自分のややこしい好きなものの話1

(2020年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

 好きなものの話をしようか。そう思ったので唐突に記事を書き始めています。いくつも書くかわからないけれど、せっかくなので1と付けました。
 続きを書く予定、今はないけれどね。

ややこしい好きなものの話

 人の好きなものって色々あると思います。王道だったり、言いづらい物だったり、理解されづらい物だったり。どれがよいではなく、それがその人にとって大事な物。その人がどう思うか、それだけでしかない物です。
 そういう中で、私はずっと好きなものを抱えてきました。ともすれば当たり前のように理解される共通認識として、ともすれば一切理解されなくて当然の物として。それは、実際どうではなく、個人の感覚で、だからこそうまくいかないことももどかしいことも膝を抱えたこともあったわけです。
 私は多分、あまり人と共有しがたい物を好きでいることが多かったと思います。絶対数が少ないのか、周囲との出会いなのか、はたまた両方か。原因は些事で、結果だけを抱えてきました。故に、言語化しているようで実は他者に求めることを諦めた物がいくつもあります。
 今回話題に上げるのはその内の一つ。「距離」です。

踏み込まない優しさというもの

 私は自分の創作だったりキャラクターだったり、そういったものの中で時折言っているが、踏み込まないやさしさ、手を差し出すもののそれ以上はいかないものを好んでいる節がある。
 以前、三浦仁というキャラクタの話でもちらりといれたが、私が好むサビなのだ。

 恋人、友人、相棒。どのような関係でも私は、個人、というものが守られる関係を好んでいる節がある。貴方を尊重する。それでいて、貴方に寄り添いたいから手を伸ばす。声をかける。見つめる。その人のテリトリーを守ったまま、その線の向こうで、ねえ、と声をかける優しさ。それを、私は好んでいる。けれど、この優しさ、実のところ中々共有しづらいものだ、ともわかっている。

 この記事のタイトルが「ややこしい好きなもの」とあるように、これは少し、ほんの少し、私にとって大事な当然だけれど、他人には中々求め辛い物だ。他人に求めると私が傷ついてしまう、と、学習したもののひとつかもしれない。
 例えばこの踏み込まないやさしさ。「いいよね、好き」という人は、いないわけではないと思う。距離の一線。それが、優しさだ、と受け止めてくれる人はいる。だけれどもこれを共有しようとなると、「いいよね、好き。そしてそういう一歩引いた人が無理やり踏み込んで助けに行くのが最高にもえる」という言葉とかちあうことになる。経験上。または、そもそも踏み込まないから距離がある、一線引いているとしか受け止めないかだ。どちらにせよ、それは私の好き、とは、別だ。

 ややこしいことに、私は、「いいよね、好き。そしてそういう一歩引いた人が~」の言葉をわかる、と言えてしまう。そうだよね、滾る。燃える。浪漫だ。踏み込めない人が踏み込む瞬間、その身勝手さはかっこいいと思う。好きな展開だ。
 ただ、それは、「一歩踏み込まない人が好き」という気持ちを、同時にそうじゃないんだ、とさせてしまう言葉でもあった。

 燃える展開は燃える展開として好きだ。踏み出せなかった人が踏み出すこと、そうしていいと知ること。それ自体は、最高に好きで、私は好んでいる。けれど、ただ一線。絶対超えない一線は、伝わり辛い。

 私も燃える展開を書いた、といえるものもある。ただ、その話でも、私はキャラクタに「最後の一線」は踏み越えさせなかった。そこまで踏み込んで、踏みにじるかもしれない・自分の勝手だと考えながら、それでも最後の、本当に最後の一線は、相手に向ける言葉で止まる。ねえ、と相手に語り掛けるもの。私はそういう、最後の一線、相手に選択を委ねるものが好きだ。
 浪漫は浪漫としてある。けれども、この一線は、ただただ愛しい、私が大事にしたい、「ややこしい好きなもの」なのだった。

 そして、や、でもね、が続くと、私のこの好きは、違う形になってしまう。どれだけもどかしくても、どれだけどうしようもなくとも、私はこの距離が好きだった。その一線を守れる人が、いじらしく、どうしようもなく、やるせなく、ただただくるしくともやさしい、と思う。一線を守り切る優しさが、強さにも思えていた。その手が欲しいと相手が伸ばした瞬間、その人は必死にあがく。相手の為に、相手が許してくれたスペースに踏み込むことになったとしても、相手が許可をしてくれたのならどんなに苦しくともとぷんと夜の海に潜れるような、そんな人がとても好きなのだ。
 人からすると、その距離がどうしようもなくもどかしいだけで終わるかもしれない。必死さが足りず、愛が足りないように思えるかもしれない。
 けれどもそうじゃない、そうじゃないのだ。私は、そんな風に一線を守り、どんなに苦しくとも待って、それでいて目を逸らすのではなく見守り、傍にあり、人を思う人がどうしようもなく好きなのだ。いじらしくて、いとしくて、私にとって特別な好き、なのだ。違う形の浪漫とはまた別の、そのひとだからこそ距離が、私は好きでたまらなかった。

