創作とコンプレックスについて。

(2019年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。)

「コンプレックスはなくならない。けれど好きなことをしている時、コンプレックスを考える時間は減るはずだ。」

 そんなようなことを、とあるイラストレーターがラジオにて言っていた。ラジオから抜粋して違う捉え方をされるのが嫌だと言っていたので具体的には触れないが、自分にとっては非常に納得がいく言葉だったので、いまだに残っている。

 私にとってコンプレックスとは常にあり続けるものだ。捉え方を変えるような言葉と出会っても、それは必ずまた暗い気持ちを呼び起こす。変えようと思って変わる物ではなく、気持ちの波と向き合いながらとにかく共にあるしかないというもの。共存するしか選択肢を持たせないそれは、そういうもの、と理解するのが一番理に適っていた。

創作のコンプレックス

 創作において、私はいくつかコンプレックスを持っている。
 それは人にとって些事だろうことで、ともすれば私の見当違いな感傷に眉を顰めるものだろう。それでも私にとっては生涯共にあるしかないものだ。その例をいくつか挙げてみよう。

・努力コンプレックス
・マイナーコンプレックス
・地味コンプレックス

 コンプレックスの名称としてこれでいいのかという問題はあるが、具体的には項目ごと話すつもりなのでこの記事においては、という定義でご理解いただきたい。そしてコンプレックスを語るが、同時にこの感情は私にとっては憎むべき敵ではなく共にあるべき存在してしまうものでしかない、というのも事実として把握していただければと思う。

 前述のコンプレックス三つは、各項目ごと微妙に理由が異なるものだ。コンプレックスと長く付き合うにあたって、その理解も自分は大切だと思っている。

・努力コンプレックスについて

 これは他者と交流することで起きたものだ。基本的に一人で居る分にはさほど問題ない物であり、究極他人と近づかなければ起こり得ないコンプレックスでもある。見なければいいのだ。ただ、見なくて済む問題でもない。

 努力コンプレックスと私が私に名付けたものは、自分が努力せず創作を楽しむだけに特化していることが原因だ。しかし、同時に努力したところでこのコンプレックスがなくなることがない、と言うのも理解している。

 いくつかこの気持ちをこじらせた原因には心当たりがある。例えば私は創作を楽しむこと、そして同じ様な趣味嗜好の人間が楽しんでくれたら至高の幸いと考える人間だった。が、紙媒体の本に憧れたタイミングで「本を出すなら責任を持て」という主張をする人間と出会い、恐怖した。合わなければ読まなくていい、好きだったら読む。それくらいのざっくりした感覚で趣味を楽しんでいた私にその言葉は恐ろしく、向上心と責任を有する人間は死刑宣告をする人間のように思えた。
 また、私は絵を描くことを好んでいたが、もう終わり、と言った絵を絵描きである人から「もっと頑張れるよ」と善意百パーセントで言われたことがあったり、私が描けなくて悩んでいる演出とまったく違う演出を(作品の意図として真逆と本人も理解したうえで)薦められたりして、「やりたいことと求められることが違う」「求められる方向を極める努力をしていない」というコンプレックスを拗らせに拗らせた過去がある。

 これらについて努力してコンプレックスがなくなるのかどうか、私にはわからない。ただほぼ毎日模写をして一冊本を終えても、私はこのコンプレックスが減るどころか増すことを実感しただけだった。(下記記事参照)

【商業資料感想】だらっとしたポーズカタログ模写をしての感想と個人反省会。
(2018年に別所で投稿したものを再掲したものとなっています。) ※最初に書き手案内※ 書き手自身のスペック ・絵も描くけど毎日文章書く程度にはがっつり文字書き主軸 ・模写は何度か行っていたが、毎日実行が続いたのは 最長で 一か月だった。(

 記事を見るとわかるが、模写と言うにはざっくりとした落書きではある。もっと忠実にじっくり眺めて描く必要があるだろうが、私にはそこまで努力が出来なかった。結局、努力不足と言えるのかもしれない。でもそもそも文章を毎日書いて、他にも趣味が多くて、そんな中でどれだけ一枚に時間をかけられるだろうか。努力というのは、してもしてもきりがないと思う。だからきっとこのコンプレックスはなくならないだろう。
 誰かからなにか言葉を貰ったら変わるかどうか。その点についても疑問だ。執行人は必ず出てくる。特に私の絵柄は欠点が目立ちやすいのもあるようだ。そして執行人は当人すら自覚しないケースも多い。デッサンも薦められたが、私はそこまで頑張れなかった。ただただ、薦められたことができなかった事実は私の怠慢を追求するようで、私はこのコンプレックスを深めることしかできていない。

