感想にひとつ言葉が増えた話。

(2019年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

 最近。ここ一年くらいだろうか。私には言葉が増えた、と思う。特に最近、しみじみ実感している。
 増えた言葉は、特別な知識や比喩を使っている物ではない。ひどく単純で、ひどくよくあるものだ。けれども、私にはなかったものだ。増えた言葉はとある法則によってひとつ。言葉選びは変わってもだいたい同じ理由でふえたものだから、まとめてひとつとこの記事では言ってしまおう。
 その言葉は、もったい付けるようなものではない。
 「表情が変わるさまがまざまざ浮かぶ」「映像が見える」。そう、文字を読んで浮かぶ、動くものだ。

 使ってこなかったわけではない。絵が全く見えないわけではない。それでもこれは特別なもので、この震えは自分にとって感動であり感慨を持たせるものだったから、せっかくだからここに記しておこうと思う。

1.文字主体の読書

 私はこれまでの間、特に学生時代。本によって救われてきた。文字が私を奪い、その文字に自分という思考が世界から奪われるような感覚を愛してきた。そういう中で、文字から想像する絵もあったが――実のところ私の世界は、本当に、文字ばかりに埋もれてしまうのが正しかった。

 愛した本が純文学やミステリを多く含んだからかもしれない。漫画などではキャラクターを愛していたが、本には特別キャラとして固執することはなかった。二次創作を愛していたので、その場合はキャラクタを愛していたが――商業本では、技術書・純文学・ミステリを多く含んでいた。小学生の時にミステリにはまり込む前は、確か伝記物だったか。あまりキャラクターノベルは触れなかったと思うし、触れていても漫画でときめくようなキャラクターへの固執はしなかった。だから、というには他の人の頭の中がわからないので足りないと思うが、私にとってはそれで十分なのが文字だった。
 挿絵にあるような絵は浮かぶが、キャラの表情に注視する必要はない。世界の妙、ロジック、感情の揺れ動き、特に汲み取りやすい人間心理とあやうさと言葉の美しさ。そういうものを愛していたから、文字から読み取る物は文字で、心地よさで、それで十分だったのだ。

 おそらくこの記事は話がぐるぐる動き続けると思う。けれどもせっかくだから筆の走るままに話題を動かすが、キャラクター小説として楽しんだ二次も、結局その位置から動かなかった。元となった漫画の彼らは魅力的で、彼らの行動や言葉を他の人が書いて、本編では触れられないようなものすら楽しめることが自分にとっては幸せだった。
 だけれどそれで十分だった。原作で彼らの外見は見える。動く彼らが漫画のコマのように断片的に浮かび、それ以上に彼らの言葉を愛していた。文字でよかった。そもそもキャラクタの外見情報よりも言葉や思考に気持ちがふれるところがあって、文字という媒体は自分にとって楽しみやすく、カロリーもさほど消費しない、楽しいを享受し続けられる最高の娯楽でもあったのだ。

 文字に埋もれすぎて、本を読んだ後頭の中を縦書きの文字が埋めて、自分の行動すら読んだ本の地の文で表現されることはよくあった。それくらい私にとってそれは文字を楽しむものだったから、当然起きてしまうことだったのかもしれない。文字は溢れる。私はその快楽を、愛してきた。

2.浮かぶ絵

 けれども、一応、念のために言っておくと一切映像が浮かばないわけではない。前述にもある通り、私は切り抜きのように文字から浮かべることもあった。言葉そのものや状況を愛しながらも、文字というものが自分には想像できない「館」や「部屋」を、なぜか浮かばないのに当たり前に見えているような心地をさせるところは非常に面白かった。そしてそれだけでなく、時折浮かぶ人の絵、漫画の切り抜き、挿絵のひとつ。合間合間に差し込まれるものも私にとっては娯楽で、二次創作で楽しめるものでもあった。まあ、商業小説は本当、ミステリはまだ想像できるが、特別愛した芥川龍之介などは鮮明な人の情報ではない部分を楽しみやすかったのもある(ひとによって楽しみ方は違うだろうので、これは私の場合だ)。