手を伸ばす人、手を取る人

 私は所謂、人を救う太陽属性とその太陽を眩しく思いながら愛しさを胸に抱く人、が、好きなのかもしれない。世間で言うなら太陽属性と月属性、というべきだろうか。でも、この月属性は世間の様子を見るとだいぶネガティブなので、ちょっと違うかもしれない。太陽と月、という表現が好きだからついあてはめてしまうけれど、実際は不明だ。

 まあ、そういう実際は置いておこう。今必要なのはその太陽のお話で、私はこういう、笑顔が眩しく、人を思い、優しい、朗らかな人が好きだ。そしてそういう人が、誰かを思い、手を伸ばす話が好きだ。同時に、その手を取る人が好きだ。

 私が好きな太陽は、先ほどから言っている一歩の距離を守る人でもある。明るく朗らかで、なんてことないように相手に語り掛けるけど、相手が踏み込ませたくない一線は守る。知られたくないことは暴かない。ただ、自分が知っていること、相手を思っていること、相手の傍に居たいこと。いろんなことを相手に示し、手を伸ばす。貴方に手を取ってもらいたい。そう、伝える。

 私はそういう太陽に、手を伸ばす人が好きだ。手を伸ばし思う相手を信じ、相手の負荷になりたくないと願い、それでも相手の真摯な思いに、おずおずと手を伸ばす人。または、踏み込めず線の向こうで待つ相手に、勇気をもって自分の場所を見せる人。相手が踏み込んでもいいよと伝えたり、優しさに応える人が好きだ。できれば踏み込んでもらうより、多分、差し出された手を取ってくれる、自分で歩き出す人が一等好きかもしれない。

 一歩分の線を守って、距離を守って、互いに依存せず、でも歩くときに辛ければ支えになるような、頼り頼られが好きだ。

 おそらくここには、一歩踏み込む側が辛いこともあるだろう、というのも理由に入っている。
 私は、助けたいと願う人だけが苦しさにあえぐのが辛いし、お互い思い合い、傷つけないように努力し、どのくらいが適切か探り、言葉を重ねるのが一等好きなのだ。踏み込んで無理やりすくいあげる側が満身創痍になってしまうより、お互いに好きを重ね、敬意を重ね、踏み出せない勇気が出せない時間すらそっと共有し、手を伸ばした時にはその誠意に応える為に手を取る、そういう、一歩の距離を共有した優しさが、好きなのだ。

通じない、ということ

 私は私のキャラクターたちが、大抵そういう優しさを持っていることを知っている。けれど、それが人には足りないんだな、ということを今思い返すとしみじみ実感することがいくつかあった。
 私が優しいとした距離は、他人からすると物足りないのだ。私はこの優しさを守らなければ、私の描くキャラクターではないと思っている。この子たちはだからこそ、と思い、それも魅力の一つだと思って、ずっと抱えてきた。

 けれども違った。他人にとっては、足りないものは足りないのだ。「そういう優しさが魅力的だよね、だからこそ」という世界が一般的で、だから、まあ、そういうものを描くのは自分で描けばいい、ひとりで世界を作るのが正解なのだ。それこそが自創作の醍醐味だ、と思って、私はひとりでこういうものを抱えてきた。

 幸い、最近そういうものを、そしてやでもねを続けないで楽しむ人を見つけることが出来て、ああ、いいんだ、と思えもした。でもやはり一般的な好きはそこにあるし、自分のこの優しさを伝える技量の無さにぎりぎりとした気持ちも持った。

 ただ、この優しさを私は物語の中でならなんとか、その世界の納得に落とし込めると思うから、それでいい、と慰めてもいる。言葉で他人と語るよりも、私の世界の大事なものは物語に詰めた方がよっぽどいいのだ。言葉にするときは、他人と共有するよりもツイッターなどSNSを使った、ただの宣言くらいが丁度いい。共感を求めてはいけない。そういう学習をしたから、今は少し、ましになったのかな、とも思う。
 ほんの少しさみしいのは、否定しないが。

 私の好きはややこしいけれども大切なもので、他人と共有できなくとも大事に、ただただ大事にしていきたいな、と思っている。

 もう、「好き」に罪悪感を持ちたくはないからね。

(初出:2020/03/20 再掲:2023/01/19)

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