 このコンプレックスは、人と関わり続けるかぎりあるだろう。私個人で楽しんでいる分には問題ないが、悩むことすら娯楽にして外に出してしまう自分は特にアドバイスを貰ってしまうことが多い。
 それが的確な赤ペン先生や回答への手順なら問題ないのだが、アドバイスをする人間はともするとする相手を見ないことが多いのも事実だ。相手を見ず過去の自分だけで言葉を投げる場合、大抵投げられる人間が言葉で死ぬことを考えない。だから私はこのコンプレックスを抱いて、怯えながら自分を守るしかないのである。

・マイナーコンプレックスについて

 私の趣味はマイナーと言われるタイプのものだ。これはマイナーであることに自身の特異性を見い出しポジティブやネガティブに浸るのではなく、ただただ一つの実感でもある。

 私は所謂、マジョリティの好むイケメンだとか強いだとか怖いだとか、そういう要素を書きたい欲求が非常に薄い。美男美女、綺麗可愛い恰好いいなどの外見的要素や、強いだとか最強だとか悲劇の人だとかそういう要素については薄いどころか皆無に近いのかもしれない。見目はそれほど目立たない方がいい。特別な力が無くていい。後述の地味コンプレックスにも近いが、このマイナーコンプレックスは「共有先の無い物を好んでしまうこと」「世間の良いとされるものへの理解力が低いこと」の悲しみや罪悪感で出来ている。

 世間の良しとするものを好めないことは世間が好むものをかけないことが原因だ。共感者が非常に少ないこと、そもそも自分の作る物を共有先がないこと、世間の良しとする表現に傷つくことすらあること、楽しめるものが少ないこと。それらはコンプレックスであり罪悪感であり、疎外感を覚えるものでもある。先に記した努力コンプレックスが外的要因と関わること、それも多くは外的要因からもたらされたことが原因かつ自分の変革を望まない故の恐怖心によるものだとしたら、このマイナーコンプレックスは外的要因と内的要因が非常に難しく絡み合ったものだ。
 自身の作品が他者の嗜好からずれていること、自身の嗜好が他者の作品からずれていること。それらが非常に奇妙なコンプレックスを作っており、誰もいない、という感覚は大きな寂しさを持っている。

 絵だけの話のようだが、これを強めた原因には文章もある。文字は美男だと言えば美男だからいい、見目のいい人間がいればそれだけで読む気がする。そんなような形で文字による創作のハードルの低さ、楽しみやすさを提案する言葉を何度か見たことがあるのだ。

 私はその、「これさえいれば」「こうであれば」の部分を好めなかった。それをないまま、文字を紡ぎ時間を書くことを楽しんだ。その提案はこれから文字を始める人のためのもので、肩の力を抜かせるものであり自分は対象外だと分かりながら、言葉を見る度孤独を感じ、疎外感を覚え、自身の作品と自身の居場所のなさに呆然とした。今も、呆然としているといえるかもしれない。

 そんな悲観的気持ちになるのは事実だが、正確に言えば誰もいないわけではない。奇跡のように自身の趣味を楽しむ人はいて、しかし同時にある一点、求める嗜好を有する人がいないという孤独感もある。ただこれらもなくなるのかと言ったら、ひとつ共有者を見つければ共有者のいないものが目につき際限がないものだとも思っている。

 ただ、このマイナーコンプレックスについては自身の孤独感でしかない為、前述の完璧コンプレックスと違い自身が黙り孤独を絶えればさほど大きなダメージはない、という点では生涯の友である実感は強いものでもあった。

・地味コンプレックスについて

 マイナーコンプレックスと似ているようで違うこれは、マイナーコンプレックスよりも自身の内側の問題だろう。
私は地味なものが好きだ。こういうと言い方は悪いかもしれない。もっと言えばシンプルなものが好きである。

 ひとつ言っておきたいのは、自分が好きだから地味で価値がないというつもりはない点だ。好きなイラストレーターさんなどは華やかとは少し違う、かもしれない。けれども非常に力を持っており有名でこの人の絵を見ないことはないだろう、なんて人もいる。その人の絵はいわゆる今風の華やかさはないが、全て美しい。それを私は「地力がある」などと称しているが、確かな画力で描かれる美しい洗練とした作品は、それだけで作品が人の目をひく力を持っている。

 けれども、私はそんな力を持っていない。完璧コンプレックスがこちらを見てくるくらいには、持っていない。持っていないから、地味なものはただ地味でしかない。美しさに昇華しきれない自身の至らなさは、やはり孤独だ。

