを当てはめるのはナンセンスだと思わないだろうか。
 前述の例は本当に一端だ。そしてそれらを理由にオーソドックスを否定するものではない。多くの基準は、まず一歩の大事な枠である。けれどもいくつかの要素は、いくつかの要素でしかないことを私は大切にしたいのだ。
 おもしろさは重ね合わせるものだ。その人が書きたいものは何か、が大切だと私は考えている。誰に向けているのか、なにが書きたいのか。当たり前だが、書きたいものは本人の中だ。または、多くの社会であり、読み手であり、たったひとりの意見ではない。
 他者の批判に自身を罰するのは、自分を切り刻む痛みを快楽にするような危険性がある。無論、その挑戦と努力を笑うことは出来ない。頭を垂れるものだ。ただ、自作の足りなさを他者の言葉で理由にし、だからだめだと自罰的になることはいたずらに思考を停止するようで、あまり私は好ましいと思えない。それも、創作の一つであるが。

3)その発言はどのような効果を生むか

 2)の項目とほとんど同じだが、その発言を取り組むことで貴方にどのような効果があるか、また貴方がなにを望むか考えて欲しい。書き手が話の言葉を重ねたが、しかし書いたものがそのまま好まれるかは別だ。これは、貴方の理由にならないという説明でしかない。
 たとえば大多数に好まれたいのに、いわゆる年齢制限のある作品かつ、フェティシズムを同じとする人が少ないものを書いて嘆くのも少し違うだろう。その書きたいフェティシズムをいかに多数に届けるかは考える必要があるが、年齢制限は仕方がないし、制限が付かない形でも混ぜ方は非常に難しい。ただ大きな生肉を出せばいいわけではなく、その場合試行錯誤は必要だろう。
 ただ、先に上げたようなマウンティングの場合、多くの口触りのいいものでしかない。その本質の、もっと食べたい、は作品の色なのだ。ジャンルによってやることは違う。アリスを書くのにあの不思議な世界を楽しみたい場合、かみ砕いてわかりやすく、今風に。そうするのは寧ろありだろう。けれどもアリスを書くのにあの韻を楽しみたい場合、言葉を軽やかに紡ぐ面白味を研鑽することが必要になる。
 その作品をどのジャンルで、どういう形にしたいか。自分がどんな話を書きたいか。そもそも大多数を求めるのか見たいものはなんなのか。人によって多種多様な中、「これをやっていない作品はだめだ」と言い切る言葉は随分と危険だと思う。だからこそ、見極め、向き合い、拾い上げ、磨く。それを他者に任せてはならない。
 他者の意見を聞いてはいけない、ではない。その情報を選び、向き合う時間を軽視してはならないと思うのだ。

 突発に書き殴った、一趣味人の感情論である。けれども時折どうにも我慢できないので、そういう叫びを私は多分大事に思っているのだとも思う。

 玉石どれもあり得る、創作のおおらかさを私は愛している。努力は尊い、しかし馬鹿にするのは別だとも思うのだ。
 以前別記事で書いたが、「そのときのレベルによって楽しむ、磨く、向き合うが違う」という点も併せて忘れずにいたいものだ。

 願わくば、貴方の物語が貴方の形を忘れませんように。

***蛇足***

 そもそも事件性については、過去に少女漫画家が「ストーリーがないけど引き込まれると言われたがストーリーを書いているつもりだ」とのような呟きをしていた。なにがストーリーかという論は置いておき、なにをストーリーと見なすかは人により違うのは事実である。
 その作家は事件性が強くなくとも、感情の揺れ動きがストーリーであると言っていた。実際そのような作品は多い。それらをエンターテイメントでないと言うのも無粋だろう。
 また事件性についても、事件というと大規模に見えるが、そもそも題材、エピソード、イベント。言い方は多様にある。大きく揺れ動かなくとも触れあう時間、そのきっかけを面白さにする作品は多いのだ。
 簡易な断定は、これだけでなくいくつもの理由であまり好まない。

 しかし同時に、凹んでしまうときにそういった明確な基準はつい沈む理由にもなりやすく、考えすぎるのもわからなくもない。マジョリティの意見に見える物に寄り添わないこと、それにコンプレックスを持つことは私自身ある。というか、これだけいってて寧ろ多大にありすぎるところだ。
 それでも、だからこそ根底を忘れないで欲しい。気持ちの波が落ち着いたときに、作品を抱きしめるためにも。その意見が絶対だと思って筆を折る人、作品を貶める人が居ないことを切に願って、この記事を締める。

 蛇の足と言うが、蜥蜴の足かも知れないね。

(初出:2019/04/12 再掲:2023/01/19)

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