私にとっての「本」

(2019年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

 「本」はいつでもどこでもそこにある。言ってしまえば物静かな隣人のようなものだ。見ようとしなければ見えない。目を向ければある。
 私が「本」に向ける感情は大多数のものとさほど変わりなく、しかし少しばかり厄介だ。

信仰じみた感情

 私は「本」と言う物が人の手によって作られたことを特に愛している。アマチュア作品が好きなものの、流通に乗った・出版された「本」というものには特に強い気持ちを抱いていると言って良い。物語である「本」に限定される為非常に偏っているが、強い、強い感情でもってそれを捉えている。
 商業媒体に乗ると言うことは、編集者がいて、出版する会社があって、そう、書き手だけで完結しない。そしてその流通媒体にファンがいれば、なおさら強い感情を持つ。私自身は非常にえり好みする人間だが、自分が嫌悪するような内容さえ、「本」として販売されればひとつの侵してはいけない部分を持つものになるのだ。私には毒だが、私には汚泥だが、しかし誰かの救いにはなっている。そう、ある種盲目にも信じていると言って良い。

 盲目、というのは危険だと思う。たとえば危険な思想、差別的な物さえ肯定することになるからだ。所謂嘘科学のようなものや人を騙す為の嘘学問などは真っ向から否定するが、物語となると非常に難しい自覚を持っている。現代の価値観で肯定できない物を、しかし当時あった事実として受け止めてしまう。現代に生まれた差別的な物ですら、それが一時流通に乗って肯定されれば、誰かの救いだと考えかねない危うさだ。
 思考停止。それは非常に恐ろしい。だがしかしたとえばそれが現実の人間を脅かすのではなく露悪的で醜悪な作品だと言われた程度では、私はその本を否定しないだろう。そもそも物語の露悪性は文学と密接だ。それをただ醜悪というだけでなら、私はあることを決して否定しない。好みは絶対にしないが、それは、文学だ。

 ただしその文学が現実の人間を脅かさないことを前提とした上でだが。差別的な物と、実際の差別は別だと考えている。私が恐ろしいのは、その差別を気付かず差別的と判じて盲目的にあることを肯定してしまうことくらいだろう。私は物語、「本」が書き記し好まれる、その内容を否定できない。

望まれない「本」は残らない、という信仰

 実際に言えば、望まれなかろうが意思やなにかがあれば残るだろう。そして社会的な肯定が倫理的肯定とも限らず、集団心理と実際の需要が違うこともあるものだ。それでも私は或る一定の基準において、「本というのは望まれてある物だ」という考えがある。
 人が作っている、というのはそれを保証する意味もあるからだ。続刊を望まれなければ打ち切りになる。版数は限られているし、廃刊なんてすぐそこだ。たとえ切実に望んでも、一定数にたりなければ続刊が出ないことを私は知っている。

 単純に言えば、私は「本を出した」ということは多くの力が動いた保証だと思っているのだ。自然主義文学というものがある。反自然主義文学なんてものもある。文学の系統は多岐にわたるし、作家が他の傾向を否定することだって過去から現在にかけて、珍しい物ではなく繰り返してきたものだ。

 読者の好みだって様々で、露悪的なものに救われることもあれば、傷つけることもある。それを書いた書き手の心情や現状などどうでもよく、動いた心と向き合う読者だって少なくない。
 作者が続きを描きたくなくてキャラクターを崖から落とそうが、話の筋と云うものが芸術的なのかどうか論じようが、芸術というものが本統に分っていないと零そうが、それでも心が動いたのである。それが、その文字に触れる時間こそが救いだったりもするのだ。

恐らく私は変われない。

 自分のこの感性がともすれば異常性を持ち、ともすれば狂気じみたものであり、中々理解されがたい感性だとか共有しづらい物だということを、実との所自覚したのは成人して以降だ。同じように本を、物語を愛する人なら有するだろうという思い込みは自分を傷つけたし、相手をひどく刺したキョウキじみたものだっただろう。反省はしている。それでも、これが自身にとって深い深いものだから、変わらないという確信がある。というより、変わることは私を殺すことに近い物でもあるからだ。このことに触れないか、違う相手に理解を求めないか、距離をとるかが望ましい。痛みに相手を睨むことこそが悪であり、感情を持つこと自体は私の物である、と最近、ようやく考えられるようになってきた。

 以前私は、メリーポピンズリターンズに救われた、という感想とエッセイのごちゃまぜした記事を書いた。

【映画感想】メリーポピンズリターンズに救われた、ということ
(2019年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。) ※ネタバレ含みます  メリーポピンズリターンズを見ました。結論から言うと私は救われて、でもきっと、この涙があふれてどうしようもない気持ちは他人に理解されないだろう、と思ってい

 おそらくこの記事のものと、私の信仰心はだいぶ近いものだと思う。癒着していて、そのくせこの信仰だけは物語を愛する人ならわかってくれるのだろうと思っていた。けれど、そうではないのだ。

 私は絶対愛さない作品ですら、有る事、を尊く思う。それは私の心が広いのではなく、狭く、盲目だからだ。そうであってくれ、という身勝手な、利己的な感情だ。しかし私はこの感情をずっと是とするし、正だとすら思い続けるだろう。それが私にとって、私を作る物だからだ。

 そしてだからこそ、尊敬する人がそうでないと気づいた時絶望を片隅に置きながらも、しかしそれはその人が悪ではなく、絶望する自分自身が醜悪な身勝手なのだと自覚する必要がある。凄く今更だ。なにを身勝手な、と思うだろうが、視野の狭い人間などそんなものだ。盲目さ、無知さ。それらを自分のキョウキと気づかず軽率に持っていた、そういう自分を恥じる。恥じるがそれを捨てはしない。恥じるのは、扱い方であり、自認だ。

 ずっとずっと抱えていた罪悪と自分の傷の一個に向き合いながら、これまでへの謝罪を胸の内にしている。それを内側に留めるのは、今更過ぎる自認だからだ。
 おそらく自分はこの痛みを消化しきれずやはり誰かを傷つけるのだろう。からこその自認だし、そしてやはり、私は私の考えを変えられない。

 私にとって「本」は、流通し誰かの時間となった「物語」は、決して他人が踏みにじって良い物ではない、軽薄に無ければいいと言い切ってはいけないものだ。誰かを直接侵害しなければ、物語に貴賤はないと本気で信じている。個人の嫌悪とそれらは別で、だから。

 私にとって、本とは救いであり、隣人だ。
 生きる限り、どこかで存在してくれる。それだけが涙が出そうになるくらいの、さいわいであり、許しなのだ。
 永遠の片思いと、それ故に存在があり続けてほしいという信仰と、決して届かない羨望をもって、その、多くの人が関わった「本」を眩く思う。

 私はきっと、変われない。

(初出:2019/07/07 再掲:2023/01/19)

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