 故にこのコンプレックスは、前述のどれよりも自分のことしか考えていないものでもある。私には華やかさがない。華やかさに憧れ、いわゆる人目を引く力の持つ絵や作品に憧れる。一目見てほれ込むようなものや、これが大好きでしかたないというような強烈な魅力を持ちえない。だから結局私の創作は他人を引き込む力が無くて、どうしようもないのだ。

 地味が好きだと言ったって、それは隠れたいからではない。私が好むものがその形であるだけで、誰かと共有出来たら嬉しい。自分の物語やキャラクター、絵がどうしようもなく心を揺らし掴み震えるような、萌えや好きで突き動かすようなパワーを持つことに憧れないわけがないだろう。

 それでも私は、なりえないと知っている。知っているから自分をなだめすかし、一人であることに慣れるしかないのだ。

 コンプレックスはなくならない。

創作のコンプレックスとの向き合い方

 ネガネガと記事を書いているように思えるが、これらのコンプレックスはなくならないからこそ、私は大事にしたいと思っていることがある。それは何故コンプレックスがなくならないか、ということだ。

 たとえば努力コンプレックスは努力しないからと言ったが、努力の中でも自分は「苦しむより楽しむ」という考え方を大事にしているという理由もあるのだ。これは「創作が趣味であること」「楽しむことが重要であること」が私にとって最重要案件だからである。
 人によって創作の理由は違うだろう。私にとって創作は、私が生きるために必要な行為だった。どんなに苦しくてもやめたくなっても、なによりこの創作とあることが私にとってさいわいであり、生涯離れられない趣味だった。だから、それだけ長い間共にある隣人と苦しむより、友人で居たかったからしかたないのである。

 コンプレックスを無くそうとして自分の根本を失ってはいけない。それは、私がコンプレックスと向き合い共に生きるための、大切な取り決めだ。

 マイナーコンプレックスは、もうしかたないだろう。こればかりは私が泣いても仲間が増える訳じゃないし、共有するために作品を出して同志がいたらラッキーとするしかない。
このコンプレックスと向き合うのに、寂しさに負けてはいけないと思っている。私はマイナーと言われる趣味を共有する人が欲しいのであり、ただ人と共有できればいいという問題ではないのだ。

 だから、メジャー趣味を好むふりをしたところで意味はない。それは目的と手段がしっちゃかめっちゃかになっているのだ。私の願いは趣味の理解であるということ。他者と交流することのみが私の創作の目的や喜びではなく、作品を楽しむことが私の喜びで、その過程で人との対話が楽しいのだ。だからこれは、寂しさを抱え時にはそっと静かに目をそらす覚悟を持つべきコンプレックスだ。

 地味コンプレックスについては、私は私の好きをはっきりと理解し、力の無さはきちんと抱えながら好きなものを望むしかないと思っている。

 マイナーの時点でも言ったが、結局自分の好きをごまかしても意味がないのだ。私は今かいている自分のものが好きで、こちらの方向で頑張りたいと思ってそちらを見ている。ならば、そこから華やかな場所に行く必要はない。

 どんな作品も描きたいかといったらかけたら楽しいだろうが、それらすべてに心を砕き向き合う時間はない。今かいている好きを掘り進めるしかできず、それすら不器用で地力が足りない。それでも、好きな方向に向かっているならそちらに歩む足を止めてはならないはずだ。

 華やかさとか共有のしやすさだとか人目を引くとか胸を掴むとか、強烈なインパクトや力にどうしても憧れてしまう。その気持ちを嘘吐かなくてもいい。でも、同時にそれは絶対手に入れられないものだと理解するしかない。
 これは自分の方向性の問題だ。他者を変えるなど出来ないのが普通で、かといって自分が変わるつもりもないのだ。変わるなら、そちらの方向へ進む形で。だからそれ以上の、華やかな方での変革はないものである。

 努力して向上心に折れない人や、好きなものが共有しやすい人が羨ましい。そういう人に対して恐怖や罪悪感もあって、どうしようもなさや孤独感もある。それらがコンプレックスだ。

 でも、と続く思考は自身の愛する者や目指すものがきちんと並べられていて、私はそういうところも含めて私だと思う。それでいい、とすら思っている。

 コンプレックスはなくならない。なら楽しむ時間を増やせばいい。

 私は私の好きでもって、その好きを選んだからこそこのコンプレックスがどうしようもないことを自覚して、心の波が落ち着くのを祈りながら、何度も揺れながら、何度も何度も自分に言い聞かせて向き合って、作品を愛するのだろう。

 あくまで私の場合の話で、だからきっとひがみだとかそういうのに呆れられてしまいそうだけれど。私にとってのコンプレックスで、向き合い方で、出来たらなくなってほしいけれどどうしようもない共存関係が、私の創作における心の動きなのだと思う。

(初出:2019/04/22 再掲:2023/01/19)

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