 ただそれは、やはり前述のとおりあくまで断片的なものだ。意識するには足りない。意識して汲み取れば、言葉にすれば浮かぶ。こういうなにか。それは文字の力だったし、見える絵も愛していた。だから私は絵が浮かぶ、という表現自体はしたことがある。どれもこれも、実際には使ったことがあって――それでも最近の実感とは一歩、二歩、三歩。おそらくもっと。距離が違っていた。

3.きっかけ

 きっかけは恐らく、とある人の小説を読むようになったから、だと思う。その人のお話は、私にとってはとても優しく、心地よく、私には書けないもので、けれども私が求めているたくさんのものを詰め込まれたもので、ただただ享受する幸せにこうべを垂れるしかないような、とても愛しいものだった。揺れ動いて、泣いて、けれどもそれは幸福で泣くしかないような暖かいもの。いわゆる萌えもあって、でも萌えという言葉では表現が足りない、愛しくて愛しくてさいわいに感謝するもの。そういうお話をコンスタントに読みつづけて、さらにその人は絵も描く人だったから、絵もたくさん拝見して。私は経験を積ませてもらった、心地がある。そのひとにいったら驚かれるだろうなと思いながらも、本当に、本当にたくさんの経験を貰った。そうして増えた言葉が、冒頭に記した「映像」にまつわる言葉だ。

 不思議だった。自分が、文字から、鮮明な映像を貰っている。私は文字を文字として消費するこの食事行為のような読書を愛していたが、それとは別の、また新しい娯楽を貰ったようだった。見える見えないの、どちらがいいといった話ではない。だって私はこれまで見えない文字だけのものを愛して、今もそうして愛し続ける敬愛する作品があって、文字以外に差し込まれる挿絵の物も愛して、どれもこれも好きだからだ。
 けれどもこの映像は、確かに、それらにくわえてひとつ娯楽を増やした。どれもこれも好きだから、それは文字から享受する情報が増えたことを示すだけで、そう、これは私にとって、一個のきらめきで発見で、大いなるさいわいだった。

4.見えたもの

 きっかけにあったような経験が理由なのではないかな、と思っている。唐突に見えたあの人の顔。切り抜きじゃなくて、そこにある。目の前にというより思考がそこにあって、文字に脳みそがすべて埋まってしまうのとはまた別の、脳みその中にその世界があって、読んでいる私はその脳の中に入る混むような二重にも三重にもなっているような感覚。そのくせそれはあまりにあたりまえにそこにあるから、見えるときは本当に、大きさとか距離とか、近いのだ。本の上に浮かぶ、ではなく、自分の手がそのキャラクターの頬に重ねることができてしまうようなくらいの距離。距離というだけなので私はそのキャラクターに手を重ねないのだけれど、そういうドラマでみるアップのようなものを、ドラマで見るような造り物という感覚よりもそこにある心地で眺める、この衝撃。気づいた時、実はその物語への感動だけではない部分で震えてしまった。
 これが、見えるということなんだ。ひとがいっている見える、は、もしかするとこれだったのかもしれない。私はもっと距離があって、本の中に閉じ込められるようなその情景を愛していたけれど。今も愛しているけれど。でも、この、こんなにも鮮やかな映像を文字から私は見た。そのことに、震えてしまった。物語じゃない部分で、自分自身に感動するなんて失礼極まりないとは思うんだけれど、本当に本当に驚いて、気づいてときの興奮を誰かわかってくれるだろうか? 私はもう一つ、こんなに物語に、文字に触れてきて今更、ようやく。ひとつぶん、見える世界が増えた。一気に開けたような、まるで世界の真理をひとつ知ったような感動。

 キャラクターの表情が鮮明に変わる。そのキャラクターが動かした手、告げた言葉、受けたキャラクターの表情。それらがまざまざと、思考する必要もなく流れてくる。
 私は文字によるカメラワークや時間経過を愛していて、そういうものは断片的な絵でもよく感じた。それは、文字での移り変わりで、文字なのに私はカメラが良く動くのも知っていた。その自然な視線誘導を愛していた。けれど、それだけじゃない。もっと別、ぬるぬる動くというのも表現として悩むが、ただ、彼らの速度、物語の速度、カメラの速度。それらがあたりまえにあって、脳みそが文字だけではない。

 なんだろうこれは。この衝撃と衝動は。この感動を言葉にするには、いくつ言葉を重ねればいいんだろうか。足りない。足りない足りない、足りない。震える口角は喜びで、ただ、ただただ感動としか言えない自分が情けなく、けれどもこの感動を享受していた。世界は確かに、その時、大きく広がったのだ。

5.増えた言葉

 それが一瞬だったのなら、その時だけだったのならこの感動は得難い体験になっただろう。けれども違う。それは積み重ねた経験による上限解放のようなものだった。私はそれ以降、何度も、何度もその体験を重ねた。

 元々絵は見えていると思った。けれどもこのリアルな映像はまた一つ違って、その人の物語は私にとって鮮やかで、そしてそれだけではなかった。

 その上限解放をされてから、私は、明確に「映像として」絵が浮かぶことが増えた。WEB小説を元々楽しんでいるのだが大好きなファンタジー小説が人間心理や歴史だけでなく、キャラクターがいきいきとくるくる動き、見えていた漫画のような部分だけでなく、まるでアニメーションのように捉えられるようになった。とあるゴシック小説なんか、ああ、私は映画でこういう、洋画のはじまりのような動きを見たことがあると思って、そういうふうに動いて見えることに感動もした。

 見えるものと見えないものはあって、どれが優れているとかではなく、私は文字のみの部分に救われてきたけれども。この突然の上限解放は新鮮で、きらきらとしていて、今私が感想を伝えるのに本当に、コマわりではなく、文字によって動いて見えるというのだけではなく、鮮やかに、ある、という意味で表情が浮かぶ、映像が見えると伝えられるのが最高の興奮となった。
 何度も何度も同じような言葉を繰り返すのは、私の喜びが重ねても重ねても足りないからだ。この、唐突なもうひとつの世界は、今更ながらに私を奮わせて止まない。そのことに、感謝している。

おわりに

 あの人の物語を読んで、絵を見て、積み重ねて。そうして広がった世界は、今愛している別の作品を、多くのこの世界にある物語をまたひとつの視点で私に見せてくれるのだ。この感動。この増えた言葉を、今も感じ続け、使える喜び。
 自分にとって文字は文字で、それをひどく愛しているけれど。このひとつがあまりに嬉しくて、それをしみじみ実感していて。言葉にしなかったけれどもふとこういうことを伝えてもいいんじゃないかな、と思ったのでここに残してみた。

 凄く広くて、凄く素敵な世界を貰った。そのことが、本当に幸せでしかたない。この記事はそういう感謝のメモのようなもので、私にとっての大事な記録で記憶だ。

 本当今更こんなに拓ける心地になるなんてなあ、と、最近ようやく馴染んだ感覚に今更しみじみとしているし、今更でもあの衝撃を鮮明に思い浮かべられる程度に、私にとってはやはり新鮮なのだ。
 文字って本当に、凄い。物語に触れられるさいわいに感謝して、触れられるときにめいいっぱい楽しんで、やっぱり私は文章を愛し続けるのだろう。

 しあわせにふくふくすると書いて幸福でもいいのかもね、とくだらないことを呟いて、感謝のしめとする。
 感想を綴るに増えた言葉が、感性が。ただただ嬉しい。

(初出:2019/10/06 再掲:2023/01/19